39.その存在
翌日の夕刻前になって、ようやく王宮への参上の許可が出た。
長旅のすえ王都についたのだ、疲れていないはずはないのに、リルケ子爵夫妻はふたりともそのことを顔色に出さない。
「では、行ってくるわね」
「このたびのこと、心より御礼申し上げます」
リルケ子爵の腕をとり馬車へ歩もうとするヴェロニカに、ロブが深々と頭をさげた。
見送りに出た使用人たちも皆ロブに倣って低頭する。
いっしょになって頭をさげながら、正直に言えばユーリアは驚いていた。この屋敷の人々は王都の出身で、雇われた者ばかりだと聞いていたから。
そんな疑問に答えるかのように、ロブは顔を伏せたままに語った。
「私は先代様に――ジャレッド様に拾われました。先代様のことを知るのはもう私だけですが、忠義の心だけは部下たちに教えてきたつもりです。貴族という想像もつかない立場の中で、こうして親身になってくださる方がどれだけ得難いことか」
ユーリアの脳裏に昨夜のことがよみがえった。ヴェロニカはユーリアとも親しく話をしてくれた。でも一年前を思い起こせば、彼女はアランを毛嫌いしていたのだという。ユーリアだって、自分の主人が周辺領の貴族たちには嫌われているらしいというだけで、ヴェロニカのことなど知らなかった。
縁を結んでくれたのは、マデレーネの存在だ。
「差し出がましい言葉をお許しください」
「ええ、いいわ。ね、あなた」
「ああ」
リルケ子爵も頷いた。その言葉にようやくロブは顔をあげ、「ありがとうございます」と笑顔になった。
「何かアラン殿に伝えることはあるかい」
「では――」
ロブは隣に立つスウェイを見た。リルケ子爵の視線がスウェイに移る。正面から見据える思慮深げな瞳を堂々と見つめ返し、スウェイは言った。
「旦那様にお伝えください。我々は旦那様のご決断に従いますと」
***
思わず鼻歌をうなってしまいそうになってディルは息を止めた。いくらなんでも浮かれすぎだ、と自分でも思う。だが、心はいつになく弾んでいた。
このところ、イエルハルトの部屋からさげられてくる器は空になっていることが多かった。そこで昨日、思いついて別の皿にベリーをいく粒かのせてみたところ、それも消えて戻ってきた。
今日は、レモンの果汁をたっぷり使ったジュレを作った。貴重な氷を使って冷やしたそれは、舌にのせれば爽やかに蕩けるはずだ。
時間をかけて煮込み、灰汁をとりきったスープをポットに移す。キッチンに料理人は自分しかおらず、あとはキッチンメイドが数人いるだけだ。なのにどうしてか、自分を不幸だとは思わない。
(あいつが言っていたのは、こういうことだったんだろうな)
かつて同僚であったヨハンの顔を思いだし、ディルはひとりごちた。
王宮に戻ってきた途端に姿を消してしまったヨハンは、ダルグレン侯爵に拾われたらしいのだ。ヨハンが声をかけられた場にディルもいた。
ヨハンを認めたのはカイル殿下とダルグレン侯爵。どちらも現在の権力者であるイエルハルトとフォルシウス公爵に対立する人物だ。
また縋りつく先を間違えたのだと思っていた。
――テーブルにつく人の幸せを考えたことがあるか?
荷物をまとめたヨハンは、ぽつりとそう呟いて、それから諦めたように首を振って王宮をあとにした。負け犬の遠吠えだと当時のディルは嘲笑ったものなのに。
(今ならわかる)
自分の料理が、イエルハルトに認められた気がする。
かといってそれはディルの腕が特別に優れているというのではない。身体にやさしいスープを作れと言ったのはマデレーネで、懸命にイエルハルトのもとへ運んでいるのはカトリーナだ。
そうやって、食べる者を思いやる気持ちが、食事をおいしくするのだろう。
高級な食材を使うのが悪いとも、技術を凝らした飾り付けが悪いとも思わない。ただ、それらは本当は、人々の目を楽しませたり、舌をよろこばせるためにあったはずだ。
そして時には、身体が求めているものは、素朴な見た目の、肉と野菜のうまみが煮込まれただけのスープだったり、ただのフルーツだったりする。
そのことをヨハンに気づかせたのは、ノシュタット領で再会したマデレーネだったのだ。
だからヨハンは王宮を出た。
だがディルは王宮へ残るだろう。イエルハルトその人から暇を言い渡されるまでは。





