10:変わるものと戻るもの
「イヴの紹介だと採用されない可能性が高いので、俺はレッグ医師の推薦という形で屋敷に来ました」
オリバーが名前を挙げたレッグとは、フィンスター家お抱えの老年の医者だ。
前回の人生では頻繁に体調を崩して世話になっていたが、今回の人生では幸い彼の世話になった事はない。だが時折顔を合わせる事があり、その時には丁寧な対応をしてくれている。
プリシラの味方とは言わずともダレンに迎合するわけではない。中立の立場。
オリバーは以前勤めていた仕事先で彼の孫と親しくなり、その縁でフィンスター家の御者として推薦された。……という名目でここにいるらしい。
実際は故郷が近く、以前より顔見知りだったという。
「イヴがレッグ医師に頼み込んで話を進めてくれたんです。俺も昔から医者の手伝いをする事があったので話も通しやすかったのでしょう。幸いダレン様も他の者も気付いている様子はありません」
「そうだったのね……」
まさか自分のためにイヴがそこまでしてくれていたなんて。
感謝の気持ちと暖かさがプリシラの胸を包み、溢れそうな感情を吐露するようにゆっくりと深く息を吐く。
己の頬を何かがツウと伝った気がして……、次の瞬間、オリバーが驚いたように息を詰まらせた。
「あ、あの、なみだが……」
「涙?」
「お待ちください、今ハンカチを……!」
慌てた様子でオリバーが上着のポケットを漁るが、目当てのものは無かったのだろう、今度は「御者台の鞄にはあるはず!」と飛び乗るように御者台に乗った。そこに置かれた鞄からあれこれと物を引っ張り出す。
彼のあまりの慌てぶりにプリシラはきょとんと目を丸くさせ……、そして思わず笑い出してしまった。口元を押さえてようやく自分の頬に涙が伝っている事に気付いたが、いまは涙よりも笑いだ。
一転して笑い出したプリシラに気付いたのか、今度はオリバーが驚いたような表情で御者台から降りてきた。その手にあるハンカチを差し出してくれる。
「あまり質の良いものではありませんが」
「ありがとう、借りるわね。ごめんなさい、私ってば泣いたと思ったら笑い出して」
「いえ、お気になさらず……」
謝罪をするプリシラに対して、オリバーの返事はどうにも歯切れが悪い。
プリシラが笑い出したのは自分の慌てようを見てだとは理解しているが、その前、なぜ泣いたのかが分からないのだろう。
だが直接問う事も躊躇われるのか、言葉を必死に選びながら尋ねてくる彼に、借りたハンカチでそっと目元を拭いながらプリシラが「嬉しかったの」と話を続けた。
「嬉しい、とは?」
「イヴが側に居てくれること、レッグ医師が協力してくれたこと。そして貴方が来てくれたこと。私にも味方がいるんだと思ったら嬉しくて」
味方がいると実感した途端、胸が温かくなり涙が零れた。
それを話せばオリバーが意外そうな表情を浮かべ、僅かに上擦った声で「そうですか……」と呟いた。
「年甲斐もなく人前で泣くなんて恥ずかしい」
「そんな、年甲斐だなんて。プリシラ様はまだお若く、こんな状況にあるんです。感情を抑えきれなくなるのも当然です」
宥めるようなオリバーの優しい言葉に、プリシラは彼を見上げた。涙する女性を前にしているからか困惑の色が隠しきれていない。
若い、と彼は言った。
同年代なのに……、と一瞬思ったが、考えてみれば今のプリシラは十七歳だ。聞けばオリバーは今年二十一歳というのだから、彼からしたらまだプリシラは年若い少女なのだろう。
そんな年若い少女が苦境に立たされ、僅かな味方を得たことに安堵し涙する……。哀れに感じたのだろうか、見つめてくるオリバーの瞳には労りの色が強い。
「何かあれば必ず力になります、何でも仰ってください」
「ありがとう……」
プリシラが感謝の言葉を口にし、だが次の瞬間、聞こえてきた声に気付いて他所へと視線を向けた。
数人がこちらに歩いてくるのが見える。庭師と親しい給仕達だ。休憩を終えて戻ってきたのだろうか。
まだプリシラ達には気付いていないようだが、彼等の歩く方向からすれば時間の問題だろう。
「話をしているところをあまり見られたくないわ。馬車を出してくれるかしら」
「かしこまりました」
給仕達に聞かれる事を危惧して淡々と告げれば、オリバーもまた意を汲んで短い返事と共にすぐさま客車へと向かった。
「足元にお気をつけください」
オリバーの言葉に見送られつつ海辺へと向かう。
