18:温かな時間
その日もプリシラはダレンの言いつけを無視して出掛ける事にした。
外出を告げれば殆どの者が眉を顰め、中には難癖をつけて引き留めようしたり、ダレンに知らせるためにそそくさと場を離れて行く者もいる。
以前のプリシラであれば居心地の悪さを覚えただろうが、今のプリシラがそんなものを気にするわけがない。気持ちは冷める一方だ。
たった一人の、それもまだ十八歳と年若い少女の数時間程度の外出に、親よりも上の年代の者達がよくもここまで露骨な態度を取れるものだと呆れすら抱いてしまう。
滑稽、無様、そんな言葉が頭に浮かぶ。
「いつもの友人に会いに行くだけよ」
探られるのは気分が悪く、自ら打ち明けて、プリシラは準備のために一度自室へと戻っていった。
手早く着替えて屋敷の外へと出る。
プリシラの行先が分かればもう良いのだろう、先程まで訝し気ながらに接してきた者達は一転して見送りにも出てこない。
それはそれでせいせいして良い。今更見送りされても薄ら寒さを覚えるだけだ。
なにより……、とプリシラは心の中で小さく呟き、門の前に控えている人物の姿を見つけて僅かに表情を明るくさせた。
「オリバー」
名前を口にすれば、呼ばれた青年がこちらを向いた。
凛々しさと爽やかさを持ち合わせた顔付き。穏やかに目を細めてプリシラを見つめてくる。
「プリシラ様」と呼び返してくる声は低く落ち着きがあり耳に心地良い。プリシラにとって数少ない、むしろ片手の人数も居ない、大事な味方だ。
「急に出かけるなんて言い出してごめんなさい」
「いえ、構いません。いつでも馬車の準備は出来ておりますので」
「ありがとう。でも馬車は平気でも貴方は大丈夫だった? 何か仕事があったんじゃない?」
プリシラが問えば、オリバーが僅かに目を丸くさせた。
次いでふっと軽く笑う。穏やかなその表情に、プリシラの胸が微かにトクリと跳ねた。
「仕事も何も、俺の仕事はプリシラ様の足になる事ですよ」
穏やかな笑みで話すオリバーの言葉に、プリシラは思わず「あっ」と小さく声をあげてしまった。
確かにそうだ。はたと口に手を当てれば、唖然としたその態度が面白かったのかオリバーがより笑みを強めた。
だがすぐさま笑みを消して「失礼しました」と謝罪の言葉を口にするのは、プリシラがフィンスター家夫人だからだ。普通であれば夫人の失態を御者が笑うなど許される事ではない。もっとも、プリシラには彼を咎める気は無いのだが。
「私がおかしなことを言ったんだもの、気にしないで。それに出かけることをあまりよく思われてないから、つい……」
自分の外出は誰にも喜ばれない。家に籠っていろと誰もが思っている。
そんな考えがプリシラの中にあったのだ。無意識に自分の外出は誰しもに迷惑がられると考えていた。
さすがにそれをはっきりと口にする気は無いので濁しながら話せば、オリバーが困ったように眉尻を下げた。プリシラの境遇を想っているのだろう。
「俺はプリシラ様が外出されるのは良いことだと思います。……この屋敷は、籠るには息苦しすぎますから」
ちらとオリバーが屋敷を見上げる。
眉根を寄せた厳しい眼差し。けして自分が仕えている家を見る目ではないが、彼も思う所があるのだろう。
だがプリシラへと向き直ると直ぐに表情を和らげ、穏やかな声で「今日も海でよろしいでしょうか」と尋ねてきた。
息苦しい屋敷を嫌悪し、そこからプリシラが出る事を喜んでいるのだ。
「えぇ、お願いするわ」
「かしこまりました。ところで、今日は普段より荷物が多いようですね」
オリバーの視線がプリシラの足元に置かれたトランクケースへと向けられた。
「今日はちょっと持っていく物があって」
「呼んでいただければ俺がお持ちしましたのに」
「トランクケースが大きいだけで、中には本が数冊ぐらいしか入っていないから大丈夫よ」
