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13.宮廷からの料理人(後編)

 頭の中に声が響く。

 美しい声だった。十五年前、駆け出しのコックだったヨハンにエリンディラ妃はある願いを託した。

 

 ――ねぇヨハン。新しい料理を作ってほしいの。

 ――これまで宮殿では使ってこなかった食材を使い、調理法も簡単にしてね、誰もが作れて好きになってくれる、夢のような料理を……。

 ――ヨハンならできるわ。だってあなたは、食べる人の幸せを考える料理人だもの。

 

 自身をまっすぐに見つめてくれたまなざしの前にふたたびさらされたような気分になってヨハンは身をすくめた。

 浮かぶのはエリンディラ妃のやさしいほほえみ。そしてマデレーネの笑顔。

 

 ぽたりとクロスに落ちた水滴が染みをつくる。

 それが涙だと理解したのは、隣に座ったエミールが手拭いをさしだしてくれたときだった。

 

 

***

 

 

 夕刻、城へ戻ったマデレーネを迎えたのは、複雑な表情をしたヨハンとリュフだった。

 マデレーネのうしろにはユーリアが控え、抱えたバスケットには泥のついた野菜が詰め込まれている。ニンジンにじゃがいもにカブなど、主に土の中で育つ野菜である。

 

「あっ、あの……ユーリアの実家へお邪魔してきたの」

 

 また怒られるだろうかとドキドキしながら告げれば、ヨハンからは「そうですか」と気の抜けたような返事があるだけ。

 城へやってきたときのような目に見える反発はないが、状況をどう受け止めてよいのか決めかねているという顔だった。リュフもなにを報告したものかと悩んでいるらしい。

 

(なにがあったのかしら……リュフならヨハンとうまく付き合えると思ったのだけれど)

 

 マデレーネの隣でユーリアも首をかしげている。

 と、マデレーネの袖を引く存在があった。厨房で働く子どもたちだ。

 

「おくさま!」

「おくさま、ぼくたち、タルトをたべたの」

「おいしかったの!」

「タルトを?」

 

 目を丸くするマデレーネに、リュフが「あっ!」と声をあげる。

 

「お前ら! おれのポテトも報告しろよ! ……じゃなくて、奥様より先にいいもん食ったのないしょにしとかなきゃだめだろ!」

 

 そうは言いつつもリュフも本気でマデレーネの気を害するとは思っていないのはわかる。リュフに叱られた子どもたちはきゃあきゃあと怖がるふりをして笑っている。

 妙な空気が気になるが、リュフの様子からして二人はきちんと料理人の務めを果たしたらしい。

 マデレーネはヨハンにむきあった。

 

「この子たちにタルトを作ってくれたのね。ありがとう」

「……いえ」

「リュフは楽しみにしていたんですよ。料理のことが大好きだから」

「ええ……」

「タルトはあなたの得意なお菓子でしたものね」

 

 その言葉に、口ごもっていたヨハンは弾かれたように顔をあげた。

 

「憶えていてくださったのですか……?」

「忘れるわけないじゃない」

 

 どうしてそんなふうに思ったのかと、マデレーネは不思議そうに首をかしげる。

 

「いつもわたくしのために作ってくれたでしょう」

「あれは……!」

 

 ヨハンの喉から叫びのような声が走る。

 

 マデレーネのためではなかった。

 当時エリンディラ妃に目をかけられていたヨハンが、マデレーネにも顔を売ろうとしただけのこと。

 

 エリンディラ妃が亡くなったあと、師匠も兄弟子たちも、誰もヨハンを見向きもしなくなった。あれほど褒めてくれたのに、王家の財政が傾いた途端にお前はだめだ筋がないとしか言わなくなったのだ。

 おまけにヨハンが平民食のレシピを考案していたことを知ると、宮廷料理人の品位を下げる行為だと口々に非難した。

 十年前、ヨハンはすべてを失った――誤った王族の庇護を受けたせいで、地位も、名誉も、未来も、すべてを。

 失ったと、思っていた。

 

 呆然と立ちすくむヨハンに困ったように笑いかけ、マデレーネはユーリアの持つ野菜を示した。

 

「リュフ、今日はあの料理を。……わたくしがこの城へきた日にいただいた、ミルクポトフ」

「奥様は本当にミルクポトフがお好きですね」

「ヨハンにも食べてほしいの」

「ミルクポトフ……」

 

 それもまた、ヨハンがエリンディラ妃とともに生み出したレシピだった。

 比較的保存のきく干し肉と根菜類に、ミルク、季節の葉物などを加えて煮込む。いつでも食べられて、調理が簡単なものと言われて。

 

 ヨハンのレシピは消え去ってはいなかった。

 時間とともに少しずつ形を変えながら、ノシュタット領に息づいている。

 

「ヨハン……」

「姫様」

 

 あのときの呼び名が口をついて出た。

 

「あなたを守れなかったこと、申し訳ないと思っているわ」

「それは違います」

 

 本当はヨハンもわかっていた。エリンディラ妃が亡くなったとき、マデレーネは十にもならぬ幼子だった。

 味方のいない王宮で生きていくには苦労をしたに違いない。

 本当はわかっている。

 マデレーネがいま幸せそうに笑っているからといって、これまでも安穏と生きてきたとは限らない。

 

