これ以上は、もう
美しい音色が、耳を通り抜けていく。
世界から色が抜けた気分で、わたしはその光景を眺めていた。呆然と見つめていた。
婚約者のクレスと、知らない少女が楽しそうに踊る、その光景を。
*
「今日のパーティー、遅れるから、君、先に行ってて」
そんな連絡があったのは、ちょうどパーティーに参加するための準備を終えたときだった。
今夜は王宮で催される大規模な夜会の日。
わざわざ髪結い師を呼び紫銀の髪を高く華やかに結い上げ、いつもより入念に着飾った。ドレスも靴も、装飾品も王宮に出向くのに恥をかかないように、じっくり選んだ最高のもの。
婚約者のため、というわけではないけれども、わたしの方はこうも入念に準備してきていたというのに。
侍女を通して伝わってきた報せに、無表情で「またか」と思う。
わたしの婚約者はいつもこうだ。
パーティーだからとわたしを家まで迎えに来たことなんてほんの数回しかない。いつもいつもわたしは一人で会場に行き、そこで遅れてきた彼と落ち合うことになる。いや、落ち合えればいい方だ。後から行くと連絡してきた彼がついぞ姿を見せなかったこともある。
「……。お兄様は、もう家を出ているのだったかしら」
「はい。旦那様は、クレス様から連絡が入る少し前に出ていかれました。今から使いをやって、報告致しましょうか?」
「いえ、いいわ」
父が亡くなってから、爵位を継いだ兄はとても忙しそうにしている。こんなことで迷惑をかけたくはない。できることなら、入場のエスコートの代理を立ててもらいたかったが、それもわざわざ使いを出して頼むほどのことじゃない。
幸か不幸か一人で会場に行くことには、もう慣れてしまった。
ため息を堪えながら馬車に乗り込み、わたしは王宮に向かった。
「クレスはどうした、ジェナ」
会場に到着してすぐ、兄が一人でいるわたしを見つけてむすりとした顔で話しかけてきた。
「あとからいらっしゃるそうで、わたしだけ先に来たの」
「何?」
兄は険しく眉を寄せる。
父によく似た表情に思わずびくりとした。
「いい加減に、どうにかしないといけないな」
「お兄様?」
どうにか、とは?
「いや、ジェナは何も心配することはない」
ぽん、とわたしの頭を軽く撫でて、兄は離れた。知り合いに挨拶をしに行くのだろう。
わたしも友人を探しに行こうと、何気なく会場内を見回したときだった。
「――は?」
大広間な壮麗な扉が開き、婚約者が入場してきた。隣に、知らない少女を伴って。
……なんだそれ。
クレスは何食わぬ顔で、その少女の手を引いてエスコートする。
――なんだ、それ。
婚約者を差し置いて、家族でもない別の令嬢を、こんな立派な夜会でエスコートするなんて。わたしに、喧嘩を売ってるとしか思えない。
わたしはかなり呆然としていたのだと思う。
気づいたらわたしの耳を軽やかな楽の音が通り抜けていた。ダンスが始まったのだ。
嫌なものは目につくのか、わたしの目はすぐにクレスを見つけた。
くるくる、くるくる。
エスコートしてきた少女と楽しそうに踊っている。顔が歪むのを感じて、急いでバルコニーに出た。
「何よ……何でよ。今までだって最低だったけど、ここまで虚仮にされたことないわよ」
怒るべきか、泣くべきか。判断がつかなくて、表情だけがぐにゃりと歪む。暗闇では顔なんて見えないからいいだろう。
クレスの行動がわたしを悩ませるのは昔からだ。
彼は気まぐれで、自由で、考えていることがとても分かりづらい。
たとえば婚約が決まって初めて顔を会わせたときだ。
それは彼の家でのことだった。
庭に出て話をしていると、わたしの足下にすりすりと猫がやって来た。とても可愛らしい真っ白な猫。聞けば、彼の家の飼い猫なのだと言う。目を輝かせて可愛がっていると、急に彼は猫を取り上げてわたしに言った。
「君はダメ。触らないで。あと、今日はもう帰って」
それまで普通に話していただけに、急に態度が冷たくなってびっくりした。何が気に障ったのかさっぱり分からなかったが、彼は猫を持ったままどこかへ行ってしまう。置いてかれたわたしは半べそを書きながら、父のもとに戻りそのまま家に帰った。
そんなことがあったのに、別の日彼はけろりとした顔でやって来て、
「これ、君に似合うと思って」
と、贈り物をしてきた。
