25.カイルの算段
アランは驚かなかった。予想した中では最も悪いものではあったが、とにもかくにもカイルの言葉は予想どおりと言えたから。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
表情を変えず、じっと自分を見つめるアランに、カイルは小さく息をつく。
アランが笑ったのは、媚びでも、負け惜しみでもなく、友好の印だったということがわかったからだ。裏表のない対話を望む証としてアランは笑ったのだった。
「このままでは、兄上……いや、イエルハルトは、マデレーネごとノシュタット家を潰そうとする。しかし貴殿とマデレーネが関係を白紙に戻せば、少なくとも貴族たちの目は逸らせる」
「王女を離縁したとなれば、私に批判の声が起きそうですが」
「そこは……呑んでいただくしかない。マデレーネと夫婦でいるよりは減るはずだ」
カイルの瞳は真剣な色を帯びている。たしかにマデレーネの面影があると、場違いなことをアランは考えた。
いや、場違いではない。誰かを守ろうとするまなざしを、アランはマデレーネから向けられたことがあるから。
「マデレーネのため、なのですね?」
アランの質問にカイルは頷いた。
「マデレーネは、ダルグレン侯爵と結婚させる。そうすればマデレーネに対する風当たりは防げる」
「つまり、マデレーネ姫のために、俺に毒を飲めとおっしゃるわけだ」
砕けた物言いにカイルはぐっと奥歯を噛んだ。
「自分勝手なお願いだとは思う。だが、マデレーネを守るためには、これしかない」
「本当に自分勝手ですね」
思わずアランが苦笑いを漏らすと、カイルは怯んだ表情になる。けれどもすぐに姿勢を正し、正面からアランを見る。
その態度は、自分と妻との仲を引き裂こうとする男ながら、憎めないものがあるとアランは思った。
イエルハルトからの命を受け、マデレーネはほとんど身一つと言っていい格好でノシュタット家へ嫁いできた。
そのときそばにいたはずのカイルがどんな行動をとったのかはわからない。逆らうことができなかったのだろうと思う。
「……マデレーネが言っていました。殿下からはとてもよくしていただいたと。庇ってもらったことも何度あるかわからないと」
ただ、そのたびにイエルハルトの不興を買い、カイルではなくマデレーネに罰が与えられた。そのためカイルは徐々にマデレーネとの関わりを断たざるをえなくなった。
だが今のカイルは、なりふりかまわずマデレーネを守ろうとしているのだ。
そんなカイルを相手に、怒りは湧いてこない。
かといって、従おうとも思えない。
「離縁の件は、お断りします。彼女は俺の妻です。マデレーネがいれば断るように言うはずだ」
だからマデレーネのいないときを狙ったのでしょうと、そこまで口に出せばさすがに不敬に当たるだろうからアランは言葉を噛み殺した。
カイルは俯いてこぶしを握りしめている。地位の上では当然カイルが優位だが、今この部屋をとりまく緊張した空気の中で、気迫を失いかけているのもカイルだった。
「お忙しいでしょうから、お話がここまでであれば――」
「ぼくは、兄とフォルシウス公爵家に対抗する」
うながす言葉を遮り、カイルは顔をあげた。アランの空気に吞まれかけていた己を叱咤するように、カイルは一歩前へ出る。
「フォルシウス公爵は、ダグマル商会を通じて、密輸をしている。ダルグレン侯爵がその証拠を探っているところだ」
「……」
アランは目を見開いた。ダルグレン邸を訪問したとき、マデレーネがハーシェルと二人きりになった時間があった。その後、アランと目を合わせたマデレーネは、青ざめた顔で笑っていて。
臆病風を吹かせたアランは、何があったのかを尋ねることができなかった。
このことを、カイルは言わないつもりだったに違いない。だが言わなければアランは動かせないと悟ったのだ。
「エリンディラ妃に……マデレーネの母親に、多額の金を貸し付けたのはフォルシウス公爵だ。だがなぜそんなことができた? 飢饉で国内全体が喘いでいた時代に。ノシュタット領ですら今のような財を成したのは飢饉が終わってからだ」
