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02:六年前の夫と息子


 

 六年前に戻っている。

 それも、ダレンと結婚した直後に。


 そうプリシラが結論付けたのは混乱の夜が明けた朝。

 夢かもしれないという考えのもと一度眠りについたが、目を覚ましても何も変わってはいなかった。

 鏡に映る若い自分。屋敷の者達の誰もが最後に見た時よりも若く、屋敷を去っていったはずの者も当然のように働いている。

 挙げ句、今がいつなのかと恐る恐る問えば、誰もが口を揃えて六年前の日付を答えてきた。


 ダレンと結婚した年。式を挙げた翌日。

 憐れな日陰生活の始まり。そしてあの終わりに続く……。


「もう一度あんな人生を送るなんて冗談じゃないわ」


 一晩経って落ち着きを取り戻し、同時にプリシラの胸に湧き上がるのは不条理な境遇と結末への怒りだ。

 その怒りに突き動かされるようにプリシラは外出の準備を始めた。



 気分的に黒いワンピースを選び部屋を出て、居合わせたメイドに馬車の準備をするように命じる。

 数年後こそお座成りな態度が常となっていたメイド達だが、さすがに最初の年はプリシラを敬う気持ちがあったようで、命じれば大人しく頭を下げて去っていった。もっとも、その態度もどことなくプリシラを品定めするような色があり気分の良いものではなかったのだが。

 それを見届けるのとほぼ同時に、背後から「おい」と声を掛けられた。


 ぞわりと背筋が震える。

 この声を忘れるわけがない。

 死ぬ間際まで聞いた忌々しい声。


「どこに行くんだ」

「……ダレン、様」


 ゆっくりと振り返れば、そこに居たのは夫であるダレン・フィンスター。

 やはり彼も六年前の姿をしている。といっても結婚した当時すでにダレンは三十二歳で、最後にプリシラが見た彼は三十七歳。既に成人しきっているため見間違うほどの変化ではない。

 最後に見たダレンから渋さを引き、若さを足す、その程度だ。なにより鋭い眼光は記憶にある彼のものとなんら変わらない。


 プリシラの心臓がどくりと跳ね上がった。

 暴れるように鼓動が早鐘を打ち、じわりと首筋に熱い汗が浮かぶ。

 突き落とされた時の浮遊感が、意識が虚ろになっていく感覚が、体と心に蘇ってくる。一瞬にして体が凍てつくような寒さを覚えて気持ちが悪い。


「なにを勝手な事をしている」

「それは……」

「馬車を出すように言っていたな。そんな話は聞いていないぞ、どこに行くつもりなんだ」


 ダレンの口調には問い詰めるような厳しい色がある。否、それしかない。

 この口調に怯えていた当時の事を思い出す。何か言われるたびに怯え、不安を抱き、追い詰められ、自室に逃げ帰っていた。

 そのたびにプリシラの心は傷付き削れていったのだ。ダレンの言葉に傷付き泣いた回数はもう思い出せない


 だが今は違う。

 怯えも不安も無く、傷つきもしない。むしろ湧き上がるこれは……、怒りだ。


(どういう理屈で今ここに私がいるのかは分からないけれど、二度もこの男に屈する必要はないわ)


 そう考え、プリシラは決意を宿すようにダレンを見上げた。

 じっとダレンの茶色い瞳を見据えれば、一瞬彼が怯んだ気がした。


「私、これから海を見に行きます。よろしければダレン様もご一緒にどうですか?」

「海だと? なぜそんな所に行かねばならない」

「あら残念。では今度は私からお尋ねさせて頂きます。昨夜はどこにいらしていたんですか?」


 はっきりとプリシラが問えば、ダレンが見て分かるほどに顔を顰めた。

 突然なにを、とでも言いたいのだろう。

 だがこれはプリシラからしたら当然の質問だ。


 六年前は問えなかった。

 そして六年間で、彼がどこで誰と夜を過ごしていたかを悟ることが出来た。


(大方、あの女のご機嫌取りでもしていたんでしょうけれど)