この間のお詫びだろうかと思って受け取ったわたしは、単純にも嬉しくなった。嫌われたわけではなかったのだと、ほっとした。
贈り物は、髪飾りだった。
わたしの目と同じ青色の宝石が輝くバレッタ。わたしは早速侍女につけてもらって、クレスに見せた。褒めてもらいたくて、「似合うかしら」と訊ねた。すると。
「思ったより、似合わない」
彼は不機嫌になった。
挙げ句に「帰る」と言って、本当にそのまま帰ってしまった。
わたしは呆然とするしかない。
似合わないと言われた髪飾りは、小物入れの底に沈めた。きっともう使わない。
何度かそういうことがあって、わたしは彼に嫌われていて嫌がらせをされているんじゃないかと疑った。
「嫌いなら、変な嫌がらせしないでそう言ってよ。言ってくれれば婚約だって、解消できるかもしれないわ」
「どうして? ……君は、僕のこと嫌いなの?」
「は? そんなこと言ってないじゃない」
「だって、君の口ぶりはまるで婚約を解消したいみたいだ。僕のことが嫌いだからじゃないの」
「あなたが、わたしのことを嫌いなんでしょ。わたしといると急に不機嫌になるじゃない」
「そんなことないよ。君の勘違いだ。僕は君との婚約を解消したいなんて一度も思ったことがない。君は、そうじゃないみたいだけど」
「だから、そうは言ってないじゃない。あなたこそ勘違いよ」
「じゃあ、何も問題ないじゃないか。僕たちは二人とも勘違いをしていた。君も僕も互いのことを嫌いじゃない。なら、婚約を解消する必要は、ないよね?」
「……そう、なのかしら」
「そうだよ。ほら、これをあげる。仲直りの印」
手を取られ、その上に彼はコロンと貝殻型の耳飾りを置いた。ガラスでできているようで、透き通った綺麗な水色だった。クレスの瞳と同じ色だ。可愛い。わたしはそれを侍女に預けた。
「付けないの?」
「付けたって、どうせあなたは似合わないって言うんでしょう。あなただってわたしが贈ったハンカチを使わないくせに」
「だって、僕の好みじゃなかったから」
「……好みだったら、使うの?」
「うん、だからまた贈ってよ」
「……分かったわ」
けれど、何度贈っても彼はそれを使わなかった。問い質しても、いつも好みじゃないと返してくる。それなら好みを教えてと言うと、話をはぐらかされてしまう。
だから、わたしは何枚もハンカチを贈るしかない。彼の好みが分かるまで、いろんな刺繍を施して。
――わたしには、彼の気持ちが分からない。何を考えているのか分からない。
でもそれが、今日はっきりした。
彼はわたしのことを好きではなかった。
わたしよりも優先する大事な女の子がいる。エスコートしたい相手がいる。
これ以上は、もう。
「……、もう、惨めだわ」
わたしは具合が悪くなった振りをして、彼に会う前に会場を後にした。
それから一週間後、わたしたちの婚約は解消された。
*
婚約の解消は、兄の独断だった。
わたしがなにか言うより先に兄は動いていたのだ。今思うと、「いい加減にどうにかしないといけない」と言っていたのはこのことだったに違いない。
婚約が解消されて、わたしは悩んでいた。
今まで贈られたものを、捨てるかどうか。
もちろん手放すべきなのだろう。でも、わたしは決断できなかった。似合わないと言われたものばかりなのに。
捨ててしまえば、本当にクレスとの繋がりが絶たれると思うと苦しくなった。
きっとわたしは、彼のことが好きだったのだ。振り回されてばかりで、言い争ってばかりだったのに。何が好きだったのか、自分でも分からない。
「ジェナお嬢様、大変です。クレス様がいらっしゃいました」
「……会わないわ。お帰りいただいて」
何をしに来たと言うのだろう。慌てて部屋に駆け込んできた侍女に首を振る。が、侍女も首を振った。顔は青ざめていた。
「無理です! ジェナお嬢様にお会いできないなら自害すると剣を持ち出していて!」
「は? 何をしてるの!?」
慌てて部屋を飛び出す。
大変です、とはそういう意味か。
にしても、普段から言動が分からない人だったが、今日はとりわけ意味が分からない。何をそこまで必死になっているのか。
「本当に君は何も分かってない」
応接室に入ったわたしを見た途端、彼は言った。
「分からないわよ。唐突に何なの!? とりあえず剣をしまって」
