18.子爵夫人の突撃(中編)
目の前でほほえみを絶やさぬマデレーネの態度に、リルケ夫人は少々毒気を抜かれた気分だった。
これが本当に莫大な借金を作った娘の姿であろうか――それがセルデン伯に誘導され固まった思い込みであることにリルケ夫人はまだ気づいていないが、違和感を覚え始める。
マデレーネは親愛の情を示して両手を広げた。
「リルケ子爵夫人……いえ、ヴェロニカ様とお呼びしてもよろしいでしょうか。どうかわたくしのこともマデレーネと呼んでくださいませ」
「そんな! いけません」
「どうしていけませんの? いまのわたくしはヴェロニカ様と同じ、子爵夫人ですわ」
「あなた様は〝王女〟の称号をお持ちです」
「けれどヴェロニカ様は、わたくしが王女と呼ばれるにふさわしい暮らしをしてこなかったとお思いなのでしょう?」
「それは――」
返答に窮したリルケ夫人に、マデレーネは眉をさげる。
「……申し訳ございません。意地悪な質問でしたわね」
リルケ夫人の皺のある唇から小さなため息がこぼれた。
投げかけられた問いは彼女の心に波紋を呼び、徐々に、自分自身の中にある矛盾に気づき始めていたのだ。王女にふさわしくないと憤りながら、その序列を壊すことはできないでいる。
だが夫人はその矛盾から目を逸らし、見ないふりをした。
「わたくしはもう、メルヴィを名乗るつもりはないのです。アラン様が許してくださるなら、わたくしはノシュタット領で一生を終えたいと思います。その際には、ほかの領地の皆様とも円満な関係が築ければいいと願っております」
「そんな……そんなこと、口ではどうとでも言えますわ。嫁いだ途端に夫の金で贅沢三昧をしたという事実は変わりません。増築に家庭教師に料理人まで」
「なら、ヴェロニカ様に信じていただけるよう、あとで城の中をご案内しましょう。いまユーリアが紅茶を持って参りますわ。どうぞお掛けくださいませ」
手をさしだすようにしてソファを示すマデレーネに、しいて逆らうだけの理由もなく、夫人は力尽きたように腰をおろした。
彼女の心の中は混乱しつつあった。
王都から来た姫君は、金を湯水のように使い、身分すら金に換え、夫やその仲間たちの領地に混乱をもたらす存在であるはずだった。夫人が訪れたとてすげなく追い返されるだろうと思っていたし、そうなれば晩餐会での衝突もやむなしと期待していた。
なのに、どうしてもそうは見えない。
戻ってきた侍女がテーブルに茶器を並べる。心をおちつけるハーブの香りに夫人は疲れを自覚した。圧倒されているのだ。
「ありがとう、ユーリア。アウロラ先生がいらっしゃる時間でしょう? もう行きなさい」
「ですが、奥様……」
「わたくしたちもあとで様子を見に行くわ。だからちゃんとお勉強していてくれるよう、みんなに言って」
「そうだすか? それでは……」
奇妙な言葉遣いに顔をあげると、侍女は一礼をして出ていくところだった。顔つきは不安げだがその仕草は優美だった。宮殿風の辞儀なのかもしれない。
だがその一方で、リルケ夫人を取り囲むのは馴染みぶかい内装だった。家具も食器も北部のもの。王都風の家具や装飾で埋め尽くすわけでもなく、それ以前に重厚な造りの家具は昔風で、新調したようにも見えない。
ティーカップに口をつけながらこそこそと視線をさまよわせるリルケ夫人を、マデレーネは沈黙をもって迎えた。
そして紅茶を飲み終えると立ちあがる。
「では、参りましょう。使用人たちが出払っておりますから、わたくしがご案内いたしますわ」
「どこへ……?」
「増築した箇所をご覧に入れますわ。家庭教師のアウロラ先生も、いまならいらっしゃっています」
「……」
リルケ夫人は戸惑った。戸惑いの原因は自分でもわかっていた。マデレーネの提案に従えば、己の信じていたものが揺るぐかもしれないという予感だった。
(この堂々とした態度はどうでしょう)
それでもリルケ夫人に逃げ道はなかった。
――相手の話を聞く気もなく、ただ悪者を作りたいだけの方々と違ってね……。