「あらためて――料理人としてのあなたに尋ねたいの。この城で働いてくれる?」

「おれで、よいのですか?」

 

 思わず口から漏れたのは心底からの疑問だった。

 

「あなたでないとできない仕事です」

 

 だからこそ呼びよせたのだとマデレーネの瞳は語っていた。

 

「だってあなたは、独りぼっちだったわたくしにミルクポトフを作ってくれたじゃない。そして今日は、この子たちにタルトを。あなたはいつも、テーブルについた人を喜ばせようとしているのよ」

 

 ヨハンの胸に、王都での出来事がよみがえった。

 苦しい暮らしであっても妻と子には食事の楽しさを忘れてほしくなかった。ヨハンを落ちぶれさせたのはマデレーネの母エリンディラ妃との関わりだが、エリンディラ妃の言葉は忘れられなかった。

 食べる者の幸せ。

 

 母娘のまなざしは似て、まっすぐ、けれどもやわらかく、ヨハンを包む。

 自分を。

 ヨハン・バルリを、認めてくれたのだ。

 

 膝をつき、こうべをたれて、ヨハンはマデレーネの前に身を屈めた。

 

「宮廷料理人、ヨハン・バルリ、本日よりノシュタット家のため、全身全霊で働かせていただきたく思います」

「ありがとう」

 

 マデレーネが笑顔になる。

 

「では仕事について説明するわね」

「? 宮廷料理を教えるのではないのですか?」

「その先があるのです」

 

 ふと、ヨハンの記憶に幼いマデレーネの姿がよみがえった。外見のかわいらしさにごまかされがちだが、彼女にはお転婆な一面もあった。王女でありながら厨房にはいってきてしまう行動など、まさにそれを表している。

 そして信頼を置いた相手には、ときどき、無茶ぶりをする。

 

「ヨハンも知ってのとおり、わたくしはノシュタット家に嫁いでまいりました。いずれ祝いの場を設けねばなりません」

()()()祝いの場を? まだ決まっていないのですか?」

 

 思わず出てしまったヨハンのもっともな質問に、マデレーネはへにゃりと眉を下げ年相応の表情になった。ヨハンの隣で、リュフも目を泳がせている。

 

 マデレーネを妻に迎えはしたが、つりあう家格など最初から持ち合わせていないノシュタット家は、対外的にどうふるまうべきかを決めかねている。

 王女にかしずくように扱えば、王族の側にまわったのだとやっかみを受け、地方領主の立場が危ない。かといってマデレーネを粗末に扱えば、待ってましたとばかりにイエルハルトが難癖をつけてくるだろう。

 

(旦那様にご迷惑がかからないようにできればよいのだけれど……)

 

 そんなマデレーネの内心のため息を、当然ヨハンは知らない。彼の頭に宮廷での宴席の記憶がよみがえった。何人ものシェフと下働きが必要だ。それが地方で行われる場合にはさらに困難を増すだろうことも予想できた。

 

「婚礼の祝いは遅くとも半年以内に行わねばなりません。招待状を送り、来客にあわせた心配りを料理にも取り入れなければ。その食材の手配だって場合によっては数か月かかります。すぐに動かなければ――」

「然様です」

 

 述べられる手順にマデレーネは頷き、ヨハンを見た。

 

「ですから、ヨハンにはその祝いのメニューを、リュフと考えてほしいのよ。それがあなたの仕事です」

 

 のどかな春風のような笑顔を見せながら。

 

 

***

 

 

 食卓の最後に出されたタルトを見て、アランは眉をひそめた。貴婦人の装飾品じみて派手な色彩をまとったそれは、明らかにリュフの手になるものではない。

 マデレーネが王都から料理人を呼びよせたことを思い出したのはそのときだった。

 

「旦那様は甘いものはお好きかしらと、奥様が」

 

 見計らったようにスウェイが告げる。

 

「それで、なんと答えたんだ」

「お好きですと申しあげました」

「……」

 

 間違ってはいないが、わざわざ後押しするようなことを言わなくてもいいものだ。

 

「晩餐会の準備が始まったようです。新しくきた料理人とリュフとで、メニューを決めると」

「そうか」

「旦那様からなにか指示は?」

「いや、ない。豪奢になりすぎなければよい。あとは任せる」

「承知しました。旦那様の夜会服も新調せねばなりませんね」

 

 あからさまに億劫だ、という態度でため息をつくアラン。社交の場というのは、アランにとっては苦手なものである。幼いころに両親を亡くし、領地を盛り立てるために死に物狂いで働いてきた。それをほかの貴族たちからは強欲であると蔑まれるばかり。社交が嫌になろうというものだ。

 

(そういえば、彼女はどうなのだろう)

 

 彼女も好奇の視線にさらされ続けてきたに違いないが、それに慣れているとは思えなかった。

 マデレーネの笑顔が浮かぶ。過去になにもなかったわけはない。それでもマデレーネは春の陽だまりのような笑みを失わなかったのだ。

 

「……手袋は買わなくていいぞ」

「心得ております」

 

 贈りものの白手袋を思い出しそう告げれば、スウェイはすました顔で頭をさげる。

 言わなくてもわかっていることを言ってしまったのだと気づいたのは、スウェイが退出してしばらくしてからのことだった。

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