クレスは本当に抜き身の剣を持ってそこに立っていた。使用人がわけのわからなさに皆怯えている。わたしだって怖い。急に賊に襲われた気分だ。
「じゃあ、撤回して」
「……何を?」
彼が一歩距離を詰めた。近寄らないで欲しい。手に持った剣が怖すぎる。
「婚約の解消を」
「……はあ?」
「君が言ったんでしょう。だって君は、ずっと僕との婚約を解消したがってた」
「それは、あなたがわたしのことを好きじゃないと分かっていたから」
「本当に君は何も分かってない」
また同じ台詞を言う。
とん、と背中が壁についた。いつの間にか追い詰められていた。目の前に、クレスの静かな眼差しが迫る。責めるような視線にわたしはむっとして声を荒げた。
「分かってないなんて言われたって、あなたは分かってもらおうと努力しなかったじゃない。いつも、上手く誤魔化して。そうよ、分からない。わたしはあなたの好み一つ分からないわ!」
「どうして」彼は息を吸う。
「どうして分からないの?」
吐息が唇に触れた。近い。少し顔を逸らす。
「どうしてって、あなたが教えてくれないから」
「教えなきゃいけないことなの?」
「っ、わたしは、教えて欲しかった! 贈ったハンカチを、あなたに使って欲しかった」
「……君がそれを言うの」
「な――……?」
指が伸びてきて、わたしの右耳に触れた。そこに飾られていた真珠の耳飾りを、器用に外す。
「君だって、僕の贈り物を全然身に付けないじゃないか」
もう片方の飾りも奪われた。触れられたところが、熱い。
「あ、あなたが似合わないって言うからよ! 不機嫌になるようなもの、つけられるわけないじゃない!」
クレスはむっとしたように、唇を引き結ぶ。
「似合わないなんて言ってない。ただ僕は、君にはもっと似合うものがあると思うだけで。――いいよ、僕の考えなんて理解しなくても。僕がどうして君に贈り物をするのか、その根本的なところだけ理解してくれれば」
「そんなの、婚約していたからでしょう?」
「……本気でそう思ってるの?」
声が低くなる。
「じゃあ仮に、僕が君の婚約者という義務感で行動していたとしようか。それなら婚約が解消された今、君は僕のこの行動にどう説明をつけるの」
この行動、とは、突然我が家に押し掛けて、剣で脅してわたしを引っ張り出したことだろうか。そういえばそのあと、婚約解消を撤回しろと言っていた。でも、それはおかしい。クレスには、わたしなんかよりも優先する相手がいるのに。
「どうって……分からないわ。あなたは、あの夜会でエスコートしていた子のことが好きなはずなのに、どうして?」
「僕が、誰を好きだって?」
「一週間前、王宮の夜会で、遅れて一緒に入ってきた子よ。ダンスも踊っていたわ、楽しそうに」
「ああ、あれ? あれは、しょうがなかったんだ」
「しょうがないって、何よ」
「あの日、僕は遅れて会場に行った。ちょうどそこでお世話になっている家のお嬢さんと会ったんだ。それで、成り行きでエスコートしたんだよ。とてもお世話になってるから、断れなくて。ダンスも」
「言い訳がましいわ」
「でも事実だ。僕は彼女に欲情したことはない」
「よ、よっ!? あなた何言って……!」
「だって君がひどい誤解をするから。僕には、君だけなのに――」
頤に、指が触れる。水色の瞳はすぐ目の前にあった。
あまりに近い距離に唇が触れあうと思ったその瞬間、鼻の奥がむずりとした。
「――っ、――くしゅん! っしゅん!」
堪えきれず、慌ててそっぽを向いて手を添えた。
……あ、危なかった。もう少しでクレスの顔面に唾を飛ばすところだった。
そう思いながら視線を戻すと、さっきまで壁際にわたしを追い詰めていたクレスが、反対側の壁にまで離れていた。至近距離でくしゃみをしたのは悪かったと思うけど、そこまで離れなくても良いんじゃないだろうか。地味に傷つく。
「だ――大丈夫、ジェナ!? 目はかゆくない!? 息は苦しくない!?」
「そんな遠くから心配されても……しかもただのくしゃみでそんなことにはならないわよ?」
本当、クレスの言動はよく分からない。
いつの間にか剣も取り落としている。今の内に回収しようと一歩踏み出すと、クレスは逃げるように一歩動いた。あまりにも様子がおかしいことに、ようやくわたしは気づく。クレスは青ざめて、少し震えているように見えた。