おそらくは自分に向けられたわけではない、何気ないマデレーネの一言が、彼女の心を縛っていた。
(わたくしは――わたくしは、違います)
彼女の心に若かりし頃の苦い思い出が浮かぶ。
唇を引き結び、夫人は頷いた。マデレーネは手ずから応接間の扉を押し開けた。
応接間から出て案内されたのは城の中央部を挟んで向かいの棟だった。
そこだけ新しい建築だとわかる壁に、大きな両開きの扉が設えられている。マデレーネがそっと扉を開き、手招きする。
無作法だとは知りながら、リルケ夫人は無言で中を覗き込んだ。
「ノシュタット領は大きく分けて三つの地域からなっています。ローク平野のある中央部――皆さんが今いるのもここです。城を中心に城下町が平野に広がります。それから山間部、荒野部。荒野部では甘藷の栽培が盛んで――」
耳を打ったのは、想定外の声。よく通るその声は最後部から覗いたリルケ夫人までまっすぐに届いた。
増築された立派な新棟。そこは講堂だった。
マデレーネがくつろぐための部屋でもなければ、華美に飾りつけて人を呼ぶための広間でも、ドレスや宝石がところせましと並べられたクローゼットでもなかった。
大きく領地図の描かれた黒板の前に立つ講師と、彼女へむかって整列された机と椅子。それぞれの椅子には老いも若きもいっしょになって、城の使用人たちが座る。そして最前列の席では、先ほどの侍女が頭を抱えていた。
「冬にはシャスト連峰を通った風がローク平野に吹き込み、冷たく乾いた風となります。ヴァルデローズ国の中でもわたしたちが住む北部領は寒さの厳しいところです。とはいえ雪が降るのは数年に一度で、気候は温暖といえ――」
講師が地図に説明を書き加えていくのを、使用人たち生徒もまた一生懸命にノートに書き写している。ときおり話が中断されるのは、書き写すのが遅い者にも時間を与えているからだ。
この講師がマデレーネの雇った家庭教師であるのなら、その目的はマデレーネに宮廷風の詩や音楽を教えて褒めちぎるためではなかった。
リルケ夫人はあとじさった。マデレーネが手を離すと、支えを失った扉が音もなく閉まった。
しんと静まり返った廊下に、自分の鼓動が響いているような気がした。
ふたたびマデレーネに先導されて紅茶の香りが残る応接間に戻ったときも、奇妙な感覚はまだ続いていた。
「アウロラ・マクレアンさんは、ノシュタット家の血縁者ですの。毎週、文法と作文、計算、地理の授業のために来ていただいています」
「どうして……地理を?」
使用人として役立つ教育を施すというのなら、読み書きと計算ができればそれでよい。
「自分たちが住む場所をよく知らなければ、愛情は持てませんから」
それは簡潔で、かつ力のある答えだった。
ポットの湯はまだ温かかった。手ずから紅茶を注ぎ、リルケ夫人の前へ置きながら、マデレーネはほほえむ。
「逆を言えば、よく知るものは誰しも心から憎むことはできません。ヴェロニカ様も、いまなおベイロン領を愛していらっしゃるでしょう」
一瞬、リルケ夫人の表情に緊張が走った。マデレーネもそれに気づいて首をかしげる。ややあってから、夫人は小さく息を吐く。
使用人たちは皆あの授業に出席しているのだ。だから客が来ているというのに誰もいない。他人の目がない空間とは、こんなにもおだやかものだったか。
「どうしてそれを?」
「それ、とは」
「……わたくしが、ベイロン領を愛しているということです」
ためらいつつもリルケ夫人が尋ねたのは、それが、彼女がひた隠しにせざるをえない感情だったからだ。
「そのブローチですわ。ベイロンでは昔から質のよい翡翠が採れます。ベイロン家では代々、お子様が生まれた際にその年の石の中でもっともよいものをお守りとすると聞きました」
「あぁ……やはり、あなたは、王女なのですね」
王女にふさわしくない人物なのだと信じていた。正義はこちらにあるのだと。しかし違った。
マデレーネは崇高な人物だった――彼女の母親と同じで。
それを認めることは、リルケ夫人の胸に痛みを走らせた。





