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26.もう一人のお姫様

 自室で一人、カトリーナは左手の薬指に光る指輪を見つめていた。

 大粒のルビーをあしらい、側面の金細工も美しいそれは、イエルハルトから贈られた婚約指輪だ。

 

 だが、指輪を受けとりにアリナス宝飾店を訪れたとき、イエルハルトはいなかった。

 イエルハルトが隣に並んでくれたのは、先日の晩餐会のときだけ。こうして王宮を訪れようと短い挨拶だけを交わし、イエルハルトは執務室へ閉じこもってしまう。

 

(イエルハルト様はわたくしを憎んでいらっしゃるのだわ)

 

 それは、カトリーナのせいではない。フォルシウス公爵家のすべてを、きっとイエルハルトは憎んでいる。

 父親がイエルハルトになにをしたのかを、カトリーナは知らなかった。

 

 

 知らないうちに婚約がまとまって、対面したイエルハルトの美しさにカトリーナは息を呑んだ。

 流れるような金髪に、切れ長の目は鋭利な印象を与え、次期国王としての威風を持っていた。夜へ向かう空のような瞳は、底知れぬ奥深さを感じさせて。

 まだ同じ十代のはずの彼は、カトリーナよりもずっと大人びて見えた。

 

「初めまして、イエルハルト様。わたくしを選んでいただき光栄です」

 

 カトリーナは心からそう思った。

 

 その挨拶が的外れだったことを知ったのは、いつだっただろう。

 

 

 イエルハルトはにこやかに応じてくれたけれども、思い返してみればどこか上の空のような態度だった。

 

(もっとイエルハルト様にお会いしたい)と思いながらも、婚約のことを口外しないようにきつく言い含められて。

 手紙のやりとりもどこかそっけなく、自分に興味がないのだと気づくのに時間はかからなかった。

 

 そのうちに、父の政敵であるダルグレン侯爵が勢力を得て。

 晩餐会などに出れば、これまで媚びへつらってきた貴族たちから厭な目を向けられるようになった。

 

「ねえ、カトリーナ様。今後はもう少し、お話を控えませんか」

 

 見かければ一番に飛んできていたはずの取り巻きの令嬢からそう言われた。

 

「どうしてそんな意地悪をおっしゃるの?」

「意地悪ではございませんわ。貴族の嗜みというものです。……カトリーナ様のお父様がもうすぐ職を失われるのではないかと……そうなれば、カトリーナ様もお忙しいでしょうから」

「職を……?」

 

 扇で口元を隠しながら令嬢はちらりと視線を広間の中央に向けた。そこでは、ダルグレン侯爵ハーシェルが、笑顔で周囲の貴族たちに挨拶をしていた。

 

「ハーシェル様が次の宰相になるのではないかと、もっぱらの噂ですわ。……王家の方々も、金で地位を買ったような方よりも、能力ある方を登用したいのではなくて?」

「お父様が……?」

 

 足元が崩れ落ちていくような感覚は、あのときの令嬢の視線を思い出すたびに鮮明によみがえる。

 自分の父親が能力を認められて宰相の座にのぼったのではないことを、少なくとも周囲の貴族たちがそう考えていたことを、カトリーナはその夜知った。

 そしてその座がすでに脅かされようとしていることも。

 

 結局、数年たっても令嬢の言ったことは現実にはならなかった。

 きっと父親が手をまわしたのだろうと思う。

 

 ダルグレン侯爵が宰相となることはなく、宰相の座はフォルシウス公爵のまま、そしてイエルハルトとの婚約は変わらずに愛情のないままだった。

 

 

 今でもすべてはわからない。

 ただ、きっとこの婚約も金で買った婚約なのだと、それだけはわかる。

 

 ――わたくしは、何も知らなかったのです。

 

 マデレーネの言葉がよみがえった。

 

 婚約後も表だってイエルハルトに会えなかったカトリーナは、義父となるはずの国王陛下にも、弟妹殿下にも会うことができなかった。

 

 そしてマデレーネには、騙し打ちのような婚約発表の晩餐会で会うことになってしまった。

 あのときなぜ集まった貴族たちがマデレーネとその夫に敵意を向けたのかも、なぜフォルシウス公爵家を受け入れる気になったのかもカトリーナには推測することしかできない。

 青ざめながら笑っていたマデレーネには、きっとすべてがわかっていたのだろうが。

 

(マデレーネ様は……わたくしと同じ、なのかしら)

 

 政略上の道具として、嫁がされた身なのだろうか。

 

 そう考えかけ、カトリーナは首を振った。

 

 目に浮かぶのは、アリナス宝飾店での邂逅。

 

 カトリーナの指輪は、イエルハルトが選んだものだった。うっすらとピンクがかったダイヤモンドを、希少なピンクゴールドと組み合わせた、甘いデザイン。

 憎い相手に贈るものではないはずだ。適当に選んだものではないと、そう思いたくなる。

 

 これがイエルハルトの心なら、もしかしたら――。

 

 そんな期待を胸に店をあとにしようとしたカトリーナは、おずおずと語らう男女の声を耳にした。何かの予感にとらわれ、視線を向ければ、そこにはマデレーネと、夫のノシュタット子爵がいて。

 

 二人はすでに晩餐会での屈辱など忘れ去ったかのように、仲睦まじく頬を染めあっていた。

 

(――ああ、そうだった。マデレーネ様はわたくしと違うのだわ)

 

 マデレーネは、幸せを手に入れたのだ。夫に愛され、ふたりで生きてゆく未来を手に入れた。だから自分とは違うのだとカトリーナは思う。

 

 父親が何をしているのか知らないままに、ぬくぬくと育ってきて。いざ、隣に並びたい人ができても、その人には憎まれている。

 

 カトリーナの瞳にじわりと涙が浮かんだ。

 

 扉の向こうから、控えめなノックの音が響いたのは、そのときだった。

 

「カトリーナ様……?」

 

 聞こえてきたのは、マデレーネの声だ。

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