42.涙
昼下がりのひだまりに腰をおろし、書庫の一角のテーブルに、マデレーネは地図を広げた。国内の領地がすべて描かれたそれには、直轄領も載っている。
王家の財政難を知ったイエルハルトは、フォルシウス公爵に直轄領を渡してしまった。
売り渡された直轄領に印をつけ、アランとマデレーネは地図を覗き込む。
「フォルシウス公爵は直轄領をばらばらに買いとっているように見えるわね」
公爵領は南の中心部にある。それに対して、印は北部以外の東西南すべてに点在している。
「領地を増やすために直轄領を買いとるなら、自領の近くにして交易網に組み込むほうが効率がいいはずよね?」
「いや、フォルシウス公爵はダグマル商会を傘下に収めている。どこにあろうが、交易ルートに近いのであれば搬入は――」
アランが言いかけて、街道をなぞっていた手をぴたりと止めた。
マデレーネもはっと息をつめてアランを見た。
「……密輸の経由地か」
直轄領からの税収は援助という名目で王家に与えられていた。
フォルシウスがほしかったのは、税収ではなく、街道にほど近く誰の目も届かない土地そのもの。
直轄領ならば付近の領主も手が出せない。役人たちさえ抱き込んでしまえば、見咎められる心配はない。
「ノシュタット領が狙われたのもこのためだったのだな」
フォルシウス公爵とつながっていたセルデン伯爵は、北部の貴族たちをけしかけてアランを孤立させ、ノシュタット家を潰そうとした。
王家の直轄領は北部にはない。そのうえノシュタット家が経済を押さえていて、ダグマル商会は密輸品を北部から先へ運ぶことができない。アランを排して自分に尻尾を振るセルデンを据えるのが、フォルシウスの目論見だったのだろう。
「カイルお兄様に、このことをお伝えして」
直轄領の地名と場所を書きとり、マデレーネはアランにメモを渡した。
カイルはハーシェルとともに、ダグマル商会の密輸を摘発するための証拠を集めている。トビアンから話を聞き、北支店の客や物の出入りを見張っているが、それ以上の糸口がつかめないでいたところだった。
この情報は彼らにとって光明となるだろう。
廊下を早足に歩くアランの視界に人影が映った。
今となってはほとんど働く者のいなくなった王宮で、誰かとすれ違うことはめずらしい。
その正体に気づき、アランは足を止めるとすぐに礼をとった。
「イエルハルト殿下」
「かしこまらなくていい。……お前は俺を殴りたいはずだからな」
同じく歩みを止め、興味もなさげにイエルハルトは手を振る。告げられた言葉は図星といえて、言葉に甘えてアランは素直に顔をしかめた。
晩餐会で遠目に見ただけの容貌は、近くで見ればたしかにマデレーネに似ていた。ただ、水底の色をした瞳だけは、温度を持たぬように冷たい。
この男がマデレーネを虐げ続けてきたのだと思えば、こぶしを握りたくはなる。
「フォルシウスの鼻は明かせそうか」
「はい、おそらく」
「難儀なことだな、王家のいざこざに巻き込まれて」
薄い唇を歪めてイエルハルトは笑う。
窓から差し込む光が揺れる金髪を輝かせるのを、アランは目を細めて眺めた。
(やはりマデレーネに似ている)
輿入れの日、マデレーネは張りつけたような笑みを浮かべていた。今のイエルハルトもそうだ。
「巻き込まれたとは思いません。イエルハルト殿下には感謝しております」
アランの言葉にイエルハルトはぴくりと眉をつりあげた。
「マデレーネと俺を娶わせてくださいました」
それが王家の借金を清算するためだったにしろ、中央貴族たちの目を北部の成り上がりへ向けさせるためだったにしろ、イエルハルトはほかの誰でもなく、アランを選び、マデレーネを嫁がせた。
「それだけは、あなたの選択は間違っていなかった。俺はそのことを証明したい」
「……わかったような口を」
「もう少しだけお待ちいただけませんか。俺もあなたの力になりたいのです」
その言葉には答えず、舌打ちをひとつこぼし、イエルハルトはアランを押しのけて歩んでゆく。
イエルハルトがここにいる理由がアランにはわかった。
