33.イエルハルトは回想する(前編)
母ドレア・メルヴィが病の床に臥せったのは、カイルを産んだときの出血が原因で、イエルハルトはまだ二歳だったそうだ。
王宮に思いやりがあったあいだは、そのことはイエルハルトにもカイルにも知らされないですんだ。
イエルハルトにとって物心ついたころから母の顔色は青白く、カイルにいたっては物心つく前に別れを迎えることになった。
それでもふたりの記憶には母の笑顔があったし、嘆く父王の悲しみは本物であったから、時がたつにつれ悲しみは癒やされていった。
数年後、エリンディラを紹介されたときも、意外に反発の気持ちは少なかった。
それよりもたった一人で政務をこなす父王が母ドレアと同じように臥せってしまうのではないかと、イエルハルトはそのことに気を揉んでいたから、仕方ないのだ、という諦めの気持ちもあった。
エリンディラは、諸外国の制度に明るく、貴族たちの会議にも出席していたのだという。そこで国王の目に留まり、親しくなったということだった。
王太子と呼ばれながらも、自分にはまだ父の仕事を引き受けるだけの能力はない。だから、父を支えることのできる誰かが隣にいることは、仕方のないことなのだ。
生母の記憶がおぼろげにしかないカイルは、新しい母をよろこんだ。なかなか打ち解けられない自分とは違って、カイルはエリンディラの部屋にも出入りしていたようだ。
やがてマデレーネが生まれたときも、カイルは赤ん坊のマデレーネを抱えてどこへでも連れていくほどかわいがった。
「兄上もマデレーネを抱いてやってください」
ようやく首の座ったマデレーネをこともなげにさしだしてカイルは言う。
手つきは危なっかしく見えるのに、マデレーネも慣れたもので、怖がったり泣いたりはしないのだ。
「いや、俺はいい」
いつのまにか赤子の抱き方まで覚えたカイルと違って、イエルハルトは手を出すことすらできなかった。
柔らかな身体をどう抱えればいいのか、万が一にでも落としたら大変なことになるだろうと考えれば、マデレーネだってリスクを冒してまで抱かれたくないだろうと言い訳をする。
異母妹をかわいがりたいとは思わない。
だがエリンディラがイエルハルトの日常に馴染んでしまったように、マデレーネも少しずつイエルハルトの日常に馴染んでしまった。
*
「イエルハルトおにいさま!」
ぴょこんと顔を出すマデレーネに、イエルハルトは眉を寄せてため息をついた。
ふにゃふにゃとした赤ん坊だったはずの異母妹は数年で歩いてしゃべるようになり、こうしてあからさまな態度にもめげない心を手に入れた。
マデレーネは懸命にテーブルを覗こうとする。けれどもまだ小さな身体では、両手でテーブルのへりにつかまって、背伸びをしてようやく見えるかどうかというところ。
「なにを、されて、いるのですか」
「……勉強だ」
うしろにひっくり返りでもされたらたまらないと、イエルハルトはマデレーネを抱きあげて椅子に座らせてやった。マデレーネは目を輝かせてイエルハルトの手元を覗き込む。
「ラ・ン・デ・フォ・ル・ト……やま」
書き写した地名を読みあげ、なにが楽しいのかマデレーネはきゃっきゃと笑う。
「兄上、マデレーネ。どうしたのですか」
そのうちにカイルもやってきて、マデレーネの隣に座った。増えたギャラリーにイエルハルトはげんなりとした顔になる。
「おにいさま、おべんきょうです。わたくしも」
「もう字が読めるのかい。マデレーネはかしこいね」
カイルに頭を撫でられ、マデレーネはますます嬉しそうに笑った。
「兄上は将来、国王になられるのだよ。ぼくたちもちゃんと勉強して、兄上を支えられるようにならなければね」
「はい!」
弟妹は兄を誇らしげに見つめて笑う。
(本当に意味がわかっているのか)
よぎった皮肉は心の中だけに押しとどめて、イエルハルトはもう一度ため息をついた。その口元がほほえんでいるとは気づかずに。
*
さしだされた深緑の宝石に、イエルハルトは目を瞬かせた。大きさといい、色艶といい、質のよいものであることがわかるそれ。
「ベイロン領ではね、その年に採れた翡翠を、子どもが健やかに育つように願って、お守りにするの」
押し付けがましくなることを恐れたやわらかな笑顔で、エリンディラは切りだした。
すでに十三の歳になったイエルハルトには、彼女の言いたいことがわかった。子どもたちのためにとわざわざ探してきたのだろう。
もとが実務派のエリンディラは、王妃となってからも視察として各領地をめぐった。それらの土地で譲り受けたり買い求めたりした土産物を渡してくることも多々あった。そのたびにカイルとマデレーネは無邪気によろこんだが、イエルハルトは素っ気ない礼を言うだけだった。
だが、今回のこの翡翠は。
受けとり、礼を言うことが、エリンディラを母と認めることになる。
それがわかっているからこそ、エリンディラはいつものはつらつとしたものではない、彼女らしくないとさえいえる弱々しい笑顔でイエルハルトを見ているのだ。
嫌なら手に取らなくてもいいのだと、言外に滲ませて。
イエルハルトは無言でエリンディラを見つめた。
ずるい、とは思わなかった。青いやさしい瞳は、あくまでイエルハルトを想いやっており、彼に無理強いをしたくないのだという真摯な感情が伝わってくる。
それでも、どういう生き方をすればこんな表情ができるようになるのか、イエルハルトには想像ができない。だから信じていいのかもわからなかった。
ただじっと待つエリンディラの手から、イエルハルトは翡翠を受けとった。
「……礼は言いません」
自分にできるのは、ひとつだけだ。エリンディラの心を受け入れることだけ。自分から返すことは、まだできそうにない。
そんなイエルハルトにエリンディラは目を細めた。
「ありがとう」
ひとつだけでも、歩みよってくれたのが嬉しい。表情からも声からも、そんな想いがあふれている。
自分とイエルハルトのあいだにある壁を、急ぎ取り払おうとしないことも、エリンディラのやさしさなのだ。
(……信じてみてもいいんじゃないか)
かつて母にそうしたように、自分を預け、裏切られることのないものとしてエリンディラを認めてもいいのではないだろうか。
心に芽生えたあたたかなものを、イエルハルトは大切に育てようとした。
それが育ち切る前に摘みとられてしまうとは知らずに。
飢饉がヴァルデローズを襲い、次いで押し寄せた疫病の波に呑まれた王宮で、エリンディラはその短すぎる生涯を終えてしまった。
マデレーネと、北部のために使った多額の借金を残して。





