35.イエルハルトは回想する(後編)
カトリーナと実際に顔をあわせたのはそれからさらに一年がたったころだった。フォルシウス公爵の贔屓目ではなく、カトリーナはたしかに可憐で、美しい顔立ちをしていた。
瞳にうっとりとした憧れの色を宿しながら、カトリーナは優雅に礼をした。
「初めまして、イエルハルト様。わたくしを選んでいただき光栄です」
まさかその挨拶がイエルハルトの怒りに触れたとは、カトリーナはわからなかっただろう。
ただ、言葉を返さないイエルハルトに、戸惑ったような視線を向けた。
「王太子殿下は照れておられるのだよ、カトリーナ」
フォルシウス公爵が口を挟む。
こぶしを握りしめながら、イエルハルトは笑みを浮かべ、頷いた。
「ええ、何も言えなくなってしまいました。こちらこそ光栄です、カトリーナ嬢」
カトリーナは何も知らない。
ただ、自分の父親の働きが王家に認められ、自分の育ちや優秀さが釣り合いのとれるものだと認められて、名誉ある王太子の婚約者に選ばれたのだと、信じきっている。
金で売られたのは自分のほうだ。
しかしその判断を下したのもまたイエルハルト自身なのだ。
***
耐え忍ぶ時間を重ねるうちに、使用人たちの噂声はいよいよ大きくなった。まだ十にもならないマデレーネの耳にその声が入らぬよう、カイルは必死にマデレーネを庇う。
青ざめた顔をして、マデレーネはほほえみを作った。
「カイルお兄様、わたくしは大丈夫です」
明らかに無理をしているその笑顔に、カイルは痛ましげな視線を向ける。
「悲しいときは泣いていいんだよ、マデレーネ」
「いいえ、カイルお兄様」
麗しい兄妹愛を、イエルハルトは冷めた視線で眺めた。
離れた場所ではあるが、侍従や侍女は控えている。声が聞こえなくとも、カイルが何を言っているのかはわかるだろう。
マデレーネは気づき始めている。王宮内で自分たちに向けられる視線が棘を増していることに。だが、カイルの案じるとおり、マデレーネにできることはない。だから笑顔で服従を示しているのだ。
しかし服従の先にあるのはいたわりではなくさらなる侮りだ。
このままではカイルも標的になる。
「兄上も侍女たちに言ってください、近ごろマデレーネの侍女は言うことを聞かず――」
「いいえ、カイルお兄様。わたくしは大丈夫です」
壊れたオルゴールのように、マデレーネは同じ言葉だけを紡ぎ続ける。それでもきちんと周囲の耳は憚って、小さな、囁くような声で。
その笑顔がエリンディラの笑顔に重なり、苛立ちを募らせる。
「イエルハルトお兄様――」
「俺を兄とは呼ぶな」
腹の底から湧きあがる激情に押し流されるまま、イエルハルトはテーブルを叩いた。
「王家の困窮はお前の母親のせいだろう、マデレーネ。北部の援助で多額の金を使い、借金まで作った。父上が病に臥せったのもあの女のせいだ」
「何を申されますか、兄上! エリンディラ妃の尽力がなければ、飢饉はあと数年は続いていたのです」
「それで救われたのは北部の連中だ。王家は外れくじを引かされた」
こうなってから、半年以上。
イエルハルトは直轄領の財政を何度も精査した。役人たちから話を聞いた。できることはないかと手立てを尽くしたが、自体は改善しない。
すでに心は限界を迎えていたのだと、ようやく気づく。
先ほどまでとは違って、言い争いは壁際に控える侍女たちの耳にも届くだろう。だがそんなことを考える余裕はイエルハルトにはなかった。
「全部、お前の母親のせいだ!!」
その一言が、張りつめていた王宮内の均衡を崩したと知ったのは、しばらくたってのこと。
生贄の羊を見つけた侍女たちが、マデレーネを部屋に閉じ込めているとカイルから訴えられたときだった。
***
***
響いたノックの音にイエルハルトは顔をあげた。
うたた寝をしていたらしい。といっても、最近の眠りはすべて執務室でのうたた寝だ。寝室に戻って温かいベッドで休む気にはなれず、廊下で誰かに行きあえば面倒だと考えてしまう。
ノックの主に、誰だと呼びかける必要もない。すでにイエルハルト付きの侍従はおらず、イエルハルトを訪ねる貴族もいるわけがない。
フォルシウス公爵の無言の圧に応える形の解雇だったが、給金欲しさに仕えていた、忠誠心のない侍従たちを切り捨てていったときは、思いがけない優越感に襲われたものだ。
一人で寝起きし、一人で身支度をし、それでもイエルハルトは生きていける。そう思えば、余分な人員である侍従たちはたしかに贅沢品だった。
「イエルハルト様。夕食をお持ちいたしました」
カトリーナの声がして、イエルハルトはわずかに表情を変えた。





