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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第四章・永遠の今
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そして欧州の夜は更けていく

 長い夜が明けた。大公の話を聞いている間、聖堂に安置されていた立花倖の様子は、大公の使用人たちがしっかりと面倒を見ていてくれたようだった。寝ずの番で線香を絶やさないようにしていてくれた使用人に礼を言って交代すると、縦川たちはそのまま一睡もすることなく、葬式代わりのお経を読んでから、立花倖の出棺をした。いつまでも迎賓館に遺体を置いておくわけにはいかなかった。


 出棺にはまたどこからともなく職員たちがやってきて、何も言っていないのに一列に並んで盛大に見送りをしてくれた。番兵が門を開けて、迎賓館から霊柩車が出てくると、何も知らない通りすがりの市民がビックリして目を丸くしていた。その横を通り過ぎながら、昨晩は暗くてあまり見えなかったまるで映画のセットみたいな町並みをぼんやりと眺めていたら、なんだか妙に落ち着かない気分になった。


 自分たちは今何でこんな異国の地で、霊柩車なんかに乗っているんだろうか。結婚式を海外であげる人ならいくらでも聞いたことがあるが、葬式をあげに海外に行く人なんてまずいないんじゃないか。


 火葬場に到着して、立花倖と最後の別れをするとき、立花愛は姉の顔を見ながら何を言っていいか分からない感じで、暫く呆然と立ち尽くしているようだった。やがてハッと我に返ると、まるで生きている人に話しかけているような感じで近況報告をしだしたが、その途中で職員に促されて、全部言い終わる前に姉を乗せた棺は火葬炉に入れられた。


 少しくらい、気を利かせてくれてもいいんじゃないかと思いもするが、そんなこと言ってられないくらい、火葬場というのは混んでるものなのだ。普通に生活していたら、まず人が死ぬ場面なんてお目にかかれないのに、火葬場に来るとひっきりなしに棺桶が運び込まれてきて、実は毎日こんなにも大勢の人が死んでるのかと驚かされる。そんなものなのだ。


 人間一人を灰にするようなエネルギーはとてつもなく大きなものだから、火葬が終わるまで1時間くらい待たされる。その間、やることがない二人は火葬場の壁に持たれながら、ぼんやりと煙突を眺めていた。


 昔はここからモクモクと煙が上がっていたらしい。年寄りはそれを見て、死者が空へ返っていくんだと詩的に表現したそうである。尤も、実際には灰が地面に降り積もるせいで、火葬場の近くには人が住めなかった。だからその周りには、畑やら、刑務所やら特殊な建物が立ち並び、中には養豚場なんてものもあった。


 火葬場で人が焼かれている横で、養豚場の豚が飼料を食べる。きっと降り積もる灰も混ざったことだろう。その豚が出荷されて、やがて食卓に上がる。我々はそれを食べる。かつて九十九美夜は言っていた。命ってなんなんだろうか。


 遺骨を受け取ったあと、呆然としている立花愛と二人でこれからどうすればいいんだろうかと話していると、大使館から来たという日本人の女性がやってきて、二人を市内のコンドミニアムに案内してくれた。


 大使館員は公国から、わざわざ二人の面倒を見るように頼まれてきたらしい。彼女はどうして二人が要人扱いされているのか興味津々のようだったが、まさか理由を話すわけにもいかずにお茶を濁す。


 その後、欲しいものはないか、行きたい場所はないか、観光? ビジネス? これからの予定は? 二人の出会いの馴れ初めは? 若いっていいわねと、機関銃のように捲し立てる彼女に礼を言ってなんとか別れると、二人はコンドミニアムのリビングにどっと倒れ込むように座り込んだ。


 本当は別々の部屋にして欲しかったところだったが、もうそんなことを説明するのも億劫で、夫婦だと勘違いしている大使館員に逆らうことなく、甘んじて受け入れた。


 成田で飛行機に乗ってから24時間、出発したのは夜だったから、もうまるまる2日くらい動き続けていたようなものである。一応、飛行機の中で仮眠を取ったが、本来はケルンで一泊する予定だったから、本当に仮でしかない。クタクタに疲れ果てていた二人は、もはや声を出すのも面倒になり、お互いに寝る部屋を決めると、その中で倒れ込むようにして爆睡した。


