28.銀のスプーン
「すっかりと長居してしまったな」
苦笑いを頬に浮かべ、カイルは呟いた。来たときには用件をすませたらすぐ帰るつもりだった。それは心の底でアランと顔をあわせたくないという気持ちがあったのだと今ならわかる。
妻と離縁しろと言いにきたのだからそれは当然だ。だがその心苦しさを、カイルは国のための仕方のない犠牲だと思い込もうとしていた。
カイルとアランは、あれから、何を語り合ったわけでもない。ただ二人とも、窓の外を眺めながらぼんやりと空模様を眺めていた。
雲は徐々に厚みを増して空全体を覆うようになり、今にも降りだしそうだ。
「……帰る」
「どちらへお帰りになるのですか」
「それも気づいていたか。……今日は王宮へ戻る。マデレーネがいるのだろう?」
カイルの乗ってきた馬車の紋章は王家のものだったけれども、馭者の顔には見覚えがあった。土着貴族として領地をめぐる習慣から、アランは人の顔をよく覚えている。
ダルグレン侯爵家にいた者の一人だ。
「先ほども言ったが、我々はフォルシウス公爵の不正を暴くべく動いている。色々と話しておくこともある。……それに」
言いかけて、カイルは言葉を区切った。
ダルグレン侯爵の妹である令嬢と愛情を築きつつあることは、父王には伝えた。だがアランには何も関係がない。これもまた王宮を留守にしている言い訳だと自覚したからだ。
「すまなかったな。だが助かった」
「はい、もったいないお言葉です」
礼をするアランは生真面目な軍人のようだ。
と、そのアランが扉へ視線を走らせた。なんだろうかとカイルも見れば、かすかに子どもの声が聞こえてくる。
「アランさま、じゃなくて、マデレーネさま! あいたい!」
「だから、マデレーネ様は今お留守なんだってば」
声はレイラとトビアンのものだ。
(子どもたちの声だ)
彼らを知らないカイルにとっては、使用人の子どもでも通りすぎたのだろうと思う程度。
だが扉を見つめるアランの瞳には、真剣な色が宿る。
「……カイル殿下。フォルシウス公爵は、ダグマル商会を利用して密輸をしていると考えられますか?」
「そうだな」
堅い声色に驚きを滲ませつつ、カイルは答えた。いざ帰ろうというときになって、アランからこうして踏み込んだ話題を投げかけてくるのが予想外だったのだ。
その引き金になった子どもたちがダグマル商会に関わりがあるとはカイルは知らない。
「王都の北に、ダグマル商会のものとは思えないほど薄汚れた支店があります」
「ああ、そこが怪しいと我々も睨んでいる。だが確証が――」
アランは扉を開け、廊下を覗いた。カイルの護衛としてついてきた騎士たちに阻まれながら、木箱を抱えたトビアンとレイラがこちらを見ている。
「今日はどうした?」
「あ、申し訳ありませんアラン様。どうやら納品にミスがあったらしくて、今日中に交換してこいって親方がうるさくて」
「ほう?」
「最初のときに、食器を買われたと思うんですが、銀のスプーンが一つ違うものだったそうで」
アランはカイルを振り向いた。カイルも、ようやく彼らがダグマル商会の使いであると気づいたようだ。
ダルグレン侯爵家は彼ら独自に庇護をしている商会がある。なにより今の状況でダグマル商会との取引を開始したとしても、尻尾をつかませるわけがない。
だが、アランとマデレーネが初めて店を訪れたとき、そういった警戒はまだなかった。
大工組合の親方がノシュタット子爵と王女の婚姻を知らなかったように、おそらくダグマル商会の店員にもそのことは伝わっていない。
もしかしたら、油断があったかもしれない。
「見ていかれますか?」
あえて、カイルの名を呼ばずに、アランは問うた。
緊張した顔になったカイルが頷く。
トビアンとレイラは不思議そうな面持ちでカイルを見上げたが、彼らにとってノシュタット家はすでに慣れた場所であり、アランも信頼のおける人物だ。
「行こう。晩餐会のための道具は居間にまとめてある」
アランに背中を押され、トビアンとレイラも頷いて歩きだした。
受けとったときのまま、スプーンは木箱に行儀よく並べられていた。順番に箱を開けて覗いていくと、そのうちの一つに、たしかに文様の違うものがある。
アランはスプーンをとりあげた。
こちらから何か言う前に混ざり込んでしまったことに気づいたというのなら、このスプーンはダグマル商会で細かく数が管理されているということになる。
「これは……」
スプーンを手の上で裏返し、アランは声を漏らした。
丸く装飾のついた柄尻の根元に、手がけた工房の印が押されている。重さや混ぜ物に不正がないよう、製造者の身元を示しておくためのものだ。
だが、その刻印は、ほかのスプーンと同じ銀工房のものではなかった。
(わが国にこんな工房の印はない)
カイルが表情を険しくする。だがそれを幼い子どもたちに言ったところで何もならない。
「今日はこれを持って帰らせたほうがいいでしょう」
「そうだな。……感謝する」
固くなる表情をつとめてゆるめ、笑顔を作ると、カイルは子どもたちに向きあった。
「お使いができてえらいね。ご褒美をやろうか」
ポケットからコインを取りだそうとするカイルを、トビアンが止める。
「いらない」
トビアンの言葉に、レイラも表情を引きしめて首を振った。
「レイラも、いらない」
「金は大事なもんだから、むやみにあげたりもらったりしちゃだめなんだって、親方が言ってた」
「いってた」
カイルは軽く目を見開いた。やがてその目は細められ、口元に今度は本心からの笑みが浮かぶ。
「そうか。そうだな」
屈めていた背をのばし、カイルはトビアンとレイラの頭を撫でてやった。そちらのほうがよほど嬉しそうな顔をして、少年と少女ははにかんだ笑いを返す。
ふと、カイルの脳裏に、幼いころのマデレーネがよぎった。
母エリンディラ妃が健在だったころ、マデレーネは彼らと同じ、屈託のない笑顔を見せる少女だった。そしてたぶん、自分も。
「……この屋敷には、マデレーネを思い出させるものがたくさんある」
あたたかい場所だと、カイルは思った。





