24:言葉にしないからこそ
一度零れた涙は抑えることが出来ず、堰を切ったように溢れ出した。
息を詰まらせ、声を潜めて、訴え叫びたくなる言葉を飲み込んで涙を零す……。
部屋の静けさが無性に寂しく思え、それがまた哀しみを増させた。前回の六年間では何度もこの部屋で一人涙を流したが、今回は初だ。今回もまたと思えばより涙が溢れる。
だがノックの音が聞こえると、はっと息を飲んで顔を上げた。
誰か来た。慌ててハンカチで目元を拭い、声が震えそうになるのをなんとか落ち着かせて入室の許可を出す。
入ってきたのはオリバーだ。
「レッグ医師から薬を預かっております。手が荒れてしまったと……」
話の途中でオリバーが言葉を詰まらせた。彼の表情が強張ったものに変わる。
プリシラが泣いていた事に気付いたのだ。
悟られまいと柔らかな笑みを浮かべ「わざわざ持ってきてくれたのね」と彼を労ったが、その笑みがぎこちないものなのは言うまでもない。それにハンカチで無理に目元を拭ってしまったため、赤くなってしまっているかもしれない。
現にプリシラが気丈に振る舞ってもオリバーは困惑の色を浮かべており、眉尻を下げたその表情は弱々しくさえ見える。
「用意が出来たら取りに行くと伝えておいたのに、ごめんなさいね。忙しかったでしょう?」
「いえ、俺もちょうど休憩に入るタイミングでしたから。……それより」
「この季節になるとどうしても手が荒れてしまうの。痛みは殆どないんだけど、水に触れると少し痛んで、何か良い薬はないかとレッグ医師に相談していたのよ」
「……プリシラ様」
プリシラの名前を呼ぶオリバーの声には悲痛そうな色が混ざり、まるで彼が傷ついているかのようだ。
だがプリシラはそれに対しても気付かないふりをしてオリバーから薬を受け取った。小さな容器に入ったハンドクリーム。蓋を開けるとふわりと柑橘系の香りが鼻を擽る。
「良い香り」と小さく呟くが、それがこの場の誤魔化しなのは言うまでもない。
「わざわざありがとう、オリバー。レッグ医師にお礼を言っておいて」
「プリシラ様、何かあったのですか」
痺れを切らして単刀直入に聞いてくるオリバーに、プリシラは僅かに肩を震わせてしまった。
上手く取り繕えない。正面に立つ彼の顔を見上げることが出来ない。このままハンドクリームの話をして誤魔化さなければと思えども口を開くことが出来ない。胸の内が漏れ出そうになるのを耐えるので精一杯だ。
そんなプリシラの胸中を想ったのか、オリバーがそっと手を伸ばしてくる。
だがオリバーの手が触れる直前、プリシラはさっと身を引いた。
「……っ!」
明確な拒絶の行動にオリバーが息を呑む。伸ばしかけた手を反射的に引き、切なげだった顔を痛々し気に歪める。
困惑と悲痛な色を綯交ぜにした瞳に見つめられ、プリシラは己の胸が痛みを覚える音を聞いた。拒絶をした身だというのに自分まで息苦しくなってくる。
「違うの!」と咄嗟に出た声は己の声とは思えない程に必死だ。
「違う……、今のは貴方を拒絶したわけじゃないの」
「気になさらないでください。不用意に触れようとした俺が悪いんです」
「そうじゃないの。……出来るなら、私も貴方に触れて欲しかった」
優しく腕を擦って慰めて欲しい。大きな手で包むように肩を撫でて欲しい。願わくば、彼の逞しい腕の中に引き寄せられたい……。
そんな願望がプリシラの口から漏れる。掠れるような、乞うような声。
さすがに彼の顔を見つめながら告げる事が出来ずに俯きながら話せば、視界の隅で、行き場の無くなったオリバーの手が僅かに震えるのが見えた。
強く握りしめるのはやり場のない思いの現われか。「……俺もです」と掠れた声で同意されるも、それでもプリシラは彼を見上げることが出来ずにいた。
彼の手に応えたい。
だけどそれは許されない。
「私は、あの男達と同じになるわけにはいかないの」
「男達……。ダレン様の事ですか? 彼の他には……」
他に誰がいるのかと問いかけ、だが途中でオリバーが言葉を止めた。
プリシラが口にした『男達』という複数形の意味。ダレンと誰が居るのか、それを理解したのだ。
「ダレンからの愛がなくても、彼の愛が誰に捧げられていたとしても、私はフィンスター家の夫人。それを覆すことは彼等と同じに成り下がるということよ」
ダレンとセリーヌの不義理を許せないからこそ、ここでオリバーに癒しを求めて触れ合うことは出来ない。
そうプリシラが訴えれば、オリバーが小さく息を吐いたのが聞こえてきた。「かしこまりました」という返答の声は落ち着いている。
プリシラが恐る恐る窺うように顔を上げれば、穏やかに微笑む彼の顔があった。困惑も悲痛な色も失せ、憤りの色も無い。優しい笑みだ。
「……オリバー」
「俺もプリシラ様を不貞を行う女性に貶める気はありません。貴女がそう在ろうとするのなら、触れる事も、この想いを口にする事も致しません。貴女はフィンスター家の夫人で、俺はフィンスター家の御者です」
まっすぐに見つめて告げてくるオリバーの声に迷いはない。声色こそ柔らかいが強い意思が窺える。
その言葉に背を押されるようにプリシラも彼を見上げ、深く一度頷いて返した。
彼の男としての想いを一人の女として聞けたらどれだけ幸せだったろうか。
だが今は、それを良しとしない考えを彼が汲んでくれた事が嬉しく思える。
「それでは俺は失礼します。レッグ医師には渡した旨を伝えておきますので、何か不明な点があれば彼に」
「分かったわ。ありがとう」
改めて礼を告げれば、オリバーが一礼して部屋を去っていった。
迷いの無い歩み。カチャンと静かに閉まる扉の音……。
室内に一人になった事を確認し、プリシラは深くゆっくりと、熱っぽい吐息を漏らした。
既に胸には悲壮感は無く、愛が無い結婚をさせられた己への憐れみも無い。
胸に残るのはオリバーの声だけだ。
愛の言葉を口にしないという彼の愛が、今はなにより嬉しかった。