*****************************


 目が醒めると部屋の中は真っ暗だった。縦川はまだ夢の中に居るんじゃないかと、またまどろみの中に沈みかけたが、すぐに海外旅行に来てクタクタに疲れ果てて眠ってしまったことを思い出し、慌てて枕元に置いたスマホを確認した。


 時刻は深夜一時。ベッドに倒れ込んだときはまだ昼過ぎくらいだったから、10時間近く眠ってしまったようである。それだけ眠ったというのに身体の節々が痛くて、頭もスッキリしなくて大分ボーッとしていた。


 それでも身体に鞭打って起き上がると、暗闇の中で慣れない部屋の家具にあちこちぶつけながら、なんとか部屋から外に出た。廊下に出てリビングの方を見ると、灯りが差しているから、どうやら愛はもう起きているようである。


 寝起きの挨拶をしに行こうとしたら、そのリビングから話し声が聞こえてきて、一瞬、彼女が日本に電話でもしてるのかと思ったが、耳をすませばもう一人の話し声も聞こえてきたので、縦川は誰だろうと思いながらリビングの扉を開いた。


「あら、おはよう、縦川君。よく寝てたわね」

「おはようございます、雲谷斎様。おじゃましております」


 リビングに入るとそこに居たのはテレーズだった。彼女はこの国のお姫様だから、昼間は同行できなかったが、こうして人の寝静まる深夜にわざわざ尋ねてきてくれたみたいだった。


 どうでもいいが、遠い異国の地に来てまでうんこ呼ばわりはやめて欲しい。縦川はまだボーッとする頭の片隅でそんなことを考えながら、


「テレーズ様。こんな時間にお姫様が出歩いててもいいんですか?」

「実は私もこちらへ帰ってきて間もなくて、まだ時差ボケが治ってないんですよ。普段はお城で一人で時間を潰さなきゃならなかったんですけれど、友人が来ているのならばと、こっそり外出許可がおりました」

「そうだったんですか」

「どうせ東京に戻るつもりですから、このままここにお泊りして、一緒に日本に連れて帰って欲しいです。お家にいると何も出来なくて……お父様お母様はもう家から出したくないって言ってるんですよ。お二人を車でお迎えに行くときも説得するのが大変でした」

「そりゃあ、我が子が5年ぶりに目覚めたなら、人の親ならそうなるんじゃないでしょうかね」

「そうなんですよね……私にしてみれば、そんな感覚は全く無いから、両親が本気で心配しているのは分かっても、ついきつく当たっちゃうんですよ」


 テレーズはそんなことを言いながら溜め息をついていた。


 自分で確認出来るわけじゃないから信じるしかないが、上坂が言うには眠り病患者は本当に眠ってるわけじゃなくて、別の世界で普通に暮らしているのだそうである。だからテレーズからしてみれば、5年間の眠りから目覚めたというような自覚は全くないのだろう。


「それよりも、お二人はいつまでこちらに滞在するご予定ですか? よろしければ、私が国をご案内しましょうか。どこへなりとお付き合いしますよ?」

「あのねえ、私達は観光に来たわけじゃないのよ。用も済んだし、最後に白木と連絡が取れたらさっさと帰るわよ……ドイツ警察とどんな話してるのか気になるし」

「え? そんなに早く帰ってしまわれるんですか? チケットは1ヶ月以内ならいつでも取れるんでしょう? せっかくここまで来たんですから、少しくらいどこか行きましょうよ。私が車出しますよ」

「冗談じゃない、あんたの車なんて二度と乗りたくないわよ」

「そんな~。安全運転しますから」


 テレーズはこっちに帰ってきてからは、お姫様らしく箱入りの窮屈な生活を送らされているようだ。愛を巻き込んででも何とかして外に出たいらしい。駄々っ子みたいなテレーズに対し、愛の方はつっけんどんな返事を返していたが、あまり角が立って見えないのは、二人がよほど打ち解けている証拠だろう。


 出会ったばかりなのに相性が良かったのかなと思いながら、姉妹みたいに仲のいい二人の邪魔をするのもなんだからと、縦川はシャワーを浴びるからと言ってリビングを出た。


 欧州と言えどまだ9月だからそこそこ暑く、寝汗をかいてしまったようだった。脱衣所で服を脱ぎ、シャワー室に入ると、さすが日本人が見つけてきたコンドミニアムだけあって、浴槽がちゃんとついていた。せっかくだから一風呂浴びようと思い、湯船にお湯を張っている間に、シャワーで汗を流し、体を洗う。


