17.子爵夫人の突撃(前編)
スウェイが己の力不足を痛感するのは、貴族社会に疎いことを見せつけられたときだ。
執事には貴族子弟出身の者などもいるという。そうでもなくとも富裕層であれば日ごろから貴族に接していただろう。
しかしアランに拾われるまで、スウェイはただの孤児だった。ノシュタット家で働くようになってからも、アランの社交嫌いもあり、晩餐会へ伴われることはほとんどなかった。
だから、どうすればアランの利益になるのか、咄嗟の判断がつかない。
しかし今回は状況が違った。
「リルケ子爵の妻、ヴェロニカ・リルケにございます」
「ノシュタット子爵アランの妻、マデレーネ・ノシュタットにございます」
挨拶を交わす夫人たちのうしろに控えながら、スウェイは安堵と無力感の入り混じった想いを抱えていた。
当主アランが不在の場合、女主人であるマデレーネに応対が任される。スウェイの出る幕はもうない。
リルケ夫人ヴェロニカは、昔日の麗しい姿を彷彿とさせる凛とした佇まいを、黒基調のおちついたドレスに包んでいた。目を引く装飾品は胸元のブローチのみ、マデレーネにとっては親といってもよいほどの歳で、髪には白いものが混じるが、それによって引け目を感じている様子は一切なかった。
「貴族の品位を守るため、正々堂々と話をしに参りましたの」
応接間に通されてもソファへ腰をおろすことなく、差し出された手を握り返すこともなく、リルケ夫人は言った。
「率直に申しあげて、ノシュタット領と境界を接する領主たちの中には、現領主のやり方を快く思っていない者も多くおります。それにわたくしたちは、王女らしからぬあなたのふるまいにも憤りを覚えております」
「――……」
これにはマデレーネも、一瞬言葉に詰まったようだった。
周囲に侍る使用人たちも絶句している。
ノシュタット家をとり巻く状況は、スウェイによってマデレーネにも共有されている。周辺領の領主やその関係者たちは結束しノシュタット家を除け者にしようとしているが、経済面では優勢なノシュタットを頼らざるをえず、その矛盾が却って彼らの自尊心を傷つける。
それを煽り中心で毒を撒いているのはセルデン伯爵だ。
ただし彼は巧妙で、表向き自分だけはノシュタット家の状況を理解しているという態度を装っている。そうすることで、周辺領の支持も、ノシュタット家との交易の利益も、どちらも手に入れることができる。
そういった事情に照らして考えたとき、どこかの家とノシュタット家との全面対決というのは望ましい事態ではないのだ。
(これは……もしかして、セルデン伯にも想定外の行動なのではないだろうか)
奴の性格からして、なにか仕掛けてくるのは晩餐会当日だろう、とアランは言っていた。貴族らの面前でノシュタット家の名に泥を塗るためには、むしろそれ以前にこちら側に企みが露見するのは避けたいはずだ。
つまりこの訪問は、リルケ夫人の暴走。
(どうすれば穏便にお帰りいただけるのか……)
スウェイの額を汗がつたう。
「わかりました」
はりつめた静寂を破ったのは、マデレーネのおだやかな声色だった。
「ユーリア、お茶をお持ちして。スウェイは仕事に戻って頂戴。今日はアウロラ先生のいらっしゃる日でしょう。出迎えを」
「奥様」
「リルケ夫人は話し合いに来てくださったのよ。とてもありがたいことだと思いますわ。……相手の話を聞く気もなく、ただ悪者を作りたいだけの方々と違ってね」
マデレーネの瞳に翳りがよぎる。開きかけた口をつぐみ、スウェイは押し黙った。マデレーネの緑の瞳が、見たこともない色に沈んで見えたからだ。
ユーリアをふりむくと、彼女もまた緊張した面持ちで、「お茶のご用意を」と頭をさげると部屋を出てしまった。一瞬こちらへ投げられた視線は、スウェイの次の行動を案じていた。ユーリアはマデレーネの言いつけに従うべきと判断したのだ。
「……承知しました。ごゆっくりとおすごしください、リルケ子爵夫人」
スウェイも頭をさげると部屋を出る。
扉のむこうにはユーリアがいた。
「奥様はときどき、とても悲しそうな目をされるんだす」
スウェイの疑問に気づいたのだろう、ユーリアは問う前に語り始めた。
「なんかあるべって、スウェイさんも言っとったでねえですか。ここが来る前の奥様はとんでもねえつらい目に遭っとったんかもすれません。けんど、奥様はやさしい方だ。おらはそれがすげえと思んます。奥様は、仲よくできるかもすんねえって思われたんだす」
スウェイの脳裏にマデレーネの笑顔がよみがえった。警戒する使用人たちに、彼女は手袋とクリームを贈り、友好を示した。それ以前に、自分の侍女にユーリアのような身分の者をあてがわれたことも、ベルタの無礼も、笑顔で許した。ヨハンの心を開かせた。
味方でないのなら敵だとスウェイは考えてしまう。けれどマデレーネは違う。
味方でないのなら、味方になってくれるかもしれない相手だと考えるのだ。
そしてそんな前向きな考え方の裏に、おそらく彼女が味わってきた苦悩がある。
「ユーリア……君は、真剣になると訛りが強くなるのだな」
「!!」
スウェイの指摘にユーリアは頬を染めた。
「リルケ夫人の前では、あまりしゃべらないように。だが――」
スウェイの目がやわらかくたわむ。
「奥様のことはおれより理解している。君の言うとおり奥様にお任せしよう。おれは仕事に戻る。あとは頼んだぞ」
「はっ、はい!」
逆の方向へ廊下を去っていくスウェイを見送り、ユーリアもまた湯を沸かすべく台所へと足をむける。
(ス、スウェイさんが笑ってくれただ……!?)
赤くなった頬を隠しながらはにかむユーリア。
(先週は講堂で『三行以上の文章は書けねえ以前に考えらんねえです』とべそをかいていたのにな……)
互いに相手のことを考えていたとは、スウェイもユーリアも、知る由もなかった。