「もしかしてあなた、具合が悪いの?」
「! 僕は大丈夫。だから、こっちに来ないで。もう、帰るから」
なんだそれ。
わたしはため息をこぼす。
「本当、あなたって分からない。さっきはあなたから近づいて来たくせに、わたしには近づくなって言うの? 一方的だわ」
一歩踏み出す。クレスの肩が震える。こんなクレスを見るのは、初めてだ。
「ジェナ、お願い。本当に、ダメなんだ。来ないで。危ないから」
「危ないって、何がよ? もしかしてさっきのくしゃみ? 風邪を引いてるわけじゃないわよ? あれは、……あなたの吐息がくすぐったかったせいなんだから」
「……吐息? 本当? 何か身体に異常はない?」
「至って普通だけれど」
「そ、そっか――……焦った……良かった……」
安堵した様子で、クレスは息を吐き出した。
彼が何に怯え、焦ったのか、わたしにはさっぱり分からない。
「あ、でもやっぱ近づかないで。怖いから」
「剣を持ち出してきたあなたが何よりも怖いと思うけど」
「そういう怖いとは違うよ。とにかく、君が元気ならいいんだ」
「? どういうことよ? くしゃみ一つで大げさね」
正確には一つでなくて二つだけれど、細かいことはいいだろう。
バタンと荒々しく扉が開いたのは、そのときだった。
「何しに来た、クレス・フォルベル」
「お兄様……」
つかつかと大股で部屋に入ってきたのは、兄だった。使用人が呼んだに違いない。クレスが剣を持って現れたのだ。仕事で出かけていた兄を、使用人の誰かが呼びに行くのは自然な行為だろう。クレスはわたしを呼びだしたから、わたしの身を案じたのかもしれない。
兄はわたしを背に隠して、クレスを睨み付けるが、クレスは少しも怯まなかった。むしろ、わたしの方がびびっていた。兄は父に似て顔が怖くて、少し苦手だ。
「婚約解消を撤回してもらいに」
クレスはぬけぬけと言う。
兄は床に落ちていた剣を蹴り飛ばして、クレスの手の届かない遠くへやった。
「――大事なジェナを、お前みたいな男にやるわけがないだろう」
「どうしてですか」
「ジェナが苦労する未来しか見えないからだ。人の家で剣を振り回す男を信用しろと言うのか? それでなくとも、お前のジェナへの態度はずっと目に余るものがあった」
「……僕は、ジェナを大切にしている」
白々しい台詞に、一体どこが、と言いたくなった。大切にされた覚えなんてない。いつもクレスの気まぐれに一方的に振り回されていた記憶しか。
兄もわたしの考えに賛成のようで、鋭い視線で切り捨てた。
「独りよがりだ。何度となく傷つけてきたのを分かってない時点で話にならん」
「傷つけてなんてない。だって、僕は細心の注意を払ってたはずなんだ。ジェナと会うときは、洗い立ての服を用意して、毛の一つもつかないように気をつけて……」
「毛? え、何の話?」
あまりに脈絡のない単語が飛び出てきて、思わず声をあげる。毛ってなんだ。毛って。それがわたしを傷つけるとでも言うのだろうか。そんなことより、クレス自身の態度の方がわたしは傷ついてきたのだけれど。
「何の話って、君、動物アレルギーでしょ。もしもうちの猫の毛が服についてたら大変だから、いつも僕は気をつけてて……」
「そ……そうなの!? わたし、動物アレルギーなのっ? えっ、もしかしてじゃあ、小さい頃、猫に触っちゃダメってあなたが言ったのは……」
「君がくしゃみと鼻水と涙で顔を汚しても、触れあおうとしてたからだよ。あんなの誰だって必死に止める」
衝撃の事実。わたしは何度も目を瞬いた。
記憶では楽しく触れあっていたはずなのに、実際は顔はぐしゃぐしゃだったというのか。あの頃は確か、八歳かそこらだったはずなので、クレスも相当衝撃的だったのではないだろうか。楽しく猫とじゃれていたら、わたしの顔面が大惨事だったのだから。あのときのクレスは態度が冷たくなったのではなくて、あまりに必死で取り繕えなかったのかもしれない。
「そ、そうだったのね……。じ、じゃあ、よく夜会に遅れてくるのは……」
「ああ、それは用意していた服に猫がじゃれていたり、包まって寝ていたりしたときだね。毛を落とすのが、もう大変で。どうしてか、遅刻したくないと思うときに限って邪魔してくるんだよね。脱走して夜中探し回ったこともあったかな」
やっぱり猫か――――!