 風呂は命の洗濯だというけれど、実際、ごちゃごちゃして綺麗に整理しなきゃならないものが、頭の中にあった。昨日、警察署と大公の執務室で聞いた話は余りにも突飛すぎて、まだすんなりとは理解が出来ていない。一眠りして多少は頭も冴えたことだし、一度整理してみたほうがいいかも知れない。


 まず立花倖を殺した犯人は、ネオナチで間違いないだろう。そしてそれを率いているのは、おそらくヒトラーだ。


 その目的はいまいち判然としないが、おそらく彼女の研究成果を奪うことだったのではなかろうか。現に、彼女の家はもぬけの殻になっていたし、彼らがそうするだけの理由もある。聖杯を使って人間の魂を移し替えるには、人造人間の体が必要だからだ。


 大戦中に死んだはずのヒトラーは、実は知る人ぞ知る魔術師だった。彼はその予知能力で、塹壕に飛んでくる爆弾を回避したり、ヒムラーが将来裏切ることを予言したり、政権を取るための作戦をねったりしていた。大公はそれくらいしか語らなかったが、実際、ヒトラーにはそれ以外にも無数の逸話が残っているらしい。例えばゲーリングの裏切りとか、V1ロケットとか、核兵器の開発とか、イスラエル国家の誕生や、戦後東アジアの国々が繁栄するとも予言していたらしい。


 自分自身が予知能力者であった彼はトゥーレ協会という魔術に傾倒した秘密結社に属して、世界中のマジックアイテムを集めていた。そんな中で発見されたのが、ヴィリグートの持つ聖杯だった。


 聖杯は四次元ポケットみたいな代物で、その中にはあらゆる物をいくらでも入れておくことが可能であり、人間の記憶のような形の無い物であっても、情報としてその中に保存することが出来た。大戦末期、敗戦を悟ったヒトラーはそれを使って自らの記憶を封じ、後に復活することを夢見てボルマンに託した。


 ヒトラーに聖杯を渡されたボルマンはヨーロッパを脱出して南米に渡り、後に合流したユンカー学校出身のエリート軍団・ニーベルンゲンと共に、アメリカでFM社を作り、大公も所属していた秘密結社イルミナティを利用して、総統の復活を目論んでいた。


 イルミナティは大戦中、パルチザン活動を支援するために貴族たちが作った秘密結社だったが、実際にはもうこの時すでに、ヒトラーの手のひらの上で転がされていたらしい。創始者であるヴァイスハウプトはヴィリグートとして復活して、念願である神になるためにヒトラーと手を組んだ。その彼が大戦後、ニーベルンゲンを指揮していた。


 さて……


 ここまでで分かることは、ヒトラーは饗庭江玲奈のような予言者ではあったが、彼女とは違って輪廻転生は出来なかったということだ。


 江玲奈はおよそ500年前に解脱してから、輪廻転生を繰り返して現在まで記憶を維持し続けている。更には魂だけで過去や未来を行ったり来たりし、無数に存在する平行世界を自由に観測することによって予言を成していた。だが、大公の話から推測するに、ヒトラーはそこまでの能力者ではなくて、江玲奈の言うアカシャ年代記のような人間の魂の本質にまでは、まだ辿り着いていなかったようだ。


 彼が江玲奈のように平行世界を股にかけた予言者だったら、第二次大戦はまったく別の結末を迎えていただろう。もしくは彼自身が第三帝国が勝利する可能性世界を作り出して、そこを支配していたはずだ。そうではなく、聖杯を使って復活を試みたということは、彼はまだ不完全だということだろう。


 それにしても、ヒトラーがここまでして復活をしようとしている目的は何なんだろうか。世界征服……まあ、ぶっちゃけそれもあるだろうが、それよりも考えられるのはユダヤ人を滅ぼすことと、スラブ人を隷属させること、そして神人への進化ではなかろうか。


 ヒトラーの生きていた時代の人たちは、アーリアン学説なる不確かな説を信奉し、自分たちがゆくゆくは神になれると信じている者たちがいた。それを大々的に宣伝し、会員を募っていたのがヘレナ・ブラヴァツキー率いる神智学協会だった……実際、今の江玲奈を見ていると、彼女がヒトラーの目指した神人であると言っても差し支えがないくらい、彼女は神秘的な力を持っているようだ。


 しかし、そうなると、漠然とした不安が残る。江玲奈という人物は、本当に信じて良いものだろうか?