オリバーの気遣いに感謝をしつつ、プリシラがトランクケースに手を伸ばそうとする。
だがその手はトランクケースのハンドルに届く前に別の手に触れた。大きく節の太い指、重なると男女の違いがはっきりと見える。
オリバーの手だ。彼の手に包み込まれるように上から覆われ、プリシラは小さく息を呑むと共に慌てて手を引いた。彼もまた同じように驚きを顔に宿している。
「あっ、も、申し訳ありません」
「いえ、良いの……。私こそあからさまに手を引いてごめんなさい。驚いちゃって……」
直ぐに手を引いて拒絶したと思われなかっただろうか。そんな不安がプリシラの胸に湧く。
だが幸いオリバーは嫌悪を抱くことはなかったようで、謝るプリシラに対して「俺の方こそ」と宥めてきた。
そうして海辺に着くと馬車はゆるやかに速度を落とし、停まるとオリバーが客車の扉を開けてくれる。
差し出される彼の手に己の手を重ねてタラップを降りれば、さぁと海風が吹き抜けていった。プリシラの銀色の髪が煽られて大きく揺れる。
今日は風が強い。
荒れ狂うという程ではないが波も普段より高く、耳を澄まさずとも波の音が迫るように聞こえてくる。
強い風にプリシラの髪が再び大きく揺れ、それを手で押さえればオリバーが案じて名前を呼んできた。
「プリシラ様、大丈夫ですか?」
「平気よ。突然風が吹いたから驚いただけ。今日は天気も海も少し荒れてるのね」
「岩場まで降りるのは危険です。ご友人とそこで待ち合わせているというのなら、俺が代わりに行ってまいります」
オリバーほど体躯が良く御者と護衛を兼ねている男なら、この程度の風は造作もないだろう。対してプリシラは小柄な女性だ。もちろん鍛えてもいない。
ただでさえ岩場は歩きにくく、そこにこの強風だ。強い風に煽られてバランスを崩し、足を滑らせて海に落ちる……。という可能性も無きにしも非ず。
それを危惧するオリバーにプリシラは「大丈夫よ」と返し、だがふと考えを巡らせて「それなら」と話を続けた。
「荷物を持って一緒に岩場に降りてくれないかしら」
「俺が、ですか?」
「えぇ。私の友人は人見知りなの。貴方だけが降りたら姿を現さないかもしれないわ。……だから、一緒に」
着いてきてくれとプリシラが頼めば、オリバーが僅かに言葉を詰まらせ、少し上擦った声で「かしこまりました」と返してきた。
客車に半身乗り込みトランクケースを手にする。それを片手に「参りましょう」と告げてくる彼に、プリシラは小さく頷いて返すと共に歩き出した。
他愛もない話をしながら岩場をオリバーと歩く。
故郷についてや休日は何をしているのか、好きなもの、好きな時間……。
オリバーの話を聞き、オリバーに話を聞いて貰う。互いを知るこの時間はプリシラの胸を温め、そして静かに、それでいて確かに、鼓動を高鳴らせていた。
そんな時間をしばらく過ごしていると、ミャウミャウと海鳥の鳴き声が聞こえてきた。
岩場の影からゆっくりと魔女が現れる。さすがに風が強いからか日傘は差しておらず、普段そこに止まっている海鳥も今日は彼女の足元に降り立ち、跳ねるような動きで共に進んでいる。
高い波が飛沫をあげる岩場を、女が一人と海鳥が一羽、まるで話をするかのように歩く。その光景はプリシラにとっては見慣れたものだが、初めて見るオリバーには面食らうものだったのだろう。「あの方が……」と呟く彼の声には気圧されるような色さえあった。
「不思議な方……、ですね」
「少し変わった女性なの。事情があって隠居しているから、ダレンには彼女のことは話さないでおいてくれるかしら」
「承知しました。プリシラ様の心休まるご友人なら、俺にとっても尊重すべきお方です」
プリシラが大事に想うのなら、自分もまたそれに倣う。
そう告げてくるオリバーの言葉に、プリシラは自分の胸が暖まるのを感じながら感謝の言葉を告げた。




