16.温かなミルクポトフ(前編)
望みはただ、慎ましく穏やかな暮らしだ。
アランは領地を守りたかっただけで、北部を牛耳ろうとも、王都に進出しようとも、王家の借金を肩代わりした恩を着せて公爵位を迫ろうとも考えていなかった。
だが、自分の身を守る力を持たぬものほど、敵意には敏感だ。ありもしない場所にそれを見出してしまうほどに。
*
重たい空気をまとって帰宅した主人夫妻に、ユーリアは一瞬怯んだものの、すぐに笑顔を見せた。
「ただいま、ユーリア」
「旦那様、奥様、お疲れ様でごぜえました! なにか召しあがりますだか?」
「いいえ、……」
首を振ったものの、言葉を詰まらせるマデレーネに、ユーリアはずいっと一歩を踏み出す。
「では、ミルクポトフはどうですだか?」
「……」
マデレーネの視線がようやくユーリアの視線に交わった。そのときになって初めて、自分は俯いたまま視線を落としていたのだとマデレーネも気づく。
マデレーネは周囲を見まわした。つられてアランも顔をあげる。
「今夜は、リュフさんがこっちでの晩餐会に出すメニューの試作品を作ってくれたんですだ。あの、海老も、王都なら安くなるからっていっぺえ入れてくれて……」
思い出したのかユーリアの顔がふわんと赤くなる。
その表情を見、アランとマデレーネは顔を見合わせた。
「ええ、そうね。お願いできるかしら。アラン様もどうぞ」
「ああ……頼む」
頷くアランにユーリアの顔はさらに明るいものになった。
「リュフさんに言ってきますだ!」
勢いよく走りだしかけ、思いとどまってしずしずと歩く。王都にいるあいだは屋敷の中でも礼儀を忘れぬように、とはスウェイの言いつけである。
ユーリアを見送り、マデレーネはほっと息を吐いた。
(そうだわ)
ここはもう、ノシュタット家の屋敷。
馴染んだものではないけれど、少なくともこの屋敷の中で神経を尖らせている必要はない。
帰りの馬車でも、マデレーネは考えていた。この先どうするべきか。
このままではノシュタット家は窮地に陥る。せっかく打ち立てた王都との交易に、フォルシウス公爵は公然と圧力をかけてくるだろう。貴族たちもそれに追随する。
送った招待状の返事が届くことはあるまい。
北部から王都へ入り込んできた成り上がりにどう接するべきか悩んでいた彼らは、今日答えを得た。
王太子イエルハルトも、中央貴族の頂点たるフォルシウス公爵も、北部とは手を結ばない。
彼らは北部貴族たちや、公爵位を狙う傲慢な成り上がり子爵を相手に一致団結してしまった。
保たれていた均衡を崩してしまったのはマデレーネの行いだ。
「マデレーネ姫」
アランの声にマデレーネは顔をあげた。まっすぐにぶつかる視線。
アランはふと口元を隠し、眉を寄せたが、
「いえ……マデレーネ」
「アラン様」
「俺は、あなたをマデレーネと呼ぶことにします」
「……それは」
どういうことかと尋ねるほどマデレーネは鈍くない。
アランの心の中で自分はいつまでも幼いころの姫君のままなのだと、そう感じていた。アランはマデレーネを守ろうとしてくれた。だがそれは主君に忠誠を誓う臣下のように、だった。
その関係を、変えようというのだ。
「わたくしを、妻と思ってくださいますか?」
マデレーネはアランを見つめた。仄暗く色を移さないと見えた瞳の奥は燃えあがるような輝きを隠していて、マデレーネを見つめ返す。
――あなたを妻と思う気はない。
初めて会ったときのアランは、そう言った。マデレーネもそれを受け入れた。
「俺は、あなたを手放すつもりでした」
最初に冷たくあしらったのは、マデレーネを自分のものにしようなどという大それた気持ちを持つことができなかったからだ。マデレーネに押しつけられた借金を清算し、自分の役目はそれで終わりだと思っていた。
マデレーネが北部貴族たちに受け入れられてなお、いつでもマデレーネを手放せるようにしなければならないと考えていた。
けれども、先ほどの晩餐会で、アランは考えを改めた。
(こんなところで彼女を一人にできない)
王都に戻ってもマデレーネの居場所はない。あったかもしれない居場所は、イエルハルトの手できれいに拭い去られてしまった。
アランは手をさしだした。マデレーネの贈った仔山羊の白手袋は晩餐会のままアランの手を包んでいる。
「ノシュタット子爵夫人として晩餐会に参加したいと、あなたは言ってくださった。だから俺も、あなたの夫になりたいと思います」
「アラン様……」
アランの手にマデレーネの手が重なる。
マデレーネの青い瞳に自分が映っているのを、アランは見た。あいかわらずぶっきらぼうで表情の読めない顔をしていると自分でも思う。
だが今は、いつもほほえみを浮かべているマデレーネも、真剣な表情でアランを見つめていた。
その先に続くであろう、アランの言葉を待って。
「俺は――」
アランが言葉を紡ごうとした、そのときだった。
コンコンコン、とノックの音が響いたのは。