どうやらわたしはクレスに振り回されていたのではなく、猫に振り回されるクレスに振り回されていたらしい。何その連鎖反応。
「それが、どうした? 夜会に遅刻してまともにエスコートをしなかったり、すっぽかしたり、ジェナが一生懸命刺繍したハンカチを使わなかったり、傷つけるような行動を取ったのは事実だ」
「はっ、まさかハンカチも猫が関わっているの!?」
「え? ううん、ハンカチは単に、君がくれたものだからもったいなくて使えなかっただけ。きちんと額に入れて部屋に飾ってるよ」
猫じゃないんかい。
あと額って何? ハンカチ飾るって何? わざわざそんなことをする理由が分からない。
――あれ? でも待って。じゃあ……
「好みのものは使うって言ってたのは、嘘なの?」
「うん。ハンカチを保存して飾ってるなんて言ったら、もうくれなくなっちゃうかと思って、咄嗟に」
そりゃあまあ、使わないならあげませんよ。たくさんハンカチ贈ったのも、クレスの好みを少しでも知りたかったからに他ならない。それなのに騙してただなんて。
額に手を添えて、よろめく。頭がいっぱいいっぱいだ。
「もう……意味がわからない。あなたは何がしたいの」
「君と結婚を」
あまりにさらりと言うから、わたしは幻聴かと思った。
すぐに睨みを利かせた兄が、「許さん」と言ったおかげで現実らしいと認識した。
「……。君は?」
「え?」
「……なんて、聞くまでもないか。ずっと僕のこと嫌ってたもんね。僕と居るとき、君はいつも不機嫌だった」
「はあ?」
なんだそれ。
何を言ってるんだ、この男は。
「――ジェナ?」
「どいて、お兄様」
目の前に立っていた兄を手で押しのける。もちろん兄はびくともしなかったけれど、睨んだら怯んだように道を開けてくれた。
そのままわたしは真っ直ぐクレスに近づく。まだ猫の毛が服についているかもしれないと気になるのか、彼は顔を青ざめさせて後退った。でも、もともと壁際ぎりぎりにいるクレスに逃げ場なんてない。わたしは苛立ちをいっぱい掌に込めて、壁を殴るように手をついた。
「――誰が、誰のことを嫌いですって?」
感情そのままに、少し高い位置にあるクレスの胸ぐらをつかむ。
「あ、あんまり近づかないで」
クレスが顔を青くさせて慌てるが、知ったことではない。同じ台詞を繰り返す。
「誰が誰のことを嫌いですって?」
クレスはふいっとそっぽを向いた。拗ねた子供のようだ。
「……君が、僕のことを。君はいつまで経っても僕の名前を呼ばないし、贈り物だって身に付けない。でもいいんだ。そんなことには慣れてる」
むっとした。わたしが悪いみたいな口ぶりにむかっとした。
「なんで――」
息を吸う。
「なんで、あなたにそんなこと言われなきゃならないのよ!? あなただってわたしのこと、滅多に名前で呼ばないじゃない。それに、贈り物だって。身に付けないでわけの分からないことをしているし。わたしは、一度でも、あなたのことを、クレスのことを、嫌いだと言った!?」
「っ、い、言ってないけど……でも、ずっと婚約を解消しようとしてたし、実際に解消したじゃないか。それに、そもそも僕のことを好きになる人間なんているはずがない」
本当に、何を言っているのだ、この男は。もう分からない。頭の中が怒りでめちゃくちゃだ。ヒステリックにわたしは叫んだ。
「馬鹿ッ!! いるわよ、ここに! わたしはね、クレス、あなたのことが好きなの! 好きだから、他の女の子をエスコートしてたら嫉妬するし、あなたが似合わないと言った装飾品をあなたの前でつけられないのよ。婚約だってね、わたし、一度だって解消したいなんて言ってないわ!」
「……す、すき……? 君が、僕の、ことを……?」
クレスは呆然としていた。余命数日です、みたいな信じられない事実を突き付けられたような顔だった。でもその顔はすぐに朱に染まった。熟れた果実のように耳まで真っ赤である。
「……えっと、あの……ほ、本当、に……?」
普段、平然とした顔で達者に口を回す彼は影も形もない。
明らかに照れた表情に、こっちまで恥ずかしくなってきて、顔が熱くなるのを感じた。手から力が抜ける。
「ほ……本当よ。嘘でこんなこと言わないわ……」
「じゃあどうして……婚約解消なんて……」
「それは、お兄様が勝手にやったことよ。……わたしが心配をかけてしまったのが悪いのだけど」
