30.カトリーナの決意
執務室を訪れたマデレーネとカトリーナに、イエルハルトは感情のない視線を向けた。
震えそうになる両手を胸の前で握りしめ、カトリーナは暗青色の瞳を見つめる。
「こんばんは、イエルハルト様」
「……なんだ、それは」
挨拶を返すこともなく、マデレーネの手にあるものを見たイエルハルトは眉を寄せる。
両手で支えた盆の上には、小さな器がのっており、そこから香ばしい匂いがただよっている。
「チキンスープです」
料理名を出され、イエルハルトは黙り込んだ。そういう意図ではない問いだったことはマデレーネもわかっているだろうに。
「ふざけた真似をするなと言っているんだ」
「ふざけておりませんわ。食事にほとんど手をつけていらっしゃらないと聞きました」
「食べる気がしないからだ」
「!!」
息を呑んだのは、カトリーナだった。
イエルハルトは器を持ちあげると、盆の中にひっくり返したのだ。わずかにこぼれたスープは滴ってマデレーネのドレスに落ちる。
だが、マデレーネは動じなかった。
「召しあがらないのであれば残してください。そうすればほかの者が食べられますし、掃除の手間も省けます」
「フン、言うじゃないか」
器を持ったときにイエルハルトも気づいた。食べやすいようにとの配慮なのだろう、湯気の立つスープは、触れられないほど熱いわけではない。
「わたくしはイエルハルト様の体調を案じております」
悲しげに目を伏せるマデレーネに、イエルハルトの笑みはますます歪む。
「しばらくは消化によいものを作らせます。わたくしとカトリーナ様も同じものを食べますから、どうかイエルハルト様も」
頭をさげるマデレーネにイエルハルトは何も言わない。
マデレーネが視線をカトリーナに送った。うながされ、カトリーナはイエルハルトを見つめる。
「……わたくしも、マデレーネ様と同じ気持ちです」
イエルハルトは背を向けた。執務机に戻ると、書類を引き寄せる。
カトリーナが執務室に入ったことはなかった。ドアの前で声をかけようか悩んでいたのは知っている。だからこそイエルハルトは執務室から出なかったのだ。
それが、マデレーネとの関わりを得て、彼女は変わりつつあるらしい。
そっと顔をあげ、部屋を出るマデレーネとカトリーナの背中を一瞥してから、イエルハルトはふたたび書類に視線を戻した。
***
「マデレーネ様、わたくし、一度家に戻ります」
キッチンへ食器を戻し、ドレスを着替えたマデレーネに、カトリーナは言った。
「父に話を聞きます。そうでなければ、イエルハルト様のお気持ちもわからない。……わが家が何をしたのか、確かめなければ」
「わかりました、カトリーナ様」
マデレーネも、先ほどのイエルハルトの様子を思いだしていた。
イエルハルトは、マデレーネに対しては大仰すぎるほどの侮蔑と敵意を向けてきたが、カトリーナのことは無視した。
(カトリーナ様がフォルシウス公爵のご令嬢だから、というのではなくて……)
カトリーナが語りかけようとした途端に背を向けたのも、態度を決めかねているように見えた。
(イエルハルト様は、カトリーナ様のお心がわかっていらっしゃるのではないかしら)
きっとイエルハルトは自分を憎んでいるのだと、カトリーナは言った。けれども、本当に憎まれているのはマデレーネのほうだ。
ずきん、と痛んだ胸を押さえ、マデレーネは目を閉じた。
(カトリーナ様が、イエルハルト様の支えになってくださいますように)
それはもうマデレーネにはできないことだから。





