19.子爵夫人の突撃(後編)
ヴェロニカがリルケ子爵夫人となったのは二十を目前にした頃だった。
夫とは王都の社交界で何度か会っていたから、彼女は素直に求婚を嬉しいと思った。
「あなたは嫁ぐのだから、旦那様の言うことをよく聞いて、従わなければなりませんよ」
そう両親から言い渡されたときも、深く考えずに頷いた。当然のことだと思ったからだ。
けれども直面した現実は想像以上に過酷だった。
リルケ子爵は妻にすべてを指示した。ドレスの型から髪型、食事、飲み物、ちょっとした単語のイントネーションや言い回し、果ては余暇の趣味まで、夫はヴェロニカの選択をリルケ風に改めた。
王家出納役を預かるリルケ子爵は結婚後もたびたび王都の宮殿へ出仕したが、二人の出会いの場へ妻を伴うことはなかった。子爵がいないあいだは使用人たちが領地で帰りを待つ彼女を監視し、子爵に報告した。
「リルケ家に恥ずかしくない人間になれ」
そう言われるたび、自分を作りあげていたものを一つ一つ、丁寧にとりあげられていくような気持ちだった。ベイロン領の家族へ宛てた手紙は年を追うごとに少なくなった。
夫の地位をゆるぎないものにすべくセルデン伯のサロンへと参加し、これでいいのだと言い聞かせた。貴族は爵位の高い者へかしずき、妻は夫へかしずく。上に立つ者は正しく下々の者たちを導くのだから、間違いはない。
夜ごと流していた涙がいつのまにか絶え、彼女の仕草から南部らしさがすべて抜け落ちたあとには、ヴェロニカは夫の眼鏡に適うリルケ子爵夫人となっていた。
ただ一つ――夫すらも知らぬ、お守りのブローチ――ヴェロニカがベイロン領で生まれたことを示す証を除いては。
石像のようだった顔がくしゃりと歪む。胸元のブローチを握りしめ、悔しさに歯噛みしながらリルケ夫人はマデレーネを見た。
年老いつつある身体に激情がたちこめていた。三十年間閉じ込めていたものが堰を切ってあふれ出す。
(――どうしてこの娘に理解されなければならないの)
それが正しくないとは知りながら、長い年月にとらわれた心が最後の抵抗を試みた。
「あなたが、嫁いだ身でありながら子爵家のゆたかさに甘えていること、なにも変わりませんわ」
ぱん、と乾いた音が響く。
リルケ夫人の手がマデレーネの頬を張ったのと、授業から戻ったユーリアが扉をノックしたのは、同時だった。
「奥様!?」
物音にユーリアが飛びこんでくる。片頬を赤く染めたマデレーネの姿に、なにがあったのかは察せられた。
「おめえ……!!」
「ユーリア!!」
リルケ夫人につかみかかろうとするユーリアをマデレーネが押しとどめる。
「いけません。おちついてちょうだい!」
「なんでだすか!! この人が先に手え出したんですだ!」
呆然と立ちすくみ、リルケ夫人は芝居を見るようにどこか遠い気持ちで二人を見つめた。手にはまだ乾いた感触が残っている。自分がそんなことをするなんて信じられなかった。ただ頬を張る直前のマデレーネの瞳に驚きは浮かんでいなかった。
「奥様はおっしゃったでねえですか! 風の吹く日の水は冷てえって。ブロッコリーの茎はうめえって。おらら、奥様んこと、苦労なんつなんも知らねえ王女様じゃと思っちょりますた。でも違ったんだす。奥様は、つらいこと隠して笑っとられる人だ。だから、奥様んこと知らねえくせにバカにするやつは許せねえんですだ……!!」
ふうふうと荒い息をつきながら、両の目から熱い涙をこぼしながら、ユーリアはまくしたてた。
「違うの。そうじゃないのよ。リルケ夫人はわたくしを叩きたかったのではないの」
「――!!」
マデレーネの言葉は崩れかけていた言い訳に最後の一撃を与えた。
マデレーネのことを知らなかったときには思う存分軽蔑することができた。しかし、彼女の言ったとおりだった。よく知るものは誰しも心から憎むことはできない。嫌っていたければ、彼女の夫のように、耳を貸さずにおくべきだ。
セルデン伯の言葉が己を駆り立てた理由を、夫や伯爵に黙ってノシュタット家を訪れた理由を、リルケ夫人は理解した。
夫や伯爵の側に立ちながら、彼らが絶対にしてくれないことをする口実を得たからだ。
自分が本当に憎んでいたのは、マデレーネではなかった。
「……ごめんなさい」
「……」
こぼれた呟きにユーリアが動きを止める。握られていたこぶしはほどかれ、毛を逆立てた猫のようだった全身から力が抜けていく。
マデレーネは、抱きとめていた腕を離し、ユーリアの頬にそっとハンカチを押しあてた。
「ありがとうごぜえますだ」
礼を言い、ユーリアはマデレーネの差し出したハンカチで思いっきり鼻を噛んだ。普通なら不敬と叱られる場面である。王族としての品位には欠けるのかもしれない。だが、それに劣らない心の結びつきがある。
対して自分は、なんと空っぽなのだろう。
「わたくしは……わたくしはどうしたら?」
「なにもする必要はございませんわ、ヴェロニカ様。晩餐会はわたくしたちの仕事です。楽しみにお待ちくださいな」
「……マデレーネ様」
「ご覧ください。もう頬は元どおりです。痛くもありませんでしたわ」
まだ納得のいかない顔をしているユーリアをなだめながら、マデレーネはほほえんだ。空虚を自覚した心を埋めてくれるようなやさしい笑顔だった。
「でも、手伝っていただけるのでしたら、我が家の料理長に、アドバイスをいただけませんか」
「……?」
不思議そうに見つめ返すリルケ夫人に、悪戯っぽい笑みが返る。
「これからもときどき、遊びにいらしてください、ということです」
その言葉が社交辞令でないことは、すぐに握られた手のぬくもりから伝わった。その手は肌を通り抜け、心に直接触れたようだった。
「……ありがとうございます、マデレーネ様――」
胸の奥から熱いものが吹き出してきて身体をふるわせる。
涙を滲ませながら、リルケ夫人は笑顔を浮かべた。