 彼女はヒトラーよりもずっと力の強い予言者で、その彼女は世界の終焉を予言している。唯一回避できそうな可能性がある世界が、このヒトラーが復活した(かも知れない)世界であると言って、上坂に近づいてきた。その世界で上坂の大切な先生が死んでしまう。


 何だか出来すぎて居ないだろうか。何がと言われるとなんて答えていいのか分からないのであるが……


 風呂から上がり、タオルでガシガシと頭を拭く。こういう時、坊主だと楽でいい。下着を履き、持ってきた服に着替える。そして脱いだ服を持って部屋に戻ろうとした時、その脱いだ服のポケットからスマホがポロッと落ちた。


 シャーッと音を立てて回転しながら床の上を滑っていく。慌てて駆け寄って電源を入れ、どこも壊れていないのを確かめてホッとしていると、縦川はふと御手洗に話してみようかと思いついた。


 こんなもの、一人で考えていてもしょうがないのだ。幸い、自分の周りには上坂や御手洗みたいな頭のいい人達がいるんだから、困ったときは彼らを頼ればいいじゃないか。


 しかし、江玲奈は御手洗のホープ党にとって、無くてはならない存在のはずだった。そもそも、御手洗の上司が彼女の祖母なのだから、やっぱりこんな話は彼にはしないほうが良いのではなかろうか……


 そんなことを考えていると、リビングの方から楽しげな笑い声が聞こえてきた。


 愛とテレーズは思った以上に意気投合しているようだった。まだ姉が死んで間もなく、気落ちしているだろうに、もうこれだけ笑えるのはテレーズ様様だなと、その存在に感謝する。


 大公は、例の話を話すも話さないも自由にしろと言っていた。きっと縦川が話さなくても、放っておけばテレーズが御手洗に話してしまうだろう。


 だったら、別にいいんじゃないか。そう思って、彼は御手洗に電話をしてみる気になった。


「なるほど、江玲奈さんですか……確かにあやしいですけど……」


 電話に出た御手洗は、縦川たちが欧州で拘束されたことを既に知っていたらしく、電話に出るなり心配していた旨を伝えてきた。縦川は彼が気にしているだろうから、その時の出来事を交えつつ、テレーズに連れられてローゼンブルクに来て、大公と話したことを伝えた。


 御手洗も、昨日の縦川たち同様に、その話に驚いていたようであるが……すべてを話し終えたあと、さっき感じた縦川の疑問を口にすると、彼は少し困惑気味に唸り声を上げながら、それは杞憂ではないかと返してきた。


「例えば、江玲奈さんが私達を罠に嵌めようとしているなら、まず上坂くんや立花先生の前に姿をあらわす必要がありませんよね」

「あ、そうか」


 縦川は思わずずっこけそうになってしまった。まさかそんな単純なことも思いつかずに江玲奈のことを疑っていたとは、彼は自分の馬鹿さかげんに呆れ果て、顔が熱くなってしまった。どうもやっぱり、一度に色んなことが起きすぎて、まだうまく頭が回ってないようだ。


「それに、言われて思い出しましたが、江玲奈さんは帰国しようとしていた立花先生を引き留めようとしていたんですよ。いや、違うな……帰国を取りやめろというよりは、美夜ちゃんを置いていった方が良いと……確か、そんな風に言ってたはずです」

「そうなんですか??」

「ただ、上坂くんに突っ込まれて彼女自身が言っていたように、個人的な未来は予知しにくいようで、そうした方が良いとは思っても明確な理由を答えられなかったんです。それで立花先生は、気をつけるとだけ言って、飛行機に乗ってしまったんですが……今にして思えば、これはドンピシャだったんですね」


 御手洗は感心したように溜め息を吐いた。縦川は何ともいえない苦虫を噛み潰したような表情をしていた。


 あの時、助言に従って美夜を置いていけば、彼女は死ぬことは無かっただろうし、美夜も創造主を殺さなくて済んだのだ。いや、あの時、倖を殺したのは美夜ではなく、中身が入れ替わったヒトラーだったのだから、厳密には彼女が犯人とは言えないのだろうが……


「先生を殺したのは、美夜ちゃんの体を乗っ取ったヒトラーだったんでしょうか。それとも3年前から欧州に潜伏していたという、もう一人の美夜ちゃんだったんでしょうか」

「わかりませんけど……ところで縦川さん。言われてみて気づいたんですけど、3年前からいたというその欧州の美夜ちゃんは、本当に中身はヒトラーだったんでしょうか……?」