彼はマデレーネと向きあいにきたのだ。
*
アランの後ろ姿を見送り、ふたたび地図に目を戻したマデレーネの耳に、足音が届いた。
「どうしたの?」
アランが戻ってきたのかと振り向いて、マデレーネは驚きに口をつぐんだ。入り口近くの壁にもたれ、昏い視線を向けるのは、彼女の異母兄、イエルハルトだった。
立ちあがり、礼をしかけてマデレーネは動きを止めた。背すじをまっすぐにのばしてイエルハルトと相対する。
「イエルハルト様――いえ、イエルハルトお兄様」
マデレーネの真摯なまなざしは、兄妹として向きあうことをイエルハルトに求めている。
「フォルシウス公爵の買収した直轄領でも密輸が行われている可能性があります。もしそれが立証できれば、フォルシウス公爵が密輸に関わっていた動かぬ証拠になります。直轄領を王家に戻す理由にもなる」
「……なんのつもりだ」
駆けよったマデレーネが、イエルハルトの手を握りしめていた。
指先まで冷えきった手はイエルハルトの心を表しているようで胸が痛い。その痛みが涙となってマデレーネの瞳からあふれてゆく。
「カイルお兄様と、わたくしを」
囁くような涙まじりの声が紡がれる。
「守ってくださり、ありがとうございました――」
ぽたぽたと手の甲に落ちる雫を感じながら、イエルハルトは瞠目した。
派手な晩餐会を開き、たくさんの貴族たちを呼びつけ、王家の威光はまだ衰えていないのだと見せつけて、必死にイエルハルトは表に立ってきた。その一方で、王宮の内部が蝕まれていくのも感じていた。
そうして、渦巻く妬みや蔑みの中心に弟妹がいるのを見るたび、自分の中身も腐っていくような気がしていた。
書庫には地図や様々な資料が広げられている。イエルハルトの意思を受け継ぎ、マデレーネは戦おうとしている。
それは、カイルの側について、イエルハルトを責めようとしているのではなく。
「王家を守るため、国を混乱させないために、イエルハルトお兄様のこれまでがあったのなら」
顔をあげたマデレーネは、涙に濡れる瞳でイエルハルトを見つめた。
エリンディラは、継母として踏み込まない距離をたもっていた。
けれどもマデレーネは、踏み込んだ。
イエルハルトを兄と呼び、手を握って、訴えている。
「わたくしたちは、同じ未来を望んでいるのではありませんか?」
「――俺は」
もともと王太子という器ではなかったのだろう。ただ、父を助けなければと思って、次には弟を守らなければと思って、つかむ手を間違えたと気づいたときには引き返せなくなっていた。
「わたくしは、イエルハルトお兄様のお心を知りたく思います」
イエルハルトの手を握りなおして、マデレーネは花のほころぶような笑顔を見せる。
冷たかった手には少しずつぬくもりが移っていた。
「わたくしはそのために王都へ戻ってきたのです」
己を見つめ返す晴れた青空のような瞳が、幼いころの思い出をよみがえらせる。
飢饉の前にだって、マデレーネの笑顔に応えてやったことはなかった。成長してからは、彼女に向けるべきではなかった怒りをぶつけ続けた。
それでもマデレーネは、イエルハルトに手をのばした。
母妃と似てばかりだと思っていたマデレーネは、いつのまにか違う強さを身につけたらしい。
そのきっかけがどこにあるのかといえば、あの成り上がりと呼ばれた子爵なのだろう。
王宮に閉じ込められて育った姫と、王都すら知らぬ地方領主のくせに、案外似た者夫婦だったのだ。
――あなたの選択は間違っていなかった。
アランの言葉を思いだし、イエルハルトは唇を歪める。
「俺を相手に惚気るとはいい度胸だったな」
「え?」
不思議そうに聞き返すマデレーネに、イエルハルトは首を振った。
「俺はもうすぐ王太子ではなくなる」
ぽかんと口をあけるマデレーネの姿に、イエルハルトは苦笑いを漏らした。
「俺は道を間違えた。お前だってわかっていたはずだ。俺は王太子の器ではないと。カイルもそう言ったろう?」
「……」
何も言えないマデレーネに、イエルハルトは表情を変えず、背を向けると部屋を出ていった。