海は緩やかに波の音を奏でており、それを眺めているとどこからともなく日傘を差した魔女が現れた。
日傘には今日も海鳥がとまっている。先にプリシラに気付いた海鳥がミャウミャウと鳴きながら飛び上がり、まるで挨拶をするように大きく旋回し、そして海面を滑るように去っていった。ミャウミャウという鳴き声が次第に遠ざかり波音に消えていく。
「あの海鳥が私が来ることを知らせてるの?」
「海鳥が? いや、彼女はただこの近くに住んでるだけだよ」
「それなら、どうして私が海辺に来るといつも貴女が来るの?」
「どうしてって、プリシラが海辺に来るからだよ。それより私の家に行こう。今日はプリシラが来るからクッキーを用意しておいたんだ」
ほら、と魔女が促すように歩き出す。
その口振りからするとやはり彼女はプリシラが来ることを知っていたのだろう。だが何度なぜかと尋ねても彼女は逆に不思議そうにしてくるだけだ。
なぜ来ると分かったのか、なぜ時間が分かるのか、なぜ場所まで把握しているのか。何をどう尋ねても全ての答えが「だってプリシラが海辺に来るから」これ一つである。挙げ句、「おかしなことを聞くね」とプリシラの方を異常扱いしだす始末。
やはり魔女だ。
人の常識から外れた存在。
だが今のプリシラにとって、彼女もまた数少ない心許せる存在の一人だ。
たとえ人間では無かろうが彼女はプリシラに対して威圧的に接しないし、ダレンに感化されて蔑ろにもしない。それどころか友好的に接してくれる。返答が理解しがたいものではあるが、きちんとプリシラの質問にだって答えてくれているのだ。
そうして魔女の屋敷に向かい、出されたお茶を飲みながらさっそく質問をする。
尋ねたのはオリバーの事だ。前回の人生では出会わなかった青年。この変化は時戻しによるものなのかと問えば、彼女はまるで当たり前の事を問われたかのように「そうだよ」とあっさりと返してきた。
「時に変化は変化を呼ぶからね」
「それはつまり、私がイヴを残したからオリバーが来たってことよね? それなら、オリバーの人生も、彼に関するひとの人生も変わってしまうってこと?」
時戻しをする前、前回の人生では、イヴは遠方に追いやられオリバーもまた別の場所で生活していた。
そこで他者と関わり、友情や信頼関係を築いたりもしただろう。誰かを助けたかもしれない。もしかしたら誰かと恋仲に……。
だが今回の人生では、他家に行くはずだったイヴはプリシラによってフィンスター家に残り、そしてそんなイヴに頼まれてオリバーはフィンスター家に来た。
プリシラがイヴの人生を変え、イヴがオリバーの人生を変えた。
その連鎖は続くのかどうか……。そんなプリシラの問いに、魔女は小首を傾げ、「そうだねぇ」と間延びした答えを返してきた。
「必ずしも変化が変化を呼ぶわけじゃないから何とも言えないね。プリシラからイヴ君、イヴ君からオリバー君へと繋がった変化がまた新しい変化を生むのか、もしくは元に戻るのか。その時にならないと何とも言えないよ」
「もとに戻るって?」
「たとえば、今はプリシラの側に残ったイヴ君が結局は他家に行くかもしれない。オリバー君も同様。もしかしたら、何かしらの理由があってオリバー君が解雇されて元々いた御者が戻ってくる可能性もある」
そうなれば時戻しをする前と同じ状況だ。
魔女曰く、変化は変化を呼ぶが、同時に、戻るものは元に戻る。そして今起こっている変化がそのどちらに属するのかは、魔女本人にすらも分からないのだという。「誰も気にしないしね」と言ってのけるあたり、時戻しの魔女は細かな変化や差異を気にしないのだろうか。
変化の渦中にいる当人達も、時戻しをする前の状況に戻ろうとして行動しているわけではない。彼等には記憶が無く、誰もが二度目とは思いもせず己の選択をして生きているのだ。
「そうなると、どう行動するのか考えないといけないのね」
「考えなくても良いんじゃない? 時戻しで記憶を引き継いだ記念に好きに生きれば良いよ」
「……簡単に言ってくれるわね」
時戻しに巻き込んだくせに無責任ではなかろうか。
そう責めようともしたが、プリシラは言葉を飲み込んで肩を竦めるだけに留めた。
なにせ相手は魔女だ。それも時戻しを行う魔女。思考回路が根本から違うことは今までの会話で理解している。
現にこの話の重要性も理解していないようで、ティーポットが空だと気付くとおかわりを淹れるために立ちあがってしまった。




