29.夢
「母には夢がありました。貴族もそうでない人々も、国じゅうがゆたかに、平和に暮らすことです。そしてそのためには十分な食料の確保が必要だと考えておりました」
貴族たちの脳裏にエリンディラの顔がよみがえった。
新しい開墾方法を教え、新しい農具を普及させ、それらを迅速に行えるよう教育を整えた。彼女は着実に未来を積み上げていた。だが、結果が出るまでに時間がかかることも理解していた。
そこで別に取った手段が、これまで食べてこなかった食料の普及だった。
「芋は、ほかの野菜に比べれば手間が少なく、とくに甘藷は荒れた土地でこそたくさんの栄養を蓄えます。急速に食料が必要になったとき、開墾の労力を省いて栽培することができる。母の目には魅力的な作物に映りました」
「ああ……だが、我々はそれを拒絶した」
アーネス男爵が呟いた。彼ははっきりとした記憶があるのだろう。ゴードはまだ幼い頃でぼんやりとしているが、「領地の発展している今、なぜ農民と同じものを食わねばならぬ」と憤っていた両親の顔は思い出せる。
馬鈴薯や甘藷の植え付けが推奨されることはなかった。適した土地を探すための調査も栽培方法の教育も、領主たちはなにも行わなかった。
「母は賢明でした。ですが性急すぎたのだとわたくしには思えます。母にはわかっていました。飢饉がくればいまあるだけのものでは足りないと。焦っていたのでしょう」
「エリンディラ妃が……」
貴族たちは呆然と声をあげた。記憶の中のエリンディラはいつも穏やかなほほえみを浮かべていた。目の前のマデレーネと同じように。その心中を察していた者はいなかったに違いない。
「結果的に、押しつけるようになったレシピは、皆様の反発を招きました。……母は悔やんでいました。よく知らないものに愛情は持てない。よく知っているものを憎むことができないように」
だが、彼女は、どれほど悔しかったことだろう。
ちっぽけな偏見から貴族たちが芋の栽培や利用を拒絶しなければ、飢饉にも早く打ち勝つことができたかもしれない。
「あなたは……我々を軽蔑しないのですか」
尋ねるゴードにマデレーネは首をふる。
「誰かを軽蔑しても、守れるのは自分の心の一部だけです。人を笑顔にする方法ではありません」
「マデレーネ様……」
「皆様はこうして、わたくしとお話をしてくださっているではないですか」
もう一度、広間に集まった客人たち一人ひとりへと視線を向け、マデレーネは笑った。
「幸いにも現在の北部領は安定しています。時間はある。ですからわたくしは母とは違う仕方で夢を追うことにしました」
「その答えがこの料理……」
「さあ、冷めないうちにお召し上がりください。デザートはスイートポテトのタルトです」
マデレーネの言葉に、皆はふたたび料理に向き合った。
野暮ったい根菜のイメージは消え、瀟洒な王都風の一品に仕上がりながらも、どこか懐かしい――領地をめぐった際に村々の家屋から流れてきた匂いと同じものがそこにはあった。
「ああ、懐かしい……丁稚のころによく食べたものです」
「ミルクポトフですな。それがこんな料理になるとは」
「アラン様の晩餐会で出されたとなれば食べたがる者も多いでしょう。メイエル海老の買い付けをしなければ……」
「それよりもポテトですよ。苗を手配しましょう。これはブームになる」
はしゃいだ声をあげるのはノシュタット領の出身者を中心とした商人たちだ。
儲け話を企んでいるように見えて、彼らの表情には無邪気な喜びがあった。
「息子たちに自慢してやれますな……わしらは昔からこいつを食べてたんだぞって」
「ええ。ぜひそうしてください」
応えたのはアランだった。
「そうすればおれも自慢できますからね。ここにいる貴族の皆様方にも……おれは昔からこいつを食べてたんだぞって、ね」
肩をすくめ、皮肉げに口角をつりあげてはいるが、アランの目に怒りや憎しみといった感情の色はない。
ゴードはアーネス男爵をふりむいた。
アーネスの顔にはゴードと同じ感情が浮かんでいた。
エリンディラ妃の提言を聞き入れず失敗を呼んだ貴族たちに、マデレーネはもう一度手をのばした。
領主と領民、中央と地方、異なる人々を結びつけ、彼女が夢だと言った国を実現するために。
そしてマデレーネの夫であるノシュタット子爵もまた、彼女の夢のためにすべてを許そうとしているのだろう。
「ふ……ふふ……ゴード男爵。そんなに泣き濡れた顔をしていては、せっかくのポテトも味がわからなくなってしまうでしょう」
アーネスに言われ、ゴードは引きつったような笑みを浮かべた。
ぽたぽたと落ちる涙を止めるすべが彼にはない。だが――、
「それはあなたも同じでしょう、アーネス男爵。なんてことだ」
「男が二人してみっともない……」
くしゃくしゃの顔になりながら、ゴードとアーネスは笑いあった。
胸の中の棘は取り除かれていた。
いまあるのは、大きな安堵だけだった。





