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31.ふたりの出会い(前編)

 人気ひとけのなくなった広間では、大仕事を終えた料理人が二人、静かに酒を酌み交わしていた。

 リュフがアランとマデレーネに願って許可をとったのである。相手は当然ヨハンだった。

 

「これであんたの仕事も終わりか」

「ずいぶんと馴染んでしまったから王都に帰るなんてまだ変な気分だ。妻と子供らを連れて移り住んできたいくらいだな」

 

 ヨハンは苦笑まじりのため息をついた。

 ノシュタット家からの給金で何年かは生活に困らずにすむが、久々に料理の楽しさを思い出してしまった今、王都で働くのは気の進まないことだった。

 

「ノシュタット家も王都に屋敷がある。旦那様は滅多にお行きにならないが……王都を訪れる機会があれば文を書くよ」

「そうか。ならそのときはまた雇ってくれ」

「ああ。奥様はそうなさるだろう」

 

 ぽつりぽつりと交わされる言葉といっしょに酒も注がれる。

 

「なぁ、あのポトフも焼き菓子も、もとはあんたが作ったものだったんだろ?」

 

 赤くなった顔を高い天井に仰ぎ向けながら、リュフはぽつりと呟いた。

 

「知っていたのか?」

「レシピの考案者だと奥様から聞いた」

 

 ヨハンはそのことを言わなかった。初日に泣きだしたヨハンを見てリュフも思うところがあっただろうが、やはり口には出さなかった。

 仮に知らなかったとしてもリュフにはわかっただろうとヨハンは思う。ノシュタット領の料理にヨハンはすぐ馴染んだし、宮廷料理に驚いたリュフとは違って、レシピ自体への困惑はなかった。

 そしてそのときでも、ヨハンが余計な責任を抱えぬよう、晩餐会が終わるまで黙っていたに違いない。

 

「どうして王都の人間があのレシピを?」

「当時の寵妃、エリンディラ妃のご命令だ――いや、命令というのは正しくないな。依頼だった」

 

 口についてしまった言い訳を否定し、ヨハンはグラスをまわした。ほのかに色味のついた透明なワインが波打つ。命令だ、と思い込みたかったのは、さもなくば自分から破滅の道を選んだことになってしまうような気がしていたからだ。

 だが、今夜の晩餐会で、宴の席をこっそりと窺ったヨハンは、たくさんの笑顔にぶつかった。それで十分だ。

 

「あの頃はしばらく豊作が続き、国中が賑わっていた。エリンディラ様はそんなときこそ力をつけ、蓄えるべきだと考えられたのだ。耕地の開拓や農具の改良に加え、食べられるものを増やそうとした。農村以外にも、都市の教育制度や、市場の推奨など――」

 

 若きヨハンが声をかけられたのは、彼が宮廷料理に染まりきっていなかったためなのだろう。

 

 ――これまで宮殿では使ってこなかった食材を使い、調理法も簡単にしてね、誰もが作れて好きになってくれる、夢のような料理を……。

 

 エリンディラ妃の声が耳元でこだまする。少女のように目を輝かせ、未来を語る表情も、今でもはっきりと思い出せる。

 主の要望に応え、ヨハンはそれまで禁忌とされてきた〝土の中の食材〟を使う料理を考案した。下民の食べ物だ、家畜の餌だと蔑む輩は、同じだけの情熱をもって笑い返した。あのときはたしかにエリンディラ妃の理想がヨハンの中に生きていた。

 

 ――だって、お腹がすいていたら、楽しいことも考えられないじゃない?

 

 彼女の言葉が正しかったことは、落ちぶれたあとのヨハンから理想の火が消えたことで皮肉にも証明されることとなった。

 

「エリンディラ妃は、おれのレシピをもって地方の領地をまわってくださった。だが、王家から制度や農法を学ぼうという貴族は多くても、芋の栽培方法や、芋を使った料理を学ぼうなんて貴族はいなかった。国がゆたかな時期だったからことさらだ」

 

 調理法が簡単で誰もが作れる、そのせいで貴族たちの目には、価値のないものに見えてしまった。

 結果、ヨハンはエリンディラ妃が亡くなると同時に名誉も希望も失い、かつて同僚だった者たちから後ろ指をさされながら生きていくことになった。

 ノシュタット家がレシピを受け継いでいたというのは、ここに来るまで知らなかった。

 

「……?」

 

 リュフの動きが止まったことに気づきヨハンは顔をあげた。景気よくワインを空けていたはずの男はグラスを持ったまま目を見開いている。

 

「どうした」

「そうだ……どこかで会ったような気がしてたんだ。……レシピを伝えたのはエリンディラ妃なのか?」

「そうだ。当時三つほどだったマデレーネ様を連れて、諸領をまわられていた。ここにも来たことがあるんじゃないか?」

 

 忘れていたのだろうか。身分を隠して使用人たちに接していたのなら彼女らしいとヨハンは思った。

 だがリュフの驚愕はただ以前訪れた客が妃と王女だとわかったからではない。

 ことん、と音がしてグラスがテーブルに置かれた。

 

「……それなら……奥様とそのお母上は、旦那様の命の恩人だ」

 

 ヨハンも目を見開く。

 

「どうして旦那様が大金を払ってまで奥様を妻にしたのか……やっとわかった」

 

 

***

 

 

 今より十三年前。

 エリンディラ妃は、愛娘マデレーネ王女を連れ、各地を訪れていた。貴族たちは豪華な贈りものや貴賓客としての待遇をもって妃と王女を迎えようとしたが、エリンディラはこれを辞退し、そのための資金は領地への投資に充ててほしいと願った。けれども王族を迎えることは貴族の体面に関わる。結局、ほとんどの領地で母娘は贅沢な暮らしにあずかることになった。

 

 ノシュタット領は、エリンディラ妃の理念を理解し、華美な出迎えを行わなかった数少ない領地のうちの一つであった。

 使用人たちには遠方から伯爵家の母娘が訪れると説明された。貴族らしからぬ感じのよい母子に使用人たちもあれこれと世話を焼いてやったものだ。ベルタやスウェイはそのあとに雇われたから当時は城にいない。いればマデレーネのことを覚えていたはずだ。

 

 エリンディラ妃と当時の領主だったアランの父が視察に出ているあいだ、マデレーネの遊び相手はアランだった。二人は守り役たちの目をかいくぐって部屋を抜け出すと城の裏手にある藪を駆けまわり、小川に飛びこみ、そして――。

 

「マデレーネが蛇に噛まれた!!!」

 

 真っ赤な顔をしたアランがマデレーネを背負って城へ飛び込んできたのは、暑い日の昼下がりのことだった。

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