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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第四章・永遠の今
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プリンキピアとグリモワール

 19世紀末から20世紀初頭。アインシュタインが相対性理論を発表し、量子論が始まろうとさえしているこの時期に、何故人々は魔術だの秘密結社だのに夢中になっていたのだろうか。それは元々、科学も魔術も同じものだったからだ。


 科学とは元々哲学のことで、この世は何で出来ているのか、神とは何者なのかを真剣に論じるものだった。ところが一神教世界において全ては神が作り出したものであるから、聖書に書かれていないことが真実であると言われてしまうと都合が悪い。


 それで科学に対応するために唯一、スコラ学派を認めていたわけだが、これは大体アリストテレスの哲学を根拠にしたものだったから、千年以上も経ってルネッサンスが興ると粗が目立つようになってきた。


 だから更新しなければならないわけだが、宗教の教義は神の言葉だからそう簡単には変えられない。変えられないから現実のほうが変わってしまえと、やってしまったのが、あのガリレオ裁判である。


 大航海時代も遠い昔の話で、マゼランが世界一周を成し遂げていた時代である。恐らく、裁いている本人たちも、本当は地球は回ってるんじゃないか? と思っていたのではなかろうか。ましてや相手はあのガリレオ・ガリレイだ。


 大体、地動説はガリレオが初めて言い出したわけではなく、100年も前にコペルニクスが言い出したことである。なんで彼は良くてガリレオは駄目なのか。それは北欧でプロテスタント運動が盛んになってきたという時代背景があったからだろう。


 当時、人々はカトリック教会へ懐疑的な目を向けていた。そんなとき、コペルニクスはせいぜい詩的に表現しただけなのに対し、ガリレオの方は真顔で教会のほうが間違ってると言ってしまったわけである。これを放置してしまうと、プロテスタントなる異端者たちがますます増長してしまう。教会は何が何でもガリレオをやっつけなければならなかった。


 結局、ガリレオは地球が回っている確実な証拠を示すことが出来なかったために、自分が間違ってるとは思っていないのに、間違いでしたと公に認めさせられる羽目になった。そうしなければ、異端者……即ち悪魔崇拝者とされてしまうからだ。


 もしもこの時ガリレオが異端者になっていたらどうなっていただろうか。彼は処刑され、彼の残した著作は焚書されていたはずだろう。すると振り子の等時性も、重力加速度の二乗則も、慣性の法則も、科学ではなく魔術になっていたわけである。魔術とはつまり悪魔の使う技なわけだから。


 結局、ガリレオの正しさを証明したのはニュートンであったが、彼の書いたプリンキピアはカントが絶賛するほど完璧な弁証法で書かれていたのだが、にもかかわらず、全三巻の最後の一巻を、まるまる神の存在についてにあてている。つまり、二巻書いた時点でまだオカルト扱いされていたから、彼は弁解しなければならなかったわけである。


 これじゃイエスを処刑したユダヤ人たちとどこが違うと言うのか。なんとも理不尽な話であるが、そうならないためにも当時の科学者たちは細心の注意を払って科学を説明していたのだ。


 ところで、そう考えると、中世に魔法として闇に葬り去られた技術は、実際にはかなりあったのではなかろうか。


 13世紀頃までのヨーロッパはイスラム世界よりもずっと遅れており、学問の中心はイベリア半島のコルドバにあった。故に世界最先端の技術を学ぼうとすると、そこにいかなければならないわけだが、しかしイスラムの技術はキリスト教にとってはそのまま異端である。


 すると、そこで学んだキリスト教の学者が、アラビア語で書かれた書物をラテン語に翻訳して持ち帰れば、いわゆる魔術書(グリモワール)の一丁上がりである。だが、これを持ち帰った人は悪魔崇拝をしたかったわけじゃないのは自明だろう。よかれと思って持ち帰ったわけだが、それが教会によって異端とされたらびっくりして隠すしかない。いつか役に立つ日が来ることを夢見て。


 そういったものがフランス革命の頃、巷に溢れ出してきたようだ。


 ルネッサンスを経て啓蒙時代、カトリック教会の権威は陰りを見せ始めていた。思えばキリスト教が成立してから千年以上が経過し、ユダヤ教がそうであったように、キリスト教もまた硬直化していたのだろう。そしてかつてのイエスがそうしたように、プロテスタントもまた教義に抗議する活動から生まれた。


 いわゆるプロテスタントの祖と呼ばれるマルティン・ルターが何をしたのかと言えば、彼は単に聖書を誰にでも読みやすくしただけだった。実はそれまでのキリスト教徒は、殆どの者が聖書を読んだことがなかったのだ。


 大昔の紙は貴重で、ましてやそれが聖書なら、一財産築けそうなくらい高価なものだった。だから、聖職者の偉い人くらいしか読める機会が無く、仮にお目にかかれたところで一般市民は識字率が低かったし、聖書は失われたラテン語やヘブライ語で書かれていたから、よほどの教養が無ければどうせ読めやしなかった。だから一般のキリスト教徒にとって信仰とは、教会で神父さんが言ってることを盲目的に信じることだったのだ。


