11.王宮からの料理人(前編)
その手紙を受けとったとき、ヨハン・バルリは激怒した。破り捨ててやろうかとも思った。
けれども困窮した財布事情がそれを許さなかった。ヨハン・バルリには妻と三人の子がいたし、今しも妻のお腹の中には四人目の赤ん坊がいて、ほかのことをどれだけ切り詰めたとしても彼女らにひもじい思いだけはさせたくなかった。
なぜなら、彼は、宮廷料理人なのだ。……厨房では除け者にされ、下働きのような扱いを受けているが。
「あなた……どうしたの?」
「いや、なんでもない」
身重の妻シーラが不安げに尋ねるのに笑顔で首をふる。
手紙は第二王子カイル殿下からのもので、先日王女が降嫁したノシュタット子爵家へ行って、そこの料理人たちに宮廷料理を教えてこい、というものだった。
マデレーネの名にヨハンは顔をしかめた。彼の困窮の原因は、彼女の母親からもたらされたものだったからだ。
そのうえノシュタット子爵家といえばこの十年で勢力をのばした新興貴族。早い話が成り上がりだ。成り上がり方もあくどいときている。
十年前に起きた大飢饉とそれにつづく疫病。
ノシュタットはなぜか領地を守りきり、食料不足に喘ぐ他領に小麦を売って一足早く復興を成し遂げた。当然、周囲の領地はさらにノシュタットを頼ることになる。市は発展し、交易ルートもノシュタット家を中心に整えられた。彼らはそうやって、人の弱みにつけこんで財を成したのだ。
交易によって得た金がある、ということ以外は、歴史もなければ品位もない。そんな家に仕えろとなど、左遷以外のなにものでもない。
すでに王宮厨房内に彼の調理場はないに等しいが、それよりも立場が低くなるとは予想していなかった。
断ろうと、何度も思った。
ただし、ノシュタット子爵家から支払われる給金の額は、不興をくらって下げられた王宮厨房の給金の何倍もよかった。
「よろこんでくれ、シーラ。第二王子殿下と王女殿下から直々にお声がかかったんだ。しばらく留守にするけど、もう何も心配はいらないからね」
こけつつある頬に笑顔をはりつけて、ヨハンはシーラへ言った。
***
王家からの特命状を持ち、馬を乗り継ぎ一週間後の夕暮れには、ヨハンはサン=シュトランド城へと足を踏み入れていた。
成り上がりというからにはごうつくな城を想像していたが、意外にも古風な山城はずっしりと門を構え、中からは工事の音が聞こえていた。
出迎えにきたのは料理長のリュフという男だった。歳はヨハンよりも十は上。
「遠くからご足労いただきありがとうございます。こちらへどうぞ。王都や宮廷の料理を教えていただけるとのこと、楽しみで。昨日は眠れませんでしたよ」
にこにことわざとらしい笑みを浮かべている男の内心はわかっていた。ヨハンのような若い人間が突然やってきて素直に迎え入れるわけがない。田舎の成り上がり貴族の僕だ、笑顔の裏で中央の人間を嫌っているのだろうとヨハンは思った。
短くない道のりのあいだも、魅力的な給金とプライドの狭間でヨハンの心は揺れつづけ、その葛藤は鬱屈とした感情となっていた。
(まずは宮廷料理のフルコースを作って、鼻っぱしらをへし折ってやる)
そんな好戦的な気分を隠しつつ、リュフのあとに続き正門から内庭を歩いて玄関へと進む。
ふと見ると、農園の区画があり、新しく掘り返したばかりの土が入れてあった。そこに少女が二人座って世間話をしながら苗を植えている。
「わかるわ〜。ニンジンの皮っておいしいわよね。ブロッコリーの茎も、コリコリして好きよ」
「なんでわかるんだすか奥様……?」
目を細めて苦笑いをする少女。その向かいには、金髪を結い、作業用のドレスを着た少女。
一見すると身なりのよい召使いにも見えてしまうその少女が誰であるかに気づいたとき、ヨハンは目を丸くした。
