17:幼い少年の旅行記
オリバーが去ってしばらくすると、ニャーンと高い鳴き声が書庫に響いた。
鈴の猫だ。あの子が呼んでいる。それを察し、書庫に並ぶ本を探っていたプリシラは手にしていた一冊をしまい、鳴き声のする方へと向かった。
書庫自体は広いが本棚は整列されており、相手は猫とはいえ探し回るほどではない。
現にすぐさま黒猫は見つかった。本が並べられている一角に登っており、狭い隙間に器用に座っている。プリシラを見つめて再び高く鳴くと、爪でカリカリと一冊の本の背表紙を掻きだした。
「これがそうなのね」
黒猫に指示されるまま本を手に取る。
次いで猫は狭い足場を難なくスタスタと移動し、また別の一冊を取るように促してきた。
猫に案内されては本を取ってを繰り返し、プリシラの手元には五冊の本が集まった。
フィンスター家の家業について書かれた帳簿。黒猫がプリシラの意図を汲んでくれていたのであれば、この帳簿には、否、この帳簿にだけは不審な要素が記されている。
何十冊とある中のたった五冊。
本来であれば一冊一冊調べ上げて探し出す代物だ。数ヵ月どころか下手すれば年単位で時間が掛かるかもしれないと覚悟していたが、まさか数十分で探し出せるなんて。それも、プリシラはメイド長やオリバーと話していたので殆ど手伝えていない。
「本当に助かったわ、ありがとう。……ところで、どうやってあなたを鈴に戻すのかしら?」
鈴から猫になるためには鈴を放るように言われた。だが猫を鈴に戻す方法は聞いていなかった。そもそも鈴が猫になることを知らされていなかったのだ。
試しに「戻れるの?」と尋ねても猫自身には戻る気はないようで、役目を終えたと言いたげにサリサリと毛繕いをしている。
「このまま戻らなかったら、魔女のところに連れて行けば良いのかしら。そうなると今夜は私の部屋で過ごして貰わないといけないわね。ご飯は用意出来るけれど、大きな声で鳴くとメイド達に気付かれるから気を付けて」
プリシラが猫に話しかけながら帳簿の中を確認し、その机の端で鈴の猫が毛繕いを続ける。
だが長閑に毛繕いをしていた黒猫が突然パッと顔を上げた。
元より丸い金色の瞳をより丸くさせ、書庫の扉を見つめ……。
そして次の瞬間、チリンと高い音を立てて金色の鈴が机に転がった。
一瞬にして猫が鈴に戻ったのだ。
今は何事も無かったかのように鈴が一つ置かれている。机の端に小さな鈴が鎮座するその光景は、まるで誰かの忘れ物のようだ。
「突然どうしたのかしら……」
「……お母様?」
「ジュノ?」
ふいに名を呼ばれ、プリシラは慌てて扉の方へと視線をやった。
扉の隙間から顔を覗かせているのはジュノだ。プリシラに名前を呼ばれるときょろきょろと周囲を見回しながら書庫の中に入ってきた。両手で大事そうにガラスの箱を持ち、本を一冊小脇に抱えている。
プリシラは読んでいた帳簿をそっと閉じ、ジュノに見られないよう机の隅に寄せた。表紙を伏せれば何を読んでいたかは分からないはずだ。
「お母様、どうして書庫に? 調べものですか?」
「そ、そうなの、ちょっと調べものがあって。ジュノはどうしたの?」
「僕は書庫に本を返しに来たんです。お母様に貰ったこの羽、まだどの鳥の羽なのか分からなくって」
ジュノが両手に持つガラスケースに視線を落とした。
そこには去年プリシラが誕生日に贈った鳥の羽がしまわれている。白い羽に金色の模様、一年経っても色あせる気配はなく、それどころか上質のケースに入っているとより美しく見える。このまま美術館に置いても誰も気付かず、むしろ皆が惚れ惚れと覗き込むだろう。
よっぽど気に入ってくれたようで、ジュノはいまだにこの羽を後生大事に扱っている。自室に飾り、時間があれば眺め、そしてどんな鳥なのかを調べているのだ。
「書庫の本で鳥を調べていたの? ここには図鑑はあまりないけど」