 ところが聖書マニアのルターは自分が聖書を読めるようになると、ねっとりとした視線でものすごく研究をした。そりゃもう聖書に書かれていることを、隅から隅まで穴が空くほど暗記して、ものすごく研究した。するとそこに書かれていることと、今までカトリック教会がやってきたことには矛盾が多いと気づいてしまった。特に教会が都合よく異端者を作り出し、免罪符を売って金儲けしていることには我慢がならなかった。


 それでルターは教会は間違っていると抗議を始めた。だが一介の神父がそんなことを言っても、権力者に強引にねじ伏せられてしまう。彼は教会のお偉いさん方に目をつけられると、異端者扱いされて逃亡を余儀なくされる。


 しかし彼はそれでもめげずに、彼の正当性を信じる支援者たちと行動をともにすると、自ら聖書をドイツ語に翻訳し、誰でも簡単に読めるように注釈をつけて売り出し、教会の間違いを人々に訴えかけたのだった。多くの人々はこの時はじめて聖書というものに何が書かれているかを知り、カトリック教会がこれまでに行ってきた不正を知る。そして激怒した人々はルターに協調し、これが後のプロテスタントとなったのだった。


 実はルターのように教会に抗議した者にはヤン・フスがいるのだが、こちらは火刑に処されている。彼らの命運を分けたのはグーテンベルクの活版印刷で、この発明で安価に聖書を作ることが出来るようになったお陰で、ルターは多くの賛同者を得ることが出来たのだ。そう考えると教会は、魔術(・・)に破れたのかも知れない。


 ともあれ、この時起こったプロテスタントの反乱はやがて30年戦争を引き起こし、プロテスタントを公に認めるヴェストファーレン条約の成立をもって終結する。これによりカトリック教会の権威は著しく削がれることになり、後のフランス革命で聖職者に対する虐殺が起きて、カトリックは差別する側からされる側に変わっていった。


 ところで、カトリック教会にとっては残念なことであったが、ある意味こうして教会の権威が失墜してくれたお陰で、それまで息苦しく研究するしかなかった科学が発展しだすのだった。哲学者たちは大っぴらに神を論じることが出来るようになり、科学者たちも自由に実験結果を発表出来るようになって、今まで隠されていた様々な書物も陽の目を浴びるようになった。


 イルミナティの創始者であるアダム・ヴァイスハウプトは、正にフランス革命の起きる直前のこの時代に、バイエルン王国のインゴルシュタット大学を主席で卒業した。その学業成績は卒業生の中では目を瞠るほどで、彼はまだ20代という異例の若さで教授職に出世する。


 しかし、大学は彼に相当期待していただろうが、あろうことか彼はカトリック系のイエズス会の大学に居ながら、そのイエズス会を批判する目的の秘密結社を結成してしまうのだった。


 とは言っても大学のサークル活動みたいなものだから、大学は当初それほど問題視していなかったようだ。ところが、彼は大学が認めるほどの秀才で、恐らく弁舌などに相当優れていたためか、その秘密結社は最盛期では2000人を越えるほどの巨大組織にまで成長してしまう。ここまでくるともはや一種の新興宗教だ。


 そんなのが大っぴらにイエズス会とカトリック教会を大批判していたわけだから、バイエルンというカトリック国の中にあって相当目立ったことだろう。結局彼らの活動は、バチカンの知るところとなり、2度の解散命令の後、異端審問を受けてイルミナティは解散する。


 彼らが何故異端視されたのかと言えば、もちろん教会批判もあったが、どうもイルミナティの活動とはグノーシス主義を標榜していたからのようである。


 原始キリスト教の頃に興ったグノーシス主義は、先に触れた通り新約聖書を纏めるにあたって異端とされた失われた教義であった。悪魔崇拝とされていたそれを、どうも彼らはどこかしらか手に入れて実践していたようである。千年以上も昔の話だから、流石に口伝じゃ厳しいだろうから、多分、イスラム経由でグリモワールとして伝わっていたのではないかと思う。


 悪魔崇拝とは具体的にどんなことをしていたのかと言えば、例えば文字通りルシファー崇拝なんてものがあった。


 唯一神は、まず自分にそっくりな天使を作るわけだが、これが気に入らず、続けてより不完全な人間を作り出し、天使たちに彼らの守護を命じた。ところが、天使長だったルシファーは、どうして神は天使よりも劣った人間のことばかり愛するのかと嫉妬し、堕天してしまう。そして地獄の長になってしまうわけだが……


 冷静に考えてみるとルシファーの疑問は尤もだろう。


 これを要約すると、唯一神は自分と同等の力を持つ天使を遠ざけて、自分より劣った人間ばかりを可愛がっていたわけで、まるで女子が自分よりちょっとブスな友達ばかり周りに侍らすようなものではないか。なんで神様がそんなせせこましいことをするんだろうか。


