28:二人の息子たち
イヴからの情報は有益なものばかりだった。
商会の上層部の殆どがセリーヌの息の掛かった者だという事、スコットを診る医者も全てセリーヌが手配している事。そして『誰か』が頻繁にセリーヌに会いに来ていた事も教えてくれた。
その『誰か』はいつも裏口から秘密裏に訪問していたというのだから、正体など考えるまでもない。
「フィンスター家も相当ですが、アトキンス商会も随分ときな臭い場所ですよ。セリーヌ様はスコット様を体調が優れないのを理由にお部屋に閉じ込めて、まるで女王のように商会に君臨しているんです。我が物顔とはまさにあの事ですね」
「それほどなのね……。そういえば、スコットとセリーヌの間には子供がいたわね」
「エリゼオ様ですね。何度かお会いしました」
「確か今年で十歳、ジュノよりも一つ年上だったかしら」
「はい。……ただ、あまり年若い子を悪く言うのは気が引けますが、セリーヌ様の言いなりでまるで手下のようでした。何度かお話する機会があったんですが、スコット様については親子なのかと思えるほどに冷たい口調で……」
エリゼオとの会話を思い出したのかイヴの口調が弱くなる。
それ程までにエリゼオの態度は酷かったのだろう。次いで彼女が不満気に漏らした「ジュノ様とは大違いです」という言葉に、プリシラはティーカップを持つ手を僅かに揺らした。
心臓が跳ねる。
思い出されるのはジュノの青い瞳。だが今のジュノではない、今の彼は母を慕う子で、親しみを込めた瞳でプリシラを見つめてくれる。
対して脳裏に蘇るこの冷たい瞳は時戻しの前のジュノのものだ。母を母とも思わず一瞥すらせず、そして崖から落ちる姿を見てもなお情の欠片すら感じさせなかった。冷たい、一切の感情を失った瞳……。
エリゼオ・アトキンスはあれと同じ瞳を父であるスコットに向けているのだろう。
かつてのジュノが父であるダレンと、そして母親面をするセリーヌに感化されてプリシラを冷ややかに見ていたように。
(セリーヌも同じ事を息子に強いていたのね。気持ち悪い……)
セリーヌに対しての嫌悪感が増していく。女として、フィンスター家の夫人として、そして息子を持つ母として、なんて汚らわしいのだろうか。
だがそんな怒りの気持ちも、室内に聞こえてきたノックの音で掻き消された。
はたと我に返るのとほぼ同時に、ゆっくりと部屋の扉が開かれる。隙間からそっと顔を覗かせたのはジュノだ。冷たい瞳ではなく、穏やかな瞳でプリシラを見つめてくる。
「入って良いですか?」
「えぇ、もちろん良いわよ。何かあった?」
問いつつ、テーブルの上にあった小瓶をハンカチごとポケットにしまった。
愛しい息子にこんな汚らわしい物を見せたくない。
「イヴが戻ってきてお母様とお茶をしてると聞いたんです」
「それでわざわざ来てくれたのね。いらっしゃい、一緒にお茶をしましょう」
「はい!」
プリシラが手招きをすれば、ジュノが嬉しそうに部屋に入ってきた。
イヴに対して「おかえりなさい」と告げ、イヴもまた嬉しそうにそれに返す。アトキンス商会でエリゼオの冷たさを目の当たりにしたからか、ジュノを見つめる彼女の瞳は一際優し気だ。
そのやりとりを微笑ましく眺め、次いでプリシラはジュノと共に部屋を訪ねてきた人物に視線をやった。
「オリバー、貴方も来てくれたのね」
「ジュノ様が、イヴに『おかえりと言いたい』と仰ったので、同席させて頂こうと思いまして」
「貴方も座ってお茶をしましょう。あら、でも椅子が足りないわね」
プリシラの自室は隣の寝室と区別されてはいるものの、どちらも広いものではない。
家具調度も最低限のものしか揃えられておらず、一台のテーブルと二脚の椅子のみ。
「他の部屋から持ってきた方が良いかしら。それにカップも紅茶も足りないわね」