「マデレーネ姫様……!?」
「まあ、ヨハンじゃない」
手についた土を腰にさげた布で拭い、立ちあがったマデレーネが近よってくる。
「早かったわね。きてくれてありがとう。シーラはどうしているかしら」
ほほえみを浮かべ、王女然としたおちつきと優雅さをまとわせながら告げるマデレーネは、幼いころのままだった。
変わらない――そう思った途端、ヨハンの頭にカッと血がのぼる。
奥つ城でのうのうと暮らしてきたお姫様は、そのあいだ下々の者がどんな辛酸をなめてきたかなど知らないのだ。腹の底からふつふつと苛立ちがこみあげてくる。
ふるえる唇をつりあげ、ヨハンは青ざめた顔に笑みを浮かべた。
「お久しぶりですね、姫様。十年ぶりです。あなたの母上のせいで我々まで困窮した。コックたちは家族を養うのにも苦労しているのですよ。あなたは平民みたいな格好をして、お幸せそうでなによりです」
「ヨハン……!!」
マデレーネの頬に朱が走る。
言葉をさがしながら口ごもってしまうマデレーネにほんのわずかに溜飲が下がる。
「なんだあんた、奥様にずいぶんな口の利き様じゃねえか」
ぐん、と身体が前につんのめるように持ちあがった。顎の先にリュフのこぶしがある。リュフの目つきは鋭く今にも殴りかかってきそうだった。先ほどまでのへりくだった姿勢も消える。
(やはり本性は粗雑な下民だ)
しかしリュフにこれ以上の手出しはできない。なぜならリュフは子爵家の料理長だがヨハンは王宮料理人。料理人としても身分としても、ヨハンはずっと格上なのである。
胸ぐらをつかみあげる腕を払い、お返しだと相手の首根っこをつかんで引き倒した。
「ぐえっ」
無様なうめき声をあげるリュフをせせら笑うと、リュフもまた嘲笑う顔つきでヨハンを見上げた。
「あんた、金が欲しいのか。なら倍の給金を払うようにうちの執事に言ってやろうか?」
「やはり成り上がりの主人を持つ使用人だな。そんな発想しかできないのか」
「なんだすかっ、この失礼な方は……!?」
「やめてちょうだい。ヨハン、リュフ! ユーリアもよ」
収まりそうにない争いに、マデレーネが入ってくる。うしろに控えていた侍女も怒りの形相で野菜の苗をふりあげていた。
マデレーネはまずふりむいて侍女をたしなめ、またヨハンとリュフにむきあった。
腰に手を当て精いっぱい小さな肩をいからせる姿が、ヨハンの胸の中で十年前の幼い姿に重なった。
「まずは二人とも姿勢を正してちょうだい」
マデレーネの言葉にリュフが立ちあがり、土を払う。
ヨハンも逆らうわけにはいかない。渋々といった表情で直立する。
(クビにされるか。まぁいい。やはりこんなところでは働けない)
なげやりな気持ちでそう考えたヨハンの耳に届いたのは、マデレーネの凛とした声。
「ヨハンはたしかに無礼でしたが、己を雇うにふさわしい主人を求めるのは当然のことです。ですから今回に限り、不問にします」
「ええっ!? いいんですか、奥様」
驚きの声をあげるユーリアにマデレーネは頷いた。
ヨハンは一瞬、気圧された。幼いころから変わっていないと思ったマデレーネから、凛とした覇気のようなものを感じたからだ。
まっすぐにヨハンを見つめ、マデレーネは告げる。
「ただし、わたくしも、女主人として、雇い主として、料理人にふさわしい態度をあなた方に求めます」
「あなた方……?」
「ヨハンと、リュフもです」
「おれもですか」
なぜ自分まで怒られるのかわからないと言ったように唇を突き出すリュフをマデレーネがたしなめる。
「互いへの先入観を捨て、料理人としての目で相手を見なさい」
「料理人としての……」
「いいですね、二人とも」
有無を言わせぬマデレーネの言葉に、ヨハンとリュフは互いに胡乱な視線をむけたあと、「はい」と頷いた。