37.温度
――わたくしも、マデレーネ様と同じ気持ちです。
イエルハルトの耳に弱々しい声がよみがえった。異母妹の背後で俯いていたあのときよりも、今の彼女の声はしっかりとしている。
「……入ります」
入れとも入るなとも応えを返さないイエルハルトに、カトリーナはそう宣言をすると、ドアを開けた。廊下から流れる風にスープの香ばしい湯気がのって届く。
カトリーナの背後に盆を持って控えているのは新しい料理長だ。マデレーネにポトフを作ってやっていた料理人を告げ口し、左遷に追いやった男。
その料理長から盆を受けとって、カトリーナだけが執務室に入った。
盆にはスープを入れた金属のポットと、パンと、二つの器がのっている。
「冷めないうちに、いかがですか」
なお答えを返さないでいると、カトリーナは食事用のテーブルに器を並べ、そのうちの一つにポットからスープを注いだ。
そしておもむろにスプーンに手をのばすと、スープに手をつける。
同じポットから、先にとって食べて、まるで毒味役のようだ。
一瞬呆けてから、イエルハルトはマデレーネの言葉を思いだした。
同じスープを食べるのだと言っていた。彼女らは、王族に対して用意される料理を控え、この栄養の摂取と消化のよさだけを目的とした素朴なスープを口にするのだということ。
(……カイルもか?)
マデレーネが食べるのならカイルもそうするだろう。
パンとスープだけで腹が満ちるわけがない。贅沢に暮らしてきた公爵令嬢には、なにより舌が満たされないはずだ。
誰もいない王宮にわざわざ滞在し、夫となる男には無視され、パンとスープの晩餐をとって。
「あなたはなぜこんなことをするのです」
思わず疑問が声になった。
正直に言って、カトリーナの行動の理由が、イエルハルトにはわからなかった。
カトリーナはぱっと顔をあげた。表情に現れた驚きが、声をかけられることすら期待していなかったのだと告げている。
そんな顔をされたのでは、余計に理由はわからない。
逡巡がカトリーナの目に浮かび、すぐに消える。
立ちあがり真正面からイエルハルトを見据える視線は力強い。
「父のしていることは、人の道に悖ると思うからです」
「――……」
イエルハルトの表情をよぎった怒りに、カトリーナは息を呑んだ。
同時に、イエルハルトが何を憎んでいたのかをようやく知った。
「なら、俺の判断も間違いだったと? あなたと婚約することもなく、誰の手も頼らずに一人で国を立て直すべきだったということですか」
こんなにも感情を剥き出しにするイエルハルトを見たのは初めてだ。彼はいつも落ち着いていて、冷めた視線をカトリーナに送っていた。
困るのは殿下のほうだ、と言った父の声が耳に響く。
イエルハルトが憎んでいるのは、それ以外の選択肢を持ちえなかった自分だ。
過去のイエルハルトの行動を否定したいわけじゃない。けれどもフォルシウス公爵のやり口を否定することは、イエルハルトのしてきた判断を否定することなのだ。
「いいえ! イエルハルト様が悪いとは思いません。政治が綺麗事ですまないのはわたくしにもわかります。でも!!」
思わず声を荒げ、カトリーナはイエルハルトを見つめた。冷静にならなければいけない、泣いてはいけないと思うのに、目には涙が浮かんでしまう。
「イエルハルト様は苦しんでおられます!! わたくしは――わたくしは、それが嫌なのです」
はらはらと涙をこぼすカトリーナを、イエルハルトは黙って見つめた。
やがてゆっくりと笑みが表れた。一瞬見せた激情が嘘だったかのように、イエルハルトはもとの冷たい笑みを浮かべて首を振った。
「苦しんでなどいません。すべては俺の思いどおりに進んでいる」
ダルグレン侯爵ハーシェルは清廉潔白な政治をするだろう、それでも金の力には敵わない。だからダルグレン家の影響力が増す前に、フォルシウス公爵家の地位を確固たるものにした。
それがイエルハルトの判断だ。
「わたくしは……イエルハルト様に、幸せになっていただきたいのです」
「俺の幸せはあなた抜きにはありえませんよ」
甘い囁きにカトリーナは顔をそむけた。無言で礼をすると執務室を去っていく。
カトリーナにも理解できた。
自分の言葉は届かない。なぜなら、カトリーナがいくら真摯な気持ちで訴えようと、その言葉たちはイエルハルトの現状を救うものではないからだ。
言葉をいくら積み重ねようとも、閉ざされた心の前では意味がない。
*
閉まるドアの向こうにカトリーナの背中を見送り、イエルハルトは小さく息をついた。
顔色には出さなかったけれども、カトリーナの気持ちはたしかにイエルハルトの心を動かした。
マデレーネに案じられたときは、憤りのほうが先に立った。王宮にいる何年ものあいだただ座って笑っていただけの異母妹に何を言われようと、嬉しいと思うわけがない。
だが、カトリーナは違う。
婚約者でありながら素っ気なくしていたのを彼女自身も気づいていただろうに、それでもイエルハルトを見捨てておけない。そのやさしさもまた何不自由なく育てられた傲慢さからくるものだとしても。
テーブルに置かれた器をとりあげ、ひと口含む。
(……温かい)
いつもなら吐き気を伴う温度が、今日に限っては身体に染み入るように感じられた。