心配をかけた自覚はあった。クレスと会ったあとはいつもわたしは落ち込んでいたし、夜会にクレスが遅刻することは報告していた。それから、贈り物の件も。それでも兄に婚約が嫌だと言ったことはなかった。
「ジェナのことは、父上からも、母上からも任されている。身勝手な振る舞いばかりする男に嫁がせるわけにはいかない」
ぐっと肩を引かれて、クレスから引きはがされる。兄は、クレスを威嚇するように見下ろしていた。
「お兄様……」
「ジェナ。お前はもう下がれ」
「でも」
「下がれ」
「っ!」
鋭く睨まれて、肩が跳ねた。気圧されたわたしは、すごすごと自室に戻った。父によく似た兄の眼光には、どうにも怯えてしまう。
それから何がどうなったのか、詳しいことをわたしは知らない。
ただその数時間後、クレスは満面の笑みでわたしの部屋にやって来た。
「ジェナ、義兄上が婚約を許してくれたよ」
「え? 嘘」
「嘘じゃないよ、ほら。書類にサインももらった。嬉しい?」
あんなに怒ってた兄を説得したというのか。確かにクレスは口が回るけど、兄はわたしほど単純じゃないはずだ。一体どうやって。
「まだ結婚は許してもらってないけど」
「……どういうこと?」
「様子見ってこと。また僕が君を――ジェナを悲しませることがあったら、婚約は即破棄だって」
「本当に、お兄様を説得したの」
「説得……うん、まあ、そうだね」
少し考えるような間があって、クレスはにこりと微笑んだ。信じて良いのだろうか、この笑顔。でも、何をどうしたのかなんて聞かない方が良いような気がする。聞いたところで単純なわたしはクレスに誤魔化されてしまうのだろうし。
「ねえ、ジェナ、嬉しい?」
クレスが一歩踏み出して、わたしの顔を覗き込む。得意満面な表情は、なんだか狩った獲物を見せびらかす猫のようだ。
「それは、嬉しいけど……でも、結局あなたはわたしのことをどう思ってるの?」
ここまでの態度から考えれば、明白だ。でも、わたしは言わせたかった。わたしだけあんな風に暴露したままなんて許さない。
「――まだ分からないの?」
クレスは不満そうに目を細めた。
目は口ほどにものを言うと言うけれど、それでもわたしは言って欲しい。
「……分からないわ。口で言ってくれなきゃ」
どうしてわたしにたくさんの贈り物をくれたのか。どうしてわたしとの婚約に必死になってくれたのか。その口で、言って欲しい。
「……どうしても言わなきゃダメ?」
「分からないもの」
「……」
クレスはぐっと押し黙った。
そんなに言いづらいことだろうか。それとも、わたしが思っていることとは実はまったく違っているのだろうか。なんだか急に聞くのが怖くなってきた。
クレスは徐に口を開く。
「あの、ジェナ……僕はね、誰かに自分を理解して欲しいなんて思わない。父上も母上も、皆僕に興味はなくて、弟ばかりを可愛がっていて、理解がどれだけ無駄なことか知っていたから」
「クレス……?」
「でもさ、君は、ジェナは、初めて会ったときから僕に興味津々だったじゃない。それが、新鮮で、僕にはむず痒かった。怒らせてしまっても、ジェナは僕を無視することなんてなかったし、いつも最後には許してくれた。僕を見てくれた。だから、僕は……――」
口をもごもごとさせて言い淀む。
照れているというより、何かを恐れているように見えた。何を恐れているのか、具体的なことは分からない。
でも、今の話を聞いて一つ、気づいたことがある。
クレスは、わたしが思っていたよりもずっと臆病なのかもしれない。
彼の家族関係が良好でないことは知っていた。そもそも両親の夫婦仲が良いとは言えないし、彼らはクレスのことを跡継ぎとしてしか見ていない。一方でその弟に対しては夫婦それぞれ分かりやすい愛を注いでいる。クレスはそれを平然と受け止めていたように見えたから、わたしはそこまで気に留めなかった。それに、嫡男に厳しくして、下の子を甘やかすなんてことは珍しくもない。
けれど、珍しくなくても、平然としているように見えても、クレスは平気ではなかったのだ。
自分のことを理解してくれる人なんていないとずっと心を閉ざしていたのだろうか。わたしが何度好みを教えて欲しいと言っても教えてくれなかったのは、無駄なことだと思っていたからなのだろうか。
ようやく少し、クレスのことが分かったような気がした。
