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22.イエルハルトの心

 イエルハルトの言葉に、マデレーネは大きく目を見開いた。

 

 この対話が穏やかにすむとは思っていなかった。罵倒されることも、また水をかけられることも想定内だった。

 けれどもイエルハルトの言葉はマデレーネの想像を大きく上回っていた。

 

「なぜですか」

 

 イエルハルトは目をあわせない。ソファにもたれ、頬杖をついたままテーブルの書類を眺めている。

 

「離縁のための書類だ。ノシュタット子爵のサインは必要ない。王家の権限で離縁させる」

「お願いです、理由をお聞かせください」

「だがお前のサインは必要だ」

「イエルハルト様」

 

 思わず名を呼ぶマデレーネに、イエルハルトはようやく顔をあげた。

 暗青色の瞳が刺すような視線を向ける。

 

 以前のマデレーネなら、顔を伏せて笑顔を作ったことだろう。イエルハルトも言っていた。

 

 ――なにをされても笑って座っているだけだ。

 

 彼の苛立ちが今ならわかるような気がした。

 マデレーネは、反論することもなく、ひたすらに己に与えられる仕打ちに耐えた。それが自分にできる精いっぱいだと思っていたのだ。

 

 けれどもそれは違った。

 自分が心を隠したままで、相手の本心が聞けるわけがない。

 

 衝突を避けるのではなく、衝突の向こうにある和解を信じなければ。

 

「これまでの至らぬ点をお詫びいたします」

 

 マデレーネは深々と頭をさげた。膝をつけと言われればそうするつもりだ。

 

「わたくしにもイエルハルト様のお考えをお聞かせください」

 

 間近で見た異母兄は、マデレーネの記憶よりもずっと儚く見えた。イエルハルトはアランともそう歳は変わらない。

 アランが様々な苦渋に耐えてノシュタット領を守っていたように、イエルハルトにも様々な苦境があったはずだ。

 

 だがマデレーネはそのことを知らない。

 マデレーネの瞳には、イエルハルトはいつも何不自由ない生活をしているように見えたし、自分自身に向けられた苛立ちの理由はわからなかった。

 

(でも、そんなはずはなかったのだわ)

 

 顔をあげたマデレーネは、しっかりとイエルハルトを見据えた。

 イエルハルトももう視線を逸らさなかった。

 

「……お前の望みはなんだ? マデレーネ」

 

 思いがけない問いにマデレーネの表情に驚きが浮かんだ。

 イエルハルトに表情はない。無機質な視線がただマデレーネに注がれている。彼が何を思っているのか、考えてもマデレーネにはわからなかった。

 

 もとより、嘘をつく理由はない。

 

「ノシュタット領の平穏を望んでおります」

 

 マデレーネの凛とした声が響く。

 

「王都の皆様がおっしゃるような野心はノシュタット家にはございません。現在の暮らしが続けられればそれ以上は望みません」

 

 ノシュタット家に敵意はない。これまでそうであったように、ただ北部の領地を守れればそれでいいのだ。

 

「母の活動を支援してくださったフォルシウス公爵にも、恩を感じこそすれ敵対する意図はございません」

「だが、公爵殿はノシュタット家を脅威に感じている。交易の手を広げたそうじゃないか。軍備も拡張していると」

「軍備ではございません。領地を守るための人員です」

 

 人口の増え続けるノシュタット領では放っておけば犯罪も増える。町には警備の人員を増やし、村にも自衛をさせる。かつ、領主であるアランが見まわりを欠かさないことで、抑止力としているのだ。

 マデレーネを避けるための方便でもあった外出は、しかしマデレーネが来る前から必要とされて行われていたもの。

 

「そうか。――ならやはりお前は、ノシュタット子爵とは離縁しろ」

 

 うってかわって、イエルハルトの口調は穏やかなものになった。感情の読めない表情は同じでも、目の奥に何かしらの意思が宿っているようにマデレーネには思えた。

 それでも命じる言葉はマデレーネの想いとは食い違う。

 

「もうわかっただろう。俺がお前をあやつへ嫁がせたのは、金のためだけではない。フォルシウス公爵を後見人としたかったからだ。俺がノシュタット家に便宜を図るような期待はするな」

「わかって……おります」

「フォルシウス公爵にとってノシュタット家はどうあっても邪魔者だ。ならば脅威を減らすほかはない」

「その脅威の一つが……わたくしなのですね」

 

 マデレーネ自身も、公爵邸での晩餐会で感じたことだった。

 中央貴族は北部に疎い。常春の国を尊ぶ彼らには、冬の寒さはことさらに厭なものなのだ。その中心人物となったアランが、これまで王都にほとんど顔を出してこなかったのだからなおさら噂は独り歩きする。

 

 ノシュタット家のためにマデレーネがよかれと思ってしたことは、王都に来てすべて裏目に出てしまった。

 

「たしかに、わたくしがアラン様と離縁すれば、少なくともアラン様が公爵位を欲しているという噂は否定できます」

 

 そのままアランが北部へ戻り、ひっそりと暮らすならば。

 中央貴族たちはアランを忘れるだろう。

 

「ですが、それはできません」

 

 イエルハルトの眉がぴくりとあがった。

 

「愛する人間のためにわが身も捨てられないのか」

「いいえ、わが身は捨てられます。けれども心は捨てられません。わたくしの夫はアラン様です」

 

 まっすぐに対峙するマデレーネに、イエルハルトは軽く目を見開いたが、すぐに表情を消して立ちあがった。

 

「そうか。なら状況は変わらない」

 

 それだけ言うと部屋を出ていってしまう。その背に頭をさげ、扉の閉まる音を聞いてから、マデレーネは顔をあげた。

 テーブルには離縁のための書類が置かれている。


 一人になったマデレーネは、小さく息をつき――引き結んでしまいそうになる口元をゆるめ、笑顔を作った。

 

(少しだけ、イエルハルト様のお心に触れられたような気がする)

 

 イエルハルトは終始マデレーネを冷たくあしらったように見えるが、それだけではない。

 本当にイエルハルトがアランとマデレーネの離縁を望むのなら、彼にはマデレーネの意思を無視できる権限があるのだ。マデレーネが離縁を拒否することをわかっていてあえて尋ねたように、マデレーネには思えた。

 

 ノシュタット家で暮らした期間でマデレーネに変化が訪れたように、マデレーネのいないあいだ、イエルハルトにもなにかがあったのだ。

 

 そして、イエルハルトの行動の背後には、フォルシウス公爵の思惑があるのだということもわかった。

 

(わたくしは、わたくしにできることを)

 

 それが何なのかはまだわからないけれど。

 少なくとも、このままノシュタット邸に帰るわけにはいかない。

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