「え……? どういう意味ですか?」

「文字通りの意味ですよ。美夜ちゃんの身体は我々人間とは違って乗っ取ることが可能だ。今あなたが言ったように、もしも美夜ちゃんの身体を乗っ取ったのだとしたら、もう一人いた欧州の美夜ちゃんには誰が入ってるんだって話です」


 御手洗は考えながら話しているかのように、少し間をおいてから続けた。


「聖杯というマジックアイテムは、何でも、いくらでも、その中に入れておくことが出来るんですよね? なら、ヒトラーの記憶だけじゃなく、他の人の記憶も入っててもおかしくないんじゃないでしょうか。例えば、それをアメリカに持ち込んだ、マルティン・ボルマンや、ヴィリグート、彼の率いたニーベルンゲンのメンバー……彼らは、そんなものがあるんだと知っていたら、ヒトラーと同じように自分の記憶も残そうとしたんじゃないでしょうかね。だから立花先生の研究成果を欲しがった」

「なるほど……そう考えると辻褄があいますね。他の連中はどうしたんだろうか」

「あとは、ヒトラーと最後まで連れ添ったというエヴァ・ブラウン……彼女は総統と結婚式を挙げたあと、暫く二人で部屋にこもってから自殺した。ヒトラーはこの時、聖杯に自分の記憶を移し替えたとするなら、エヴァもそうしてなければおかしいでしょう」

「確かに、そうしない理由はないですね。追い詰められていた二人は、来世で幸せになろうとでも言って、聖杯に自分たちの記憶を残す儀式をした。そして本当に現世に蘇ったのだとしたら、ロマンチックかも知れませんが……そのために立花先生が殺されたのだとしたら、溜まったもんじゃありませんね」

「彼らがどうなったにせよ。この件はもう、我々の手には負えませんね。あとは大公陛下とその結社にお任せするしかないでしょう。取り敢えず、縦川さんたちが帰国したら、一度上坂君を交えて今後のことを話し合いましょうか」

「そう……ですね。美夜ちゃんのことは心配ですが……」


 もしもネオナチに捕らえられて、どこかで怯えていると言うなら助けてあげたいが、体ごと乗っ取られてるのだとしたらお手上げだ。どちらにしろ、こうなるともう縦川のような一般市民には為す術もなく、あとは警察に任せるしか無い。


 もし必要なら、またケルンに戻って、例の刑事に色々と情報提供したほうがいいのだろうか……いや、そうは言っても何を話して良いものか。こんな荒唐無稽な話、信じてもらえるわけがない。そう考えると、本当に縦川にやれることはもう何もないようだった。


 彼はため息混じりに続けた。


「……そう言えば、上坂君はどうしてます?」

「彼なら北海道に向かいましたよ。今は空の上ですけど。下柳さんが引率してくれてますんで、私も安心しています」


 そうだった。一人で向かわせるのは心配だからと、縦川がわざわざ下柳に頼んだのだった。つい一昨日のことなのに、色々ありすぎてもうすっかり忘れていた。流石に疲れてるのかな……と、縦川が肩を竦めていると、


「その北海道なんですけど、どうも江玲奈さんも一緒についていってしまったんですよ」

「え? 江玲奈さんも? どうしてまた……」

「私は理由を聞いてないので何とも。多分、彼女なりに上坂君のことを心配してついていたんだろうと思ってましたが……縦川さんが気になるなら、とっ捕まえて東京に連れ戻しましょうか?」


 御手洗が茶目っ気を込めてそんなことを言う。ついさっき、彼女のことを疑うようなことを言ってしまった縦川はバツが悪い思いをしながら、


「勘弁して下さいよお……彼女には内緒にしといてくださいよ?」


 と言いつつ、あとで下柳に電話しておこうと思っていた。多分、平気だとは思うのだが……これだけ立て続けにおかしなことが起きてしまうと、疑いすぎるくらいで丁度いいくらいだろう。


 暗躍するネオナチの影。行方不明の美夜。上坂の北海道行き……気になることは山程あったが、しかし縦川にやれることは何もなかった。暗澹たる気持ちを抱えたまま、そして欧州の夜は更けていく。彼らはまだ気づいていなかったが、この時にはもう、世界は着実におかしな方へと転がり始めていた。


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