 既に分かっているが、それでもプリシラは見つめることで答えを求めた。


「昨夜は……。仕事が残っていたんだ」

「そうですか。私寝室で待っておりましたが、なぜ一言も仰ってくださらなかったんですか?」


 共に眠れないのならせめてそれを伝えるべきだ。それが夫として果たすべき義理ではないか。

 そうプリシラが視線に乗せて訴えれば、責められている事を察してかダレンが眉根を寄せた。更なる言及をしてくるとは思っていなかったのだろう。

 だが流石に自分の年齢の半分しかない女に臆する様子は無く、むしろ不快だと言いたげな表情で口を開いた。


「まだ昼にもなっていないうちに夜がどうのと騒ぐな。はしたない女だ」


 吐き捨てるように言い切り、挙げ句「勝手な行動をとるな」と命じるやダレンがその場を去っていく。

 大方、言い訳をするよりも威圧的に押さえつけた方が手っ取り早いと考えたのだろう。振り返る事もなく去っていく背中は、以前の人生で見たものとなんら変わらない。

 あの背中を悲しさと縋りたい気持ちで見届けたのは六年前だ。何度名前を呼び手を伸ばそうとした事か。

 その六年前は今でもある。だがもう悲しさは湧かない。縋り付く気も起きない。


(どうせ気紛れに寝室に来ていても何も変わらなかったでしょうね。最悪な人生だったけど、あの男に汚されずに終えられたのは不幸中の幸いだったのかしら)


 そんな事を考える余裕すら今のプリシラにはあった。

 随分な心境の変化ではあるが、六年間も蔑ろにされ、その果てに殺されたのなら冷めきって当然だ。


 そうして自分もまたダレンの事など振り返る気も無いと歩き出そうとし……、「お母様?」という声にぴたりと足を止めた。

 振り返れば幼い子供が部屋の扉からこちらを見ている。眉尻を下げた不安そうな表情。


「……ジュノ」


 プリシラが呼べば、ジュノが部屋から出てこちらに近付いてきた。

 触らずとも柔らかさの分かるふわふわとした金色の髪。幼子特有のその猫っ毛は愛らしく、まるで人形のようなあどけない顔でプリシラを見上げてきた。海のような深い青色の瞳。その瞳に冷たさは感じられず、むしろ輝くようにプリシラを見つめてくる。

 ……今は、だが。


(あぁ、そうだったわ……。最初の頃はジュノも私に心を開こうとしてくれたのよね……)


 懐かしさがプリシラの胸に湧く。

 ダレンに対しては六年前に戻ってもなお冷めた気持ちしか湧かないが、大きな瞳で見上げてくるこの幼子に対しては心が揺らいでしまう。

 とりわけジュノは十一歳から六歳に戻っているのだ。この違いは大きい。


「お母様、どこかに行くんですか?」

「海を見に行くのよ」

「海にですか? それなら」


 僕も、と言いかけたジュノの言葉に彼を呼ぶ声が被さった。

 去っていったはずのダレンがこちらを睨みつけている。もう一度ジュノを呼ぶと威圧的に「こちらに来なさい」と命じた。

 父に呼ばれ、ジュノの幼い顔に躊躇いが浮かんだ。ダレンとプリシラを交互に見る仕草には困惑の色が強く浮かんでいる。


「ジュノ、何をしてる。この後は家庭教師が来るだろう。早く準備をしなさい」

「……はい、お父様」


 急かすダレンの声にジュノが応じる。

 だがやはり後ろ髪を引かれる思いがあるようで、プリシラに対して「つぎに海に行く時は僕も連れて行ってください」と告げてきた。

 一緒に海を見に行くと言いながらも一瞥すらせずに去っていった、あの冷たい瞳の少年とは違う。今目の前にいる幼子には愛らしさと、これから母になる女性を慕う純粋さがある。プリシラと共に過ごしたいと求めてくれているのだ。


 記憶の中のジュノと今目の前で話しかけてくるジュノのギャップにプリシラは僅かに目を細めながら、少し上擦った声で「えぇ、分かったわ」と返した。




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