そのことが嬉しくて、いつも威嚇してそっぽを向いていた猫がすり寄ってきてくれたみたいで、わたしは微笑んだ。
「ジェナ?」
「やっぱりいいわ、クレス。無理に言ってもらうことじゃなかった。でもね、覚えておいて。わたしは、あなたのことが知りたい。あなたが何を考えているのか、理解したい。あなたの好きなもの、嫌いなもの、全部知りたいの」
「ぼ、僕のことを……?」
クレスの頬が赤くなった。
誰かに自分を理解して欲しいなんて思わない、なんて嘘だ。
心からそう思ってる人が、こんな嬉しそうな顔をするはずがない。
「だから、ねえ、クレス。今度は、クレスの好きなものを贈って。わたしの気に入るものじゃなくて、あなたの気に入るもので、わたしを飾って」
クレスの言う「似合わない」とはつまりそういうことなのだろう。わたしは彼の贈り物を気に入らなかったことがない。彼はわたしが好きなものを選んで贈ってくれていたのだ。でも、わたしの好みと彼の好みは同じじゃない。彼自身は、わたしにはもっと別のものを身に付けて欲しいという欲求があったんじゃないだろうか。わたしのセンスが悪い可能性もあるけれども。
でも、「あなたの好きなものを」と言えば、クレスの好みをわたしは知ることができるし、彼が不機嫌になることもきっとない。良い案に思えた。
「……っ、」
「え――クレス?」
目の前が急にふっと暗くなった。身体がクレスの腕に包まれて、熱くなった。どくどくとうるさい鼓動の音は、わたしのものなのか、彼のものなのか。こうも至近距離では分からない。
頭の上で震えた声が響く。
「……い」
「え?」
「……ないよ。君以外に好きなものなんて、猫しかない」
「……」
なんだろう、聞きたい言葉に掠っていたはずなのに、微妙にときめけなかった。猫と並列にされたせいだろうか。
でも、彼が猫好きなのは、よく知っている。
彼と出会ったあの日、わたしの足元にすり寄ってきた白猫を、彼はとても愛おしそうに見ていたから。それまで何の感情も映さなかった彼の顔が柔らかく笑みを刻んだ瞬間、わたしの心臓は高鳴った。――ああそうだ、あの瞬間にわたしは恋に落ちたのだ。
*
ばたばたと廊下の方から慌ただしい足音がした。つい、と目を向けると同時に扉が開き、侍女が姿を見せた。
「ジェナお嬢様、大変です。クレス様がいらっしゃいました」
「そう。放っておいていいわよ」
ソファに腰掛けているわたしはすぐに手元に目を落として、刺繍を再開する。だが、侍女は「無理です!」と叫び声を上げる。
「また剣を持ち出してるんでしょうけど、いいわよ、放って置いて。死ぬなら勝手にどうぞとでも言って――」
「ジェナ!」
侍女が開けた扉から、必死の形相をしたクレスが飛び込んできて、さすがのわたしも手に持っていた刺繍針と布を取り落とした。しかもクレスは侍女を追い出して扉を閉める。横暴な振る舞いにわたしは立ち上がった。
「クレス。許可もしてないのに淑女の部屋に押しかけるなんてはしたないわよ」
「それは謝るけど、話を聞いて。ジェナ」
「嫌よ、聞きたくない。出て行って」
「聞いて、ジェナ。君は勘違いをしてる」
「していないわ。わたし、この目で見たもの。あなたがあの夜会で踊っていた女の子の家に行っているところを。しかも、一度や二度じゃないわ。使用人に確かめさせたもの。通っていると言っていい頻度だったわ。どう弁明するって言うの?」
「確かに通ってはいるけど。でも、ティニア嬢に会うためじゃない」
「ふうん」
「本当だよ、ジェナ。僕は、猫に会いに行ってるだけなんだ」
「それは愛しい人の隠語か何かかしら?」
「そんな隠語はないし、僕はジェナ以外の女性に興味もない」
「う……そ、そう……」
いけない。真剣な顔で言うものだから、うっかりときめいてしまった。
「そうだよ。ティニア嬢の家には、前にお世話になっていると言ったでしょう? 彼女の家は、猫に限らずたくさんの動物がいるんだ。だから、ジェナと結婚する前に、僕の猫を彼女の家に引き取ってもらおうと思ってるんだよ」
一度ときめいてしまえば、怒りはするするとほどけていってしまい、「あ……そうだったの」と納得してしまう。変な誤解をしてしまった罪悪感までわき上がってくる。
「ごめんなさい。疑ってしまって」
「ううん、いいよ。執着してくれるのも、嫉妬してくれるのも、全部嬉しい。ほら、これをあげる。受け取って?」