 思えば創世記でも、神は人間が知恵をつけたら楽園から追放している。それまでの人間は素っ裸でも恥ずかしいとは思わず、言われたことをハイハイと聞いてるだけの、ただの人形のようだった。もし自分がアダムなら、そんな生活のほうが本当に良かっただろうか。これじゃあ、知恵の実を食べさせた蛇のほうがよっぽど良いやつではないか。


 その後、ユダヤ人たちはエジプトで迫害されたり、バビロン捕囚の憂き目に遭ったり散々ではないか。もしかすると、神とはこの蛇の方だったんじゃないのか? ユダヤ人は元々騙されて、偽りの神を崇拝していたのだ……じゃなきゃあんなに迫害されるのはおかしい。悪魔崇拝というものは大体こんなことを考えていたようである。(注1)


 信仰心がないものからすると、実に説得力がある説だろう。他にも、教会の権威が衰えて人々の信仰が薄れてくると、キリスト教そのものに懐疑的な目を向けるような者が増えてきた。


 例えば……人間は神が自分に似せて作ったのだから、努力すれば神に近づけるはずだ。そのための修行を禁じた初期のキリスト教は、元々おかしかったのだ。考えても見れば異端を決めた初期のキリスト教司祭たちは、旧約聖書だけを拠り所とし、明らかにユダヤ教的価値観に囚われていたはずだ。キリストは解放者だったのに、これじゃあべこべじゃないか。


 現に我々人間は、いま神に近づきつつある。電気やガスや鉄鋼やらを生み出し、巨大建造物もやすやすと作れるようになり、物理学は究極に達しつつあって、大科学者のラプラスに言わせれば、間もなく未来はすべて予測可能になるらしい。それは即ち神ではないか。


 やっぱりグノーシス主義の方が正しかったのだ。


 ヘレナ・ブラヴァツキー率いる神智学協会は、大体そんな感じで、人間は神になれるという触れ込みで人々の関心を惹いて組織を拡大していった。彼女の書いたシークレット・ドクトリンは難解でほとんど誰も理解できなかったようだが、彼女の影響を受け、後に神智学協会と袂を分かった人智学協会のルドルフ・シュタイナーの著書によると、彼はグノーシス主義を霊学と呼んで、神即自然、自然即神という汎神論の観点で、仏教でいう主客一致論のような方法で神に近付こうとしていたらしい。


 主客一致論とはものすごく大雑把に言えば、人間というのは自分のことを深く考えれば考えるほど客観に近づいていく……その究極が即ち神の視点であるという考え方である。このような方法をユングは取り入れて、あの集合的無意識を思いついたようである。


 ともあれ、人間が神になれるという主張は人々の受けがよく、主に非カトリックの国で、神智学は密かなブームが起きていた。あのトーマス・エジソンやニコラ・テスラまでもが入会していたのは、知る人も多いだろう。


 そのうち彼らは、元となった教義であるヒンズー教や仏教のあるインドとヨーロッパの言葉が似通っていて、一つのインド・ヨーロッパ語族を形成していることに着目し、実は元々自分たちヨーロッパ人は、神になるために生まれた選ばれた種族なのだという、アーリアン学説を唱え始めた。


 自分たちが特別だという考えは、当時の傲慢な人々の関心を惹きつけ、アーリアン学説はかなり多くの人達に支持された。そんな中、アーリア人の中でも金髪碧眼のゲルマン人が最も神に近い人種であるという主張を唱える、ゲルマン騎士団なる秘密結社が現れ、彼らは民族主義的なイデオロギーから、ユダヤ人を執拗に攻撃し始めた。


 その秘密結社から分かれ、より政治的な方法で国粋主義、反ユダヤ主義を完遂しようとして現れたのが、トゥーレ協会であり、鉤十字(ハーケンクロイツ)をシンボルとしたその協会と、若き日のアドルフ・ヒトラーが接近する。


 そしてこれが、後のナチ党の拡大へと繋がっていくことになるのだった。


注1)ヒラクリティーのところでも解説したが、聖書には比喩や暗喩が含まれていると考えられるわけである。知恵をつけて楽園を追放された人間であるが、これも見ようによっては別に神が見放したわけではなく、子供が知恵をつけ、自我が芽生えたんだから、親元を離れて独立しなさいと言われているように見えるわけである。実際、唯一神は蛇のことは未来永劫許さないと怒りを露わにしているのに対し、人間のことは最初から許している。人間は楽園から出て度々失敗するわけだが、そのつどなんやかんや神は助けてくれてもいる。これは実家の親が、子供を援助しているようなものと同じではないか。そう考えると、唯一神は案外親しみやすいお父さんみたいな感じに思えるから、イエス・キリストは神様のことをアッバー(パパ)と親しみを込めて呼んでいたそうである。因みにそれがまたユダヤ人の怒りを買った。


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