カイルは淡々と告げる。だが握り込まれたこぶしは震え、アランを見る瞳には怒りが燃えていた。
「だが、今やつの不正を暴いても、政治は混乱するだけだ。公爵家からはすでに多額の金が王家に流れている……その金がなければ、おそらく王家は滅びていた」
かけるべき言葉を見つけられず、アランはただ黙ってカイルの語る内情を聞いた。カイルも、中途半端な慰めや憤りの台詞など聞きたくはないだろう。
アランの両親は、愚直な領政を貫き、アランもそれを継いだ。だがノシュタット領が発展したのはあるべきときに金があったからだ。そうでなければ、ただ親譲りの政治を続けたところで、今のノシュタット領はなかった。
カイルは肩の力を抜き、小さく息をついた。
「父上がおっしゃっていたのだ。きょうだい三人で助けあわねばならないと。……ぼくはその言葉を守れなかった。言葉の真意に気づけなかった」
ただ、諍いごとをなくせという意味だけに受けとってしまった。だから、イエルハルトの勘気に触れぬよう、マデレーネをじっと耐えさせてしまった。
「マデレーネの能力があれば、国を立て直すことができたのかもしれない。……ノシュタット領や北部領の団結を見ているとそう思う。本当は、あれが目指すべき姿だったのだと。だが、もう手遅れだ。そうはならない」
アランは目を細めた。
誰もに言ったことのない怒りや後悔だったのだろう。幼くして領主となったアランと、同じ年頃で第二王子の立場にいたカイル。どちらがつらいかはわからない。わかったところで、優劣がつくわけでもない。
「殿下は、国を立て直したいとおっしゃるのですね」
静かなアランの言葉にカイルは頷いた。
「フォルシウス公爵を退け、ダルグレン侯爵を貴族の中心に据える。この数年で、フォルシウス公爵から距離をとる貴族は増えてきていた。ハーシェルはよく動いてくれた。公爵のやり方は結局のところ、本当の意味で国を富ませはしない」
「その意見には私も賛成です」
「かしこまらなくていい。普段のように話してくれ。ぼくもそうする」
「……椅子をどうぞ」
示されたテーブルには、応接のための紅茶と軽食が並んでいる。
(勘が外れたな)
妙に冷めた思考でアランは考えた。冷静なわけではない。むしろその逆、思いがけないカイルの感情に触れ、動揺しているというのが正しいのだろう。
手ずから茶器を扱い、アランはカイルに給仕した。
会話の時間は、感じていたほどには長くなかったようだ。紅茶はまだ熱を保ち、落とした砂糖は一瞬で崩れて溶けた。
二人は向かい合ってティーカップを持ち、喉を潤すと、ほっと息をついた。
「奇妙な光景だ」
「まったく」
カイルの苦笑にアランも同意する。
今のカイルにはわかっていた。自分たちの置かれた窮状を理解してなお、アランはマデレーネとの離縁をよしとしないだろう。
それは、マデレーネのことを、アランが誰よりも理解しているからだ。
自分にもこんなふうに想いあえる相手ができるのだろうかとカイルはため息をついた。
「貴殿は、マデレーネに似ているね」
「私……いや、俺のことも、アランとお呼びください。カイル殿下」
「ああ、そうか。ではアラン。君を見ていると、マデレーネを思いだすよ」
「それは光栄です」
けれど、似ているなんてことはないのだろうとアランは思う。マデレーネは春のそよ風のようにやさしく、人の心を吹き抜けていく。アランにマデレーネの面影があるというのなら、それは風の残り香なのだ。
王家がマデレーネの価値に気づけば、取り戻しに来るだろう、と。
ノシュタット領でマデレーネの能力を目の当たりにした自分は、そう考えた。そしてその決定に従うつもりであったというのに。
「マデレーネは、対立を望まないでしょう」
「……そうだね。ここへ来て、ぼくもそれを理解した」
カイルは、無意識のうちに、マデレーネを政治の道具として扱おうとしていた。
ダルグレン侯爵に嫁がせ、自分はこの貴族に就くのだと示すのなら、それはイエルハルトのやり方と本質的に変わらない。
アランに会い、カイルはそのことに気づいたのだった。
いや――もしかしたら。
自分でも気づいていて、一歩が踏みだせなくて。
背中を押してもらいたかったのかもしれなかった。





