9.旦那様の困惑
アランは困惑していた。
城を留守にした一週間かそこらで、使用人たちがキャッキャと子どものような朗らかな笑顔を浮かべるようになっていたからだ。
使用人の中で反王女派筆頭だったはずのベルタや、アランの側について中立を守ろうとしていたスウェイも、無表情をとりつくろってはいるがマデレーネに気を許しつつあるのがうかがえるし、彼ら以外の使用人たちは「マデレーネ奥様が料理を褒めてくださった」「マデレーネ奥様が庭を褒めてくださった」「マデレーネ奥様からいたわられた」「マデレーネ奥様から笑顔を向けられた」と大賑わいである。
「いったいどうなっているんだ……」
マデレーネが城の中に居場所をつくるのはいい。むしろ彼女の置かれた立場を理解しているからこそ、宮殿にいたころよりはましな場所にしてやりたいとは思っていた。
しかしこれは想定外すぎる。
一人食堂で朝食をとりながらぼーっと周囲を眺めていると、床も食器もいつもより磨きこまれ、テーブルクロスは新調したのかというほど真っ白、庭の花も彩りがよくなったような気がする。爽やかな早朝の風に花びらをたゆたせる花々は、アランが以前見たときよりも大きく、色鮮やかで美しかった。
そしてそんな春の景色のおすそ分けとでもいうように、テーブルの上には硝子の花瓶がおかれ、一輪の春薔薇が飾られている。
「……」
薔薇の理由を推測するも、だからどうということはない。
と、思っていたのに。
「奥様からのお心遣いです」
給仕をしていた料理長のリュフが囁いて、ウィンクしてきた。父の代から長年勤めていて、アランの倍にもなろうかという歳だが、いつまでたっても陽気な性格の男だ。
「お忙しい身の旦那様に、少しでも癒しをと。やさしいお方だ」
「……だからなんだ?」
どうしろというのか。
聞かずとも答えはわかっている。
いっしょに食事をとれ、というのだ。
最初に特別な感情はないと宣言したとおり、アランはマデレーネと行動を別にしている。もともと日中は領内の見まわりで城にはおらず、マデレーネが到着してからは避けるように外泊を続けていた。
寝室も別、家具類も別、マデレーネが使う費用についてはスウェイに一任している。
マデレーネが自他共に認める女主人となろうとも、アランはマデレーネをそばに置くつもりはない。
次にくだらないことを口にしたら食堂から叩き出してやろうという主人の内心を感じとったか、リュフは苦笑いで壁際へ退き、それ以上なにも言うことはなかった。
けれど、食事のたびに花は増えてゆく。
昼には春薔薇にスミレの花が添えられ、夜にはアイリス、翌朝はブルーデイジー。
(わたくしはおそばにおりますよ)
そう、語りかけてくるかのように――。
***
自室に戻り、アランは大きなため息をついた。
マデレーネがきてから、はじめて、丸一日を城ですごした。
……結局、マデレーネと話す機会はつくらなかった。使用人たちがいまかいまかと期待しているのがわかって、むしろ意地をはってしまったのだ。
書斎に閉じこもり、食事の時間もずらした。
おかげで奇妙な疲れに襲われている。
(なんなんだあいつら、あの『奥様にお会いになれば旦那様もきっとわかりますよ』って視線は)
おそろしいことに、スウェイとベルタですら『奥様にお会いになれば旦那様ももしかしたら……』という視線を向けてくるのだ。
もとよりベルタは、アランを我が子のように案じていた。伴侶を得られるのがよいでしょうと何度も進言していたのは彼女だ。それだけに政略上の婚姻を結ぶとなったとき、一番反対したのもベルタだった。
スウェイだって、幼いころからアランに仕え、忠義を感じている。使用人として常に線を引き、踏みこんだことを言うような者ではなかった。
それが。
ソファに沈み込むと目を閉じ、アランはスウェイとのやりとりを思い出した。
「――マデレーネ奥様は、王太子殿下の企みを見抜かれておいででした」
主人を迎えた執事は、報告の最初にマデレーネを話題に出した。
もちろん、現在のノシュタット子爵家に王女の輿入れ以上の重要事項などないからそれは正しいのだが、アランはそれだけではないものを感じた。
「そうか。お前にそれを伝えたということはただの操り人形ではないということだな。で?」
頷きながら先を促せば、スウェイはいたって真面目な顔で、小包をふたつ持ちあげてみせ、
「わたくしどもにクリームと手袋をプレゼントされました」
「……」
「旦那様にも、こちらを」
そのうちの大きいほうを、アランに手渡した。
中身は上等な白い仔山羊の手袋と、毛織の襟巻だ。
――旦那様は絶えず領内の見まわりをしていらっしゃるとか。馬上では風も強く吹きましょうから……。
マデレーネはそう言ったという。
その言葉自体は本心からアランの身を思いやってのことだろう。十年前に両親を亡くして以来、独力で当主を務めてきたアランにとっても、その真心はあたたかさを感じるものではあるが。
表情には出さず、会話を進める。
「彼女が買ったのはドレスとそれだけか?」
「いえ、ここからが本命でしょう。宮殿から料理人を呼びたいそうです。それから城の増改築を行いたい、家庭教師も雇いたいともおっしゃっておられました。こちらは旦那様の許可が必要かと思い手配は始めておりません」
「宮殿から?」
「はい。奥様のなじみの料理人がいるそうです。増改築と家庭教師については一任されております。奥様がつけた条件は二つだけ――いずれの業者、教師も、質が高く口が固いこと、だそうです」
「なにを考えているんだ……」
輿入れのときにも思った疑問がまたよみがえってくる。
莫大な金とひきかえだとマデレーネを押しつけてきた王太子のように厚顔無恥な姫であってくれれば、いっそよかった。
「旦那様」
「なんだ」
「奥様とお話をされてはいかがでしょうか」
「……お前まで……」
胡乱な視線を向けてもスウェイは真正面から受けとめて見つめ返してくる。
そんな執事を相手になにも言うことができず、アランは自室へ戻ってきたのだった。
マデレーネからの贈りものだという手袋と襟巻を眺めていたアランであったが、やがて無言のまま手袋をつかむと、立ちあがった。