31:Sideダレン 公爵家当主と商会夫人
先日の一件以降、セリーヌ・アトキンスの機嫌は悪くなる一方だった。
それはダレンとの密会中でも変わらない。むしろ世間体を取り繕う必要がない分、ダレンと二人きりの時は感情の起伏が激しくなっていた。
もはや恋人らしい会話は無く、セリーヌがひとしきり不満を訴えて終わるだけだ。プリシラに勘付かれているため長く密会の時間を取ることも出来ず、それが余計にセリーヌの不満を募らせ……と悪循環である。
「あの女……、どうして気付いたの。どこまで知ってるのよ」
苛立ちを隠し切れず親指の爪を噛みながらセリーヌが問えば、向かいに座るダレンが分からないと首を横に振った。
居心地悪そうな表情。愛人との逢瀬だというのに浮かれた様子はなく、むしろ早く帰りたいとでも言いたげだが、その態度もまたセリーヌを怒らせるだけである。
「あれ以降なにも言ってこないから探りようもない。まさかこちらから話題に出すわけにもいかないだろう」
「だからってのさばらせておくつもり? あの時の態度、あれは私を見下してたわ。腹が立つ……!」
「……あれは、ただ伯爵家夫人として振る舞っただけだろう」
「それが腹立つのよ!」
苛立ちのあまりセリーヌが声を荒らげるので、ダレンは慌てて声を潜めるように彼女を宥めた。
アトキンス家の屋敷。豪邸とさえ言える屋敷の最奥にある客室。
大きな商談をする際や要人を招く際の部屋であり、日頃から人払いをしているため屋敷の使い達も指示がない限り近付いてこない。
だがあくまで人払いだ。口頭の命令でしかなく、それを破って今まさに誰かが扉の向こうで耳を澄ませていてもおかしくない。そうなれば室内にいるダレンとセリーヌでは気付きようがない。
だからこそ声を潜めるようにセリーヌを宥める。本音を言えば黙れと命じたいところだが、そんな事をすれば彼女の怒りに火を注ぎ手がつけられなくなるだろう。面倒だが下手に出るしかない。
「セリーヌ、分かったから少し落ち着いてくれ。ここで怒鳴っても仕方ないだろう」
「貴方はあの女に馬鹿にされてないから落ち着いていられるのよ。伯爵夫人として振る舞った? それってつまり私をたかが商家の夫人と見下したって事よ。それに一度も私に頭を下げなかった!」
「それは……、仕方ないだろう、プリシラは貴族の女だから」
貴族の女だから商家の夫人に頭を下げるわけがない。そう言いかけ、ダレンはしまったと口を噤んだ。
だが既に遅く、言わんとしている事を察したセリーヌは更に怒りを抱き、悔し気に下唇を噛んでいる。ダレンを睨みつける眼光は今までにないほど鋭い。
次いで赤く塗られた唇を開いたかと思えば、次から次へと恨み言を溢れさせていく。果てには、スコット・アトキンスの体調が最近良好な事までも訴えてくるではないか。不満が溢れ出てきて止めようがない。
参った、とダレンはソファの背もたれに体を預け、気付かれないよう溜息を吐いた。本当は頭を抱えたいがそれは堪えておく。
セリーヌはもっと落ち着きのある知的な女性だと思っていた。何事にも動じず男顔負けの手腕を発揮する美しい才女、世間もセリーヌに対してそんな印象を抱いているだろう。
現に、プリシラと対峙するまではおおむね印象通りの女性だった。多少感情的なところはあったが、自分にだけ見せてくれる一面として好意的に受け取れていた。
だというのに今のセリーヌはどうだ。
プリシラとの事を思い出すたびにヒステリックに怒りを露わにしている。
結局のところ、彼女が落ち着き払った才女として振る舞えるのは想定内での出来事に対してだけなのだ。
それを外れるアクシデントに対しては感情を露わにし、とりわけそれが自分のプライドに触れる件なら声を荒らげてダレンに当たり散らす。
「まさかこんな……」
「何よ、まさか『こんな女だったとは』とでも言い出すつもり!?」
「い、いや、そんな事は」
「そもそも、貴方がもっとプリシラを押さえつけていれば良かったのよ。私はちゃんとスコットを部屋に閉じ込めていたのに、貴方は好き放題に出かけさせて。ジュノだっていまだにあの女を母親と呼んで全然私に懐かないじゃない!」
「それは……。私も部屋に居るように言ってるんだが、まさかあそこまで気の強い女とは」
怒りの矛先が完全に己に向いたのを察し、ダレンがしどろもどろに弁明する。
もちろんこんな言い訳でセリーヌの機嫌が直るわけがないのだが。
「このままじゃジュノは私を母とは認めないわ。エリゼオはダレンの事を受け入れてるのに……。そういえば、最近、スコットがエリゼオに話しかけてるみたいなの」
「スコットが……。まさか、気付かれたんじゃないだろうな」
「スコットはそこまでの男じゃないわ。それより、私が心配してるのはそっちよ、まさかプリシラに勘付かれたりなんてしてないでしょうね」
「あ、ああ……。心配するな」
問題はないと返すダレンの声は少し上擦っているが、幸い――この状況で幸いもなにもがないが――感情的になっているセリーヌは気付かずに聞き流した。声量を抑え、ぶつぶつと不満を口にしている。
普段の彼女なら目敏く気付いていただろう。そしてどういう事なのかと言及し、解決策を考えていたかもしれない。もしくは更に感情を昂らせて、いよいよ外まで聞こえる声量で金切り声をあげていたか。
以前のダレンならば前者を想像したが、今のセリーヌを見ていると後者の可能性が高いと考えてしまう。となればやはりここはセリーヌを宥めるだけだ。
「頻繁に出かけているとはいえ友人のところだ。その友人も貴族とはいえ隠居している身で、交友関係が広いとは思えない。ただ顔を合わせて実の無い話をしているだけだろう」
「本当に?」
セリーヌに問われ、ダレンは頷いて返した。……だがその視線をすぐさま他所へと向けてしまう。
己の声が妙に白々しく聞こえる。それも無理はない。問題はないと話すものの、先日の一件からずっと説明し難い嫌な予感が纏わりついているのだ。
セリーヌに対するプリシラの落ち着き払った態度、彼女が口にした言葉。あれは何かを掴んでいるはずだ。
だが何を掴んでいるのかまでは分からない。ここまで関係が拗れればプリシラが迂闊に口を滑らせる事はないだろうし、探ろうと使いに部屋を漁らせても何も出てこない。彼女の手駒であろうメイドや御者も懐柔は不可能。
手の打ちようがなく、それを思うとなおのこと嫌な予感が募っていく。
「とにかく、プリシラの態度に関しては気にするな。下手に騒げばこちらが探られかねない。あれは放っておけばいい」
「……その言葉、信じてるからね」
じっとりとセリーヌが睨みつけてくる。その眼光にダレンは頬を引きつらせながら「あぁ」とだけ返した。
誰が聞いても頼りないと感じられる返事だ。ダレン自身、己の言葉が確証も信憑性も無い物だと分かっている。もちろんこれにセリーヌが気付かないわけがなく、彼女の態度はまさに『渋々納得されてやった』と言いたげである。
早急にどうにかした方が良いだろう。だが『どうにかした方が良い』と分かってはいても、プリシラの手の内が分からない以上はどうしようもない。
それでも何か……。
そんな考えが甘かったのだとダレンが思い知るのは、この会話から二ヵ月後の事。
ダレンとプリシラの結婚生活が五年目に差し掛かろうとしたある日。
フィンスター家とアトキンス商会の癒着を知らせる号外が配られたのだ。




