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41.はじまり

 マデレーネとカトリーナは顔を見合わせて頷きあった。

 こもりきりの執務室に、今イエルハルトはいない。そっとドアを開けて入る。テーブルには書類が置かれっぱなしになっていた。

 

 執務室に閉じこもったイエルハルトが何をしているのかは、カトリーナも疑問だった。

 いつでもイエルハルトは書類を眺め、手元に何かを書きつけ、難しい顔をしている。しかし、実質の政治はフォルシウス公爵邸へ移ったのだ。イエルハルトのもとに届くのはフォルシウス公爵のもとでつつがなく整えられ決裁を待つだけの書類のはず。

 

「覗いてみましょう」と言ったのはマデレーネだった。

 イエルハルトがリルケ子爵と謁見しているあいだに、ふたりはこっそりと執務室に忍び込んだ。

 

 こんなことは王女と公爵令嬢のすべきことではない。でも、マデレーネは答えを知っているのだろうと思った。

 それにもしかしたら、鍵を開けっぱなしにしているイエルハルトも、自分たちの行動を予見していたのかもしれないとも思う。

 

 出しっぱなしの書類をおそるおそると持ちあげ、カトリーナは目を見張った。

 

「……これは……」

 

 重ねられた幾枚もの書類は、直轄領の詳細な報告書だ。領土面積、都市や村の名とそれぞれの人口、地形や田畑の割合から商工業組合(ギルド)の一覧、訴訟、役人たちの素性、ありとあらゆる情報。

 それらをもとに、検討し、計算し、新たな制度の立案と産業の奨励など、役人に与えるべき指示が書き連ねてある。

 

「イエルハルト様は、戦おうとしておられたのですね……?」

 一瞥してすぐにわかった。ノシュタット領の何倍もあろうという直轄領の経営と、国王の代理としての政務を、イエルハルトはひとりで抱え込もうとしていた。

 それが彼の過ちであり、苦しみでもあったのだ。

 

 計算の最後には必ずペンで取消がしてある。

 これでは足りないのだ。密輸という手段で利益を手にする公爵には、どれほど地道に発展を積みあげようと追いつけない。

 

 それを理解し、イエルハルトはフォルシウス公爵の駒となることを受け入れた。

 だが一方で、それ以上の侵攻を食い止めるためにまだ戦おうとしている。

 

「イエルハルトお兄様は、幼いころから国政を学んでおられました。……カイルお兄様もわたくしも、お力になろうと誓いあいましたのに……」

 

 マデレーネの瞳から透明な涙が落ちる。

 きっと何年も、イエルハルトは希望を見いだそうとしてきたのだ。

 

「わたくしは……」

 

 声だけでなく、全身を震わせながらカトリーナはマデレーネを見た。

 この願いを口に出すべきかどうか、カトリーナは迷ってきた。イエルハルトにとってそれは押し付けであると理解していたからだ。

 だが――、

 

「わたくしは、イエルハルト様のお力になれるのでしょうか」

「ええ。……きっともう、カトリーナ様はイエルハルト様の心のよりどころに」

 

 涙をぬぐい、マデレーネは目を細めた。

  


***

 

 

 執務室に戻ったイエルハルトを、昼食を持ったカトリーナが待っていた。

 

「イエルハルト様、昼食を持ってまいりました」

 

 自分に気づきほっとした笑顔を浮かべるカトリーナがなぜか眩しく思えて、イエルハルトは目を瞬かせた。

 身支度以外でイエルハルトが執務室を留守にすることは滅多にない。

 だからカトリーナはイエルハルトがどこに行ったかもわからずに、おろおろと帰りを待っていたのだろう。

 

 そう理解しながら、イエルハルトはぼんやりと室内を眺めた。

 細長い部屋の奥には執務机が置かれ、別の壁際にはテーブルとソファが置かれて、カトリーナが食事の準備を始めている。

 

 今日の食事には、スープとパンのほかにローストビーフをのせたサラダがつけられていた。当初の消化のよいものをという目的を、このところ料理人は忘れがちであるようだ。

 

 黙って座り、ふたりは会話のないまま食事を進めた。

 もうすぐ食べ終わるというところで、イエルハルトは執務机に積まれた書類の束に目を留めた。

 

 リルケ子爵夫妻がもたらした連判状ともいえる書類は、イエルハルトに奮起を求めている。

 あれほど傷つける言葉を吐いたというのに、マデレーネはイエルハルトの背中を押そうとせいいっぱいに手をのばしている。

 

 思えば、こうして隣で粛々と食事をしているカトリーナも。

 

「カトリーナ嬢」

 

 名を呼んでから、声に出したのは久しぶりだと思いだす。

 

「はい?」

 

 隣のイエルハルトを振り向き、カトリーナは目を見開いた。

 

(……笑っていらっしゃる?)

 

「パンくずがついている」

 

 イエルハルトの指が口元に触れた。それだけで真っ赤になってしまうカトリーナを、暗青色の瞳が見つめている。

 

「俺が王太子を退いたらどうする?」

 

 その言葉は、イエルハルトにも無意識だったかもしれない。

 自分の望む未来は、カイルやマデレーネのようにたいそうなものではない。だから押し殺してきたのに、カトリーナの顔を見たらそのまま声になって出てしまったのだ。

 

 カトリーナは唇をわななかせてイエルハルトを見上げた。

 イエルハルトが未来について語ったのは初めてだ。それも、ふたりの将来についてを。

 

(それがこれなんて――)

 

 なんて悲しい。

 それでも、答えは決まっている。

 

「なにがあっても、おそばにおります……!!」

 

 もう泣かないと思っていたのに、あふれる涙を抑えきれず、カトリーナはイエルハルトに縋りついた。

 

「わたくしにできることがあれば、どうぞおっしゃってください。なんでもします。寝ずに働きますわ。どこへでも行きます」

 

 心を隠した婚約者は、馴れ馴れしい言葉を望まないだろう。そう思って隠していた願いだった。

 涙で濡れた視界では、イエルハルトがどんな表情をしているのかはわからない。

 けれども、ぎこちない指先が髪を撫でてくれる感触だけは伝わった。

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