「俺は立ったままで問題ありません。実はレッグ医師の手伝いがあり、そう長くも居られないんです」
「僕も、さっきお茶を飲んでいたので大丈夫です。それに椅子に座らなくても平気です。もう九歳ですから、こういう時は女性に譲らないと」
ジュノが誇らしげに告げる。大人ぶり背伸びをしたい年頃なのだろう、胸を張る姿の可愛らしさといったらない。
もっとも、ジュノはフィンスター家の嫡男であり、対してイヴはフィンスター家の侍女。互いの立場は明確で、本来ならば性別や年齢に限らずジュノが椅子に座るべきである。
だがこの優しさをどうして断れるというのか。
イヴが愛でるように目を細めて「ありがとうございます、素敵な紳士様」と感謝を告げた。褒められたジュノは得意げで、それがまた愛おしい。
「イヴ、実家はどうだった? ご両親や兄弟は?」
そうイヴに尋ねたのはジュノだ。
「みんな元気でしたよ。プリシラ様付きとして働いていると話したら立派になってと褒めてくれました。末の妹は田舎に飽きているみたいで、今の流行りは何か、人気の舞台は見に行ったのか、女性はどんな服装をしているのか、と質問責めにあってしまいました。でもゆっくりと家族と過ごす事が出来て良かったです」
「そっか、良かった。イヴは忙しくてあまり実家に帰れてないから、申し訳なく思ってたんだ……」
「まぁ、ジュノ様、そんな風に思ってくださっていたんですね。お心遣いありがとうございます」
イヴが感謝を告げれば、ジュノが柔らかく微笑んで返した。
ジュノは、否、彼だけではなくフィンスター家の殆どの者達が、イヴは一ヵ月の休暇を取って実家に帰っていたと考えている。
少し長めの休みではあるものの、彼女の故郷が遠い事と、滅多に帰れていない事もあって疑われずに済んだ。むしろダレンやフィンスター家に勤める者達からしたら、プリシラの味方が一人減ってせいぜいしたとでも思っているだろう。
まさかアトキンス商会に潜り込んでいたとは誰も思うまい。
事実を知っているのはこの計画を立てたプリシラと、アトキンス商会に潜り込ませる手筈を整えたスコット。そして有事の際のフォローを頼んでおいたオリバーとレッグ医師だけだ。
ジュノを騙す罪悪感はあるが、今回の件には関与させたくない。
……それに、ジュノは既にダレンとセリーヌの事を知っているはずだ。これ以上彼に背負わせるわけにはいかない。
「あ、……お母様、僕もう失礼します」
「もう行ってしまうの? 何かあるのかしら」
「家庭教師の先生が来るんです。ちょっとの時間だけどお母様とお茶が出来て良かったです」
ジュノがペコリと頭を下げて部屋を去っていく。
それに続くのはオリバーだ。彼もまたレッグ医師のもとへ行かないといけないと話し、深く頭を下げて一礼するとジュノと共に部屋を出て行ってしまった。
二人が居たのは僅かな時間だ。
お茶とは言いつつも二人共なにも飲んでおらず、プリシラとイヴの手元にあるカップの中身も殆ど減っていない。
だがプリシラにとっては心温まる時間だった。
話せて良かった、僅かな時間でも一緒に過ごせて良かった。心からそう思える。
(セリーヌ、残念だけど今回はジュノは渡さないわ。あの子は私の息子、私が護るの。……たとえフィンスター家がどうなろうとも)
そうプリシラは心に決め、改めるようにイヴを呼んだ。
「イヴ、もしフィンスター家に何かあったら、……いえ、何かは確実に起こるから、その時はジュノを連れて田舎に帰って欲しいの」
プリシラが告げれば、突然のこの話にイヴが目を丸くさせた。
その背後、閉じられた窓辺。艶のある黒毛の猫が一度高くニャーンと鳴くと、窓をすり抜けて外へと消えていった。
プリシラの耳にチリンと鈴の音が届いた。まるで別れの挨拶のようで、それでいて、「もう探し物は終わったでしょう」とプリシラを鼓舞するかのように……。