「図鑑は少ないけど旅行記があったから、それを読んでみたんです。この羽の鳥は珍しいってお母様が話していたから、もしかしたら見かけた人が記録してるかもと思って。でも僕にはまだ難しい言葉がいっぱいで、調べながら読んでいたから時間が掛かっちゃいました」
「そう、熱心に探しているのね。何か分かった?」
「それが、まだ何も」
鳥の正体どころか糸口一つ掴めていないようだが、それでもジュノには落胆している様子はない。
彼にとっては調べること自体が楽しいのだろう。図鑑をたくさん読んで鳥の種類を覚えた、旅行記は自分も冒険をしている気分になった、そう瞳を輝かせて語ってくれる。
だが生憎と話に没頭するほどの時間は許されていないようで、これから家庭教師が来るのだと話を終わりにしてしまった。その後はマナー演習と続き、夕食の時間まで勉学、その後にはそれぞれから出された課題……。
まだ八歳になったばかりだというのに多忙すぎる。
「ジュノ、勉強が辛いときはお母様に言ってね。お父様にもっと自由な時間を作るように言っておくから」
「そんな、僕、大丈夫です! 勉強も好きだし、それに僕はフィンスター家の跡取りですから」
はにかみながら、そしてどことなく誇らしげにジュノが話す。
それを見つめ、プリシラは微笑むと同時にそっと彼の頭に手を置いた。
ジュノは今年で八歳。まだ幼さとあどけなさを感じさせるが、それでも初めて出会った六歳の時よりも成長している。背も伸びて、言動もしっかりとし、顔付きにも利発さが見える。
子供の成長は早い。前回の六年ではそれに気付く余裕すらなかったが。
「ジュノ、大きくなったわね」
「このあいだ身長を計ったらまた大きくなってたんです! お父様も背が高いからきっと僕も……、いえ、その……。そ、そういえば、この前パーティーで同い年の子達と話したんですが、僕より一つ年上で凄い背が大きい子がいたんです」
父の話をしかけ、慌ててジュノが話題を変える。
プリシラが気分を悪くすると考えたのだろう。以前にも、それどころか今までに何度もあった。
ジュノは両親の不仲を知っており、どちらに対しても話題を選ぶ。だがまだ幼いゆえ興奮すると咄嗟に口にしてしまうのだ。そのたびにはっと息を呑み、気まずそうに話題を変える。
その健気さはプリシラの胸に罪悪感を抱かせた。幼い子供に気を遣わせ、『親』という極自然な話題を子供に禁句と思わせてしまう申し訳なさ。親のエゴに振り回されるジュノが不憫でならない。
だが謝ってもジュノの気持ちは晴れず、むしろ更に困らせるだけだ。
だからこそプリシラはジュノが話題を変えたことに気付ないふりをして「それは凄いわね」と彼の頭を撫でた。
「ジュノは運動も得意だもの、きっと直ぐにその子に追いつくわ。もしかしたら来年にはその子よりも大きくなってるかも」
プリシラが告げれば、ジュノが嬉しそうに頷いた。
次いでそろそろ自室に戻らないといけないと話す。元々、ジュノは本を返しに来ただけなのだ。この後の予定が迫っている。
それを説明し、ジュノが書庫を出て行く。「お母様、また今度お話しましょうね」という声は愛らしく、プリシラも微笑みながら彼を見送った。
そうして一人になり、プリシラは小さく溜息を吐いた。
見ればいつの間にか机の上には一匹の黒猫。まるでずっと前から居ましたと言いたげに堂々と机の一角に座り、金色の瞳でじっとプリシラを見つめてくる。
鈴の猫。足元には帳簿が重ねられている。
フィンスター家の不審な収支を記した帳簿。
(このままジュノが母思いの子に育ってくれても、いずれ私を恨むのかもしれない……)
あの幼く愛らしい少年の顔が悲劇に歪み、そして恨みを込めて青い瞳を向けてくるのだろうか。
想像すればプリシラの胸が痛み、寒気すら覚える。
だけど……、
「進むって決めたの、今更立ち止まれないわ」
覚悟を確認するように自分に言い聞かせ、プリシラは再び帳簿に手を伸ばした。
ジュノを犠牲にする気はない。
だけど、ジュノの為に道を変えることは出来ない。




