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29.ディルという料理人

 ほとんど手のつけられていない料理を前に、ディル・キッシュは苛立ちを覚えていた。

 メインは、グーネ牛の希少部位を塩とハーブで熟成させ、じっくりと焼きあげた一品。前菜のマリネも、テリーヌも、サラダやスープに至るまで、手は抜いていない。

 

 高級な食材をふんだんに使い、それでも完食を望んではいけない。

 相手は国の頂点に位置する王族。

 そんな方々に口に運んでいただけるだけでもありがたいと思え。

 

 ディルの前に料理長であった男はそう言った。

 

 だが今や料理長の座はディルに譲られ、男はもういない。そのことを告げられたのはほんの数日前。

 

「黙っていてすまなかった。おれは故郷に伝手がある。今度からはお前がトップだ」

 

 驚きに目を丸くするディルに料理長はそう告げて、シェフ帽を託すとさっさと荷物をまとめて去ってしまった。彼に近しい立場の上司たちも。

 解雇の話を受けた彼が率先して離職を望み、ディルら若手が沈みかけた泥船に残されたのは誰が見ても明らかだった。

 

(こうなることがわかっていたのか?)

 

 ヨハンの顔が脳裏をよぎる。

 ノシュタット領から王宮に戻ってきたヨハンは、嬉しそうな顔ひとつせずすぐに出ていってしまった。

 ダルグレン侯爵家に雇われたと聞き、それなら王宮よりも給金はさがるじゃないかと腹の中で笑ったのが数か月前のこと。

 

 ――人を幸せにするのが料理だろう?

 

 北部の僻地で何があったかわからないがそんな気障ったらしい台詞を口にして、自分と同じ年頃、自分と同じように家族を抱えているはずのヨハンは去ってしまった。

 

 食事には、よい食材とよい料理人が必要だ。

 人を幸せにするには金がかかる。

 その金が、王家には尽きてしまったようだ。侍従たちが解雇され、貴族も寄りつかなくなった。当然料理人も必要ないから、数は三分の一ほどに減らされた。

 キッチンだって半分も使っていないし、忙しく立ち働いていたメイドたちもいない。

 

「ディルさん」

 

 声をかけられはっとして振り向くと、若いキッチンメイドが心配そうにディルを見上げていた。 

 

「そのお皿、もういいですか」

「ああ」

 

 頷き、身を引くと、メイドは料理が盛りつけられたままの皿を盆にのせた。残った食事は使用人が食べることもあるし、城の外で施しにすることもある。無駄にはならない。

 だとしても、自分の料理が主人をよろこばせなかったという事実が消えるわけではない。

 

「……殿下は、お具合がお悪いのでしょうか。こんなにおいしそうなのに召しあがらないなんて」

 

 見たこともない料理の数々に心を奪われている目で、ぽつりとメイドが呟いた。

 

「さあ……」

「王女殿下と、ご婚約者様は、とてもおいしいって。全部召しあがったのですよ」

 

 無言のディルの顔をもう一度見上げ、メイドはそそくさとキッチンをあとにした。

 

 ディルが料理長シェフとして晩餐を用意したのは、王太子であるイエルハルトと、その末妹マデレーネ、イエルハルトの婚約者のカトリーナである。

 カイルはこのところ王宮を留守にすることが多く、何も言わぬときには作らずでよい、ということになっていた。

 

(カトリーナ様は、召しあがってくださったのか)

 

 供も連れず、カトリーナが飛び込んできたのは一週間ほど前。イエルハルトと同じ食事を出していたが、カトリーナもあまり食欲はないようだった。

 何かあったのだろうかと考えれば、おそらくマデレーネしかいない。

 

 里帰りしたマデレーネに何を出せばよいのか、ディルは悩んだ。

 彼女がノシュタット家に嫁ぐまで、イエルハルトの命令でマデレーネには食事らしい食事が与えられなかった。

 王宮へ戻ったマデレーネには、以前と同じようにすべきなのだろうかと。

 イエルハルトからはなんの下知もなく、それが以前と同じようにという意図なのか、真逆の意図なのかがわからなくて。

 

 迷った末に、ディルは、イエルハルトやカトリーナと同じ料理を出した。

 

 理由は単純だった。

 マデレーネなら、ディルの料理を残さず食べてくれるだろうと思ったからだ。

 

 そしてその予想は当たった。

 

 *

 

「こんにちは、シェフ」

 

 背後から投げかけられた声に、ディルは驚いて振り向いた。

 メイドの去ったあと、誰かが入ってくるとは思っていなかった。しかもその声の主は、思いも寄らない人物で。

 

「マデレーネ様……どうされたのですか」

 

 金髪を揺らし、穏やかにほほえむのはマデレーネだ。そのうしろにはカトリーナまでいる。

 王女と未来の妃がふたりでキッチンへやってくるなど、ありえないことだ。

 

「今日の食事はどれもおいしかったわ。ありがとう」

「もったいないお言葉です」

 

 反射的に頭をさげて感謝を表してから、ディルは身体をこわばらせた。自分が無意識に王族への礼をとっていることに気づいたからだ。

 ――だが、ディルは、マデレーネを虐げていた者の一人なのだ。今お褒めにあずかった料理だって、作るかどうかを悩んだ。自分に、マデレーネからの賞賛を受けとる資格はない。

 

(おれは……何をしていたんだ?)

 

 マデレーネ本人が食堂でどんな扱いを受けているのかを、キッチンにいたディルは見ていなかった。ただ、その日マデレーネがどんな侮辱を受けたのかを侍女たちが面白おかしく語るから、いっしょになって笑っていただけだ。

 それだけなのに、自分はマデレーネの肩を持ったヨハンを嘲笑い、ばかなやつだと信じていた。

 

「そんな、かしこまらないで。顔をあげてちょうだい」

 

 頭をさげたまま動こうとしないディルにマデレーネはやさしく声をかける。

 おそるおそる顔をあげて見たマデレーネは、上質なドレスに身を包み、輝くような美しさを放っていた。

 

「ここへ来たのは、あなたに聞きたいことがあるからなの」

 

 青ざめるディルを緊張のせいだと思ったらしい、マデレーネはほほえみを崩さない。自分のやってきたことはすでに許されているのだと、ディルは悟った。

 

「イエルハルト様が、食事をとっていらっしゃるかどうか、確かめたいの」

 

 マデレーネの瞳は真剣だ。カトリーナのほうは、必死とさえいえる面持ちでディルを見つめている。

 

 そうだ、とディルは思った。

 

 長年、ディルは、自分の立場を確保するために行動してきた。王太子であるイエルハルトに従うことがもっとも重要なのだと思って、理不尽ともいえる命令に粛々と従った。

 ほかの者たちもそうだ。

 

 とくに飢饉後のもっとも困窮したころ、王宮の財政も悪化はしたけれど、それでもまだ市政に比べれば息がつけるだけの給金があった。王宮を追い出されるわけにはいかなかった。だから幼いマデレーネを悪者にして――。

 

 そうやって暮らしてきた結果がこれなのだ。

 

 誰かを案じる言葉を聞いたのは、誰かを真に思う瞳を見たのは、いったい何年ぶりだろう。

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