言いながら、クレスは抱きしめるようにわたしの首に腕を回す。髪の毛が頬に触れて、くすぐったい。惜しむようにゆっくりとクレスが離れると、わたしの胸元には彼の瞳と同じ水色の石が輝いていた。
「――うん、似合ってる」
彼は柔らかく笑う。わたしが恋に落ちたときよりも、ずっと甘さと艶と熱を含んだ笑みに、わたしは思わず視線を逸らした。直視できるわけがない。顔が熱い。
わたしの胸元に光るしずく型の石に、クレスの指がそっと触れる。
「僕の思いがどこにあるのか、忘れないでね。僕は君よりずっと嫉妬深いし、執着心も強いから」
「それは、何? わたしの気持ちが余所へ向くとでも思っているの?」
冗談交じりに言ったつもりだったけれど、クレスは「うん」と感情の読めない笑顔で頷いた。否、目は笑っていない。
「僕、この間見たんだ。街で、君が知らない男と一緒にいるところ。とっても親しげに腕を組んでいたよね。ねえ、どう弁明するの?」
ぐいっと腰が引き寄せられた。顔が近くて、ダンスを踊るように腰を仰け反らせる。
「は? 何のこと――あ、もしかして、あれ? あなたが見た男って、長髪を後ろで結んでる、日焼けした軽薄そうな人?」
「心当たりがあるんだ?」
「心当たりも何も、あれ、お兄様よ。二番目の」
「え? でも、次兄は家出して、消息不明だったんじゃなかったの?」
「そうだけど、たまたま街で会ったのよ。今までどこに行ってたのって聞いたら、貿易船に乗っていろんな国に行っていたみたい。今はちょうどこの国に滞在していて、あと二~三週間したら次の国へ出航するって言ってたわ」
「なんだ……良かった……」
ほっと息を吐き出したクレスは、わたしの首筋あたりに顔を埋めた。いつの間にやら抱きしめられていて、ドキドキしてしまう。クレスはどうしていちいちこうも距離が近いのか。こっちの心臓がもたない。
「ね、ねえ、クレス……」
「何、ジェナ?」
「わたしも、贈りたいものがあるの。受け取ってくれる?」
「もちろん。でも、もう少しこうしていさせて」
「わ……分かったわ」
甘えるように言われては、断れなかった。心臓があまりにもドキドキ言うから一度距離を置きたかったのに。
こうなったら、もういいか。わたしも彼の背に、手を回した。彼の肩が少し揺れ、抱きしめる腕に力がこもった。少し苦しいぐらいだ。でもこんな苦しさは、彼とすれ違っていたときに比べればなんてことはない。それどころか、甘く心地良い苦しさだ。目を瞑る。
わたしたちはきっとこれから先もくだらないことで喧嘩するだろう。だって互いに嫉妬深い。本当にくだらないことや思い込み、勘違いで目くじらを立てるに違いない。
でも、その度に誤解を解いて、仲直りをしていくのだろう。だって互いに、離れられないほど執着している。
「……早くジェナと結婚したい」
「まだお兄様は許してないわ。あ、でも今回のことはまだ話していないから、婚約は大丈夫なはずよ」
「ダメなら、また土下座でも脅しでも何でもするよ」
「ど、土下座? 脅し? え?」
前回はどちらかをやったのか。それとも両方? 分からない。深く考えるのはやめておこう。
ふ、と首筋に吐息が触れてぞくりとする。クレスが笑ったのだ。
「――最悪、僕は君を攫うよ」
首筋に柔らかな熱と、小さな痛みが走る。耳に響いたのは、甘いキスの音。
「く、クレス!」
かあっと顔に熱が上った。
わ、わたしは今、何をされた!?
心臓がドキドキと鳴って、顔が熱い。頭の奥が痺れたようにぐらぐらする。
クレスは艶やかに熱っぽく笑って、わたしの顎に指をかける。
「ま、待って」
「どうして?」
「どうしてって……」
わたしの心臓が限界直前だからよ!
かまわずクレスは迫ってくる。互いの鼻が触れた。
ああもう。これ以上は、もう――
「――無、理……」
「ジェ、ジェナ!?」
心臓が限界を迎えたわたしは、彼の腕の中で気絶した。
直後に、また出先から呼び戻された兄が部屋に入ってきて、再び婚約解消の危機に陥ったのだとか何とか。目を覚ましたら、クレスは家から追い出されていて、わたしは一週間の接触禁止を言い渡された。守れなければ婚約は解消と脅されて。
……無事に結婚に辿り着くまでは、まだ道のりが遠そうだ。
ひとまず、彼に会えない一週間で、ハンカチの刺繍でも進めようと思う。相変わらず彼は、それを身に付けてはくれないのだろうけど――
でも、だからこそ、彼の気持ちは明白だから。