27:イヴの帰還と小瓶
クローディアの屋敷でスコットと会ってから一ヵ月後、プリシラが自室で本を読んでいると控えめなノックの音が聞こえてきた。
誰かと問えばイヴの声が返ってくる。入室を許可すればティートロリーと共にイヴが顔を覗かせた。
その姿にプリシラの胸に安堵が湧く。思わず立ち上がり駆け寄ろうとすれば、苦笑交じりのイヴに「落ち着いてください」と宥められてしまった。
「お茶のご用意をしてきましたから、ゆっくりとお話ししましょう」
「そうね。ごめんなさい、久しぶりなのと無事に帰ってきてくれたことが嬉しくてつい」
プリシラが己の落ち着きの無さを恥じれば、イヴもまた苦笑と共に「私もプリシラ様に会いたかったです」と答えてくれた。
そうして手際よくお茶の用意がされてテーブルセットに着く。
ふわりと漂う紅茶の香り、向かいに座って微笑むイヴ。プリシラの胸の内に穏やかさが戻ってくる。
一ヵ月ぶりの心温まるお茶の時間。イヴに淹れて貰った紅茶はとりわけ味わい深く温かく感じられ、胸の内側にまで染み渡っていくかのようだ。
「イヴ、突然おかしな事を頼んでしまってごめんなさい。何か大変な事はなかった?」
「大丈夫です。クローディア様からの紹介状のおかげで疑われずに雇われましたし、スコット様も良くしてくださいました。なにより私はアミール家とフィンスター家を股にかける侍女ですから、アトキンス商会ぐらいどうってことありませんよ」
大袈裟に胸を張り得意げに話すイヴに、プリシラも思わずクスと笑ってしまう。
だがイヴが畏まった口調で「それで」と話をし始めると、笑みを消して真面目な顔で彼女を見た。
普段ならば穏やかに微笑んでテーブルを挟むイヴが、今は深刻な表情を浮かべている。ポケットから取り出したの綺麗に畳まれたハンカチだ。一枚布にしては妙に膨らんでいる。
それをそっと開けば小瓶が一つ。中には透明な液体が半分程度入っている。
「これは?」
「アトキンス家から持ってまいりました。スコット様のお薬とのことで、スコット様の料理にだけ入れられているものです」
「スコットの薬……」
「セリーヌ様が厳重に管理されているものですが、妙に気になってしまって……。なぜでしょうか、まるで誰かが『これだ』と言っているような気がしたんです」
不思議そうにイヴが件の薬を眺める。
理由は分からない、分からないが、この薬が何かあると感じているのだ。
見えない黒猫が、この薬に対して前足で砂を掛ける仕草をしているとは気付かず。
「そう、それで持ってきてくれたのね。ありがとう。これはレッグ医師に見てもらいましょう」
「とりあえず私のこちらでの休暇期間も終わりそうだったので、この薬だけを持ってきました。もしまた潜入が必要ならいつでもお申し付けください」
「ええ、ありがとう。心強いわ」
感謝を示せば、イヴが嬉しそうに笑ってくれた。
◆◆◆
一ヵ月前、クローディアからスコットの話を聞いた後、プリシラは彼に話をする事にした。
もちろんクローディアの正体や時戻しについては伏せておく。混乱を招くだけだ。
できるだけ落ち着いて、溢れ出しそうになる嫌悪を押さえつけて、『セリーヌ・アトキンスは貴方を殺そうとしている』と『セリーヌ・アトキンスとダレン・フィンスターは不貞の仲にある』と伝えた。
それに対してのスコットの反応は意外なものだった。話を聞いている時の表情は痛々しいものではあったが、それでも取り乱すような真似はせず落ち着いていた。それどころか、どこか予想していたような色さえ見せていたのだ。
曰く、セリーヌの不貞については既に勘付いていたという。だがその相手は分からず、探ろうともしなかった……。
『セリーヌは商会を更に大きくしてくれました。私には勿体ない女性です。なので息子と商会を大事に想ってくれているのならと考えていたんです』
そう弱々しく語るスコットは憐れの一言に尽きる。
殺されかけていると分かってもなお怒りより落胆の気持ちが勝るのだろう。ここで彼がセリーヌとダレンに怒りを覚えて立ち上がれば……と考えていたがその余裕も無いのだろう。
痩せ衰えたのは彼の体だけではない。心も衰えさせられてしまったのだ。
スコットの姿に、かつての、時戻しで戻る前の自分の姿が重なる。あの時のプリシラもまた心が折れきっていて、きっと『崖から突き落とされて殺される』と言われても落胆と恐怖しか抱かなかっただろう。
だが今のプリシラは違う。スコットの話を聞いて、胸に抱くのは彼への同情と、それを上回る怒りだ。
その想いに突き動かされるようにプリシラはスコットに提案した。
それが、プリシラの侍女であるイヴをアトキンス商会に潜り込ませて探らせるという案だ。
◆◆◆
「でも、プリシラ様にアトキンス商会に行くように頼まれた時はさすがに驚きました」
「私も心配だったけど、他に頼めるひとがいなかったの。オリバーは御者だから内部にまでは潜り込めないし、レッグ医師も同じ。クローディアは……、協力はしてくれるけど、彼女ちょっと変わってるから」
「つまり私が一番プリシラ様のお役に立てるという事ですね」
誇らしげなイヴの様子に、この突拍子もない頼みごとを不満に思ったり疑う色はない。
それに感謝を示し、次いでプリシラはテーブルの上に置かれた薬を手に取った。小瓶に入った白色の薬剤。ラベルも何も貼られていないので何の薬かは分からない。軽く揺すると液体が揺れてチャプと軽い音がした。
再びテーブルの上に視線をやれば、黒毛の猫がじっとりとした目つきで小瓶を見つめている。
後ろに倒された耳、ぱたんぱたんと音もなくテーブルを叩く尻尾。全てが不機嫌を露わにしており、イヴに見せてあげたいくらいだ。
「この薬のこと、スコットには話したの?」
「はい。まだ何も分かってはおりませんし確証も無いのですが、一応お話はしておきました。セリーヌ様に問うような事はしないけれど食事には気を付けておくと」
「結果が分かったらすぐに彼に知らせましょう。……ただの薬ならそれで良いんだけれど」
口にはしたものの、プリシラの胸の内には「そんなわけがない」という否定の気持ちが満ちていた。
イヴが見つけた薬。だがそのイヴを誘導したのは鈴の猫だ。魔女が貸してくれた探し物の猫。
これはきっと飲んだ者を死へと誘う毒に違いない。セリーヌはそれを薬と称して少しずつ少しずつスコットに盛っていたのだ。
はたして、スコットが死んだから頃合いを見て翌年ダレンがプリシラを殺したのか。
それとも、どのみちダレンはプリシラを六年目の結婚記念日に殺すと決めていて、たまたまそれより先にスコットの限界がきたのか。
スコットが毒で殺されてプリシラが崖から落とされたのは、同じ方法だと勘付かれると危惧したからか。プリシラの死は事故にするつもりだったのか、それとも『己の虚弱さを苦に自殺した』とでもするつもりだったのか……。
まるで小瓶から溢れ出すように疑問が次から次へと浮かび、頭の中を占めていく。
だがプリシラは小さく笑みを浮かべてそれらを掻き消した。
自虐的でいて嘲笑の色が濃い笑み、それと共に小瓶を鋭く睨みつける。
(あんな男達の考えなんて、理解しようとするだけ無駄だわ)
そう自分に言い聞かせ、小瓶をハンカチに包んで視界から隠すと、久方ぶりのイヴとのお茶を楽しむために意識を切り替えた。




