10.思い出と役割
訪ねたマデレーネは就寝の支度を整えたところだった。
「このような姿で申し訳ありません」
肩から広めのショールを羽織り頬を染めるマデレーネ。背後のユーリアの視線が痛い。
言葉をかわすのは嫁いできた日以来。あのときだってまともに会話をしていないから、面とむかって話をするのはこれがはじめてなのだ、ということにアランはようやく気づいた。
「こちらこそ、無作法な訪れをしてしまいました」
「いえ、旦那様ですもの。いつでも気兼ねなくいらしてください」
マデレーネの笑顔に、それは本心らしいと知る。
「……襟巻きと手袋を、ありがとうございました」
だが、ゆっくりと夫婦の時間をすごす気にはなれず、アランは用件を切り出した。
「気に入っていただけたなら――」
「けれど、ひとつあなたにお断りしておかねばならないことがあります」
飲み物の用意をしようとするユーリアを手で制し、アランは無表情なまま告げた。
「俺はこの手袋を使いません」
「なっ、なぜですだ!? あっ、申し訳ごぜえません!」
割り込むように声を上げたのはユーリアだった。すぐにビッと姿勢を正して頭を下げるユーリアに、マデレーネは笑顔で首をふった。
「なら、襟巻は使っていただけるのですね」
「……」
そう言われるとは思っていなかったアランは一瞬言葉を詰まらせたものの、やがて頷いた。わざわざと嘘をつくほどのことではない。
マデレーネは笑みを深くする。アランがこのような無礼ともとれる態度をとっている理由が、彼女にはわかっているようだった。
「ユーリア、あたたかいお茶を淹れてくれる?」
「あ、はい! すぐに!」
「慌てなくていいのよ」
小走りに出ていこうとするユーリアの背にマデレーネが声をかけると、気づいたユーリアが足を止める。扉まで歩き、一度室内をむくと、腰を折って辞去の礼をする。その仕草には優美さの萌芽があった。マデレーネが宮廷風の礼儀を教えているのだろう。
しかしこの言いつけが人払いであることをアランは察していた。
先ほど飲み物は不要だとアランが示したのを、マデレーネがしいて用意させるのだ。しかも台所まで行かねば湯は手に入らない。
ユーリアが部屋を出ると、マデレーネはやはり穏やかな表情でアランにむきあった。
「手袋のことは異存ございません。けれど、捨てずにとっておいてくださいませ」
「なぜです?」
「いずれ必要になるからです。わたくしがお母様のドレスに区切りをつけたように、アラン様もお父上様の手袋に区切りをつける日がきます」
アランの目が見開かれた。
「なぜそれを……?」
スウェイやベルタは気づいているだろうが、はっきりと言ったことはない。
「この城へ参りましたとき、旦那様は外出のご準備をされたところでした。その際につけていらした手袋は、飴色の、使い込まれた厚手のもの」
マデレーネは眉を下げながらも、そのときを思い出すように視線を遠くへとむけた。
「革は使うほどに味が出ます。旦那様の手袋からは、大切に手入れをされていたことがうかがえました。何年もお使いになっているのでしょう。けれど、旦那様の手袋は、少し大きいのではありませんか」
「……その通りです」
「数年前に作って、まだ大きいということはありません。ご自分の手袋なら」
アランはため息をついた。たしかに手袋は父であり前領主であるジャレッド・ノシュタットのもの。
マデレーネは言った、わたくしがお母様のドレスに区切りをつけたように、と。
アランがなんのために父の手袋を使い続けているのか、わかっているのだ。
「領地の皆様のためでございましょう」
心を読んだようにマデレーネが囁く。
そろそろユーリアが戻ってきてもおかしくない時間だった。心をよぎった考えは多くあったが、語り合う暇もなければ、不用意に暴いていいものではないとアランは思った。マデレーネも同じように考えているのだろう。
「真新しい白手袋が必要になると、あなたはおっしゃるのですね」
「はい」
それだけを確かめ、アランは扉へ近づく。
「わかりました。大切にとっておきましょう。では、おやすみなさい」
「あれっ、旦那様? お茶の用意ができましたが……」
扉を開ければ廊下のすぐそこでワゴンを押しているユーリアがいた。手をふり、茶を飲むつもりはないことをもう一度示す。
「えぇ……?」
「ありがとうユーリア。わたくしのために淹れてくれないかしら? ミルクをたっぷりでね」
「はい、奥様!」
困惑した視線と声が追いかけてきたが、マデレーネに促されてユーリアは部屋へ入った。
月明りを頼りに薄暗い廊下を歩きながら、アランはふたたび長いため息をつく。
馬上で使える襟巻を贈ることでマデレーネは、アランの頻繁な外出を認めた。家のことは彼女が守るという表明でもあるのだろう。
マデレーネの言うとおり、アランが父親の手袋をつけるのは領民たちのためだった。もっと有り体に言えば、領民たちに自分を認めさせるためだ。善政を布いていた父の遺志を受け継ぎ、領地を守るために働くのだと納得させるため。
十年前、突然両親を亡くし若くして領主となったアランに後ろ盾はなく、領民の支持を得ることは必須だった。だから十二歳だったアランは、ぶかぶかの手袋を無理につけた。手首をひもで縛りずりおちないようにしてまで、父の威厳を借りようとした。
今でもそうだ。父の手袋をつけ、父と同じ馬具を使い、領内の視察を欠かさないアランの姿に、人々は安堵する。「ジャレッド様のようだ」「ジャレッド様も天国でお喜びですよ」と言って、アランを受け入れる。
それは彼と領民との暗黙の約束。
(しかし――)
マデレーネと自分では、やや立場が異なることを、アランは理解していた。
ユーリアからの報告にもあった。彼女は時代遅れのドレスしか持っていなかったと。宝飾品は取り去られ、裏地どころか表地にまで継ぎを当てたような酷いものだったと――。
マデレーネが自らの意思だけで母親のドレスを着ていたのだとしたら、そんなことにはならない。彼女の言ったとおり、親の衣服は十代の子女にとっては大きすぎる。彼女が母親のドレスを着るようになったのはこの数年であろう。
それにしてはドレスの状態が酷すぎるのだ。
(たとえば、誰かが故意にドレスを傷め、貶めたかのような)
アランが父親の遺品を身に着けることで領民から未来の期待を得たように、マデレーネは母親の遺品を身に着けさせられ、それによって負の感情を引き受ける役目を負わされていたのではないだろうか。
誰に、と考えれば、この婚姻を打診してきたイエルハルト王太子に、なのだろう。
彼女は王家に見捨てられている。自分で言った言葉が胸によみがえる。
(……国が落ち着けば、彼女を王都へ戻すつもりだったのだがな……)
それもマデレーネは察しているのだろうとアランは思った。
けれど、そのことをマデレーネがどう考えているのかは、アランにはわからなかった。
お読みいただきありがとうございました。輿入れ編、ここで一区切りです!
次回からは晩餐会の準備編です。よろしくお願いします!