ローゼンブルクへようこそ
縦川たちの事情聴取は、もはや犯罪の取り調べみたいに執拗なものになっていた。刑事はこの事件の裏に潜むネオナチの動向を探るために、後には退けないといった感じであった。
事情が事情だけに、縦川だって協力してやりたいところだったが、本来なら案内役を買って出てくれたはずの白木会長までもが捕まっているかも知れない状況では、簡単に情報を渡していいのか分からず、せめて御手洗くらいには相談したいと思っても、外部との連絡を嫌う刑事の妨害で万事窮した。
こんな強引な捜査は気に食わないが、犯人であるかも知れない美夜のことも気になるし、観念してすべてを話すべきか。しかし、仲間を売るような真似もできず、彼が諦めて黙秘を続ける決意をしたとき、突然現れた救いの神は、あまりにも意外な人物だった。
「テレーズ様? ど、どうしてここに? あなた、日本に居たんじゃないんですか?」
困惑している縦川を他所に、テレーズは不機嫌そうな刑事と二三言葉を交わし、忌々しそうに背後を振り返りながら部屋を出ていく彼を見送ってから、小走りに近づいてきて言った。
「その話は車の中でいたしましょう。早くドイツから出ないと、またいつ拘束されるかわかりませんから」
「え? でもドイツから出るっていってもどこに?」
「ローゼンブルクにお連れします」
彼女はそう言うと、なおも戸惑っている縦川の手を引っ張って促した。彼は入り口で同じく困惑気味に固まっている愛と目配せし合うと、とりあえずは警察に捕まっているよりは、知り合いと一緒に外に出たほうが賢明であると、テレーズの後に着いていくことに決めた。
テレーズと共に廊下に出て、少し早歩きに警察署の外へ向かっていると、二人に少し遅れて後をついてきた愛が、探るような小声で縦川に尋ねてきた。
「ちょっとちょっと、この人は何なの? あなたたちは知り合いなのね?」
「はい。テレーズ様は色々あって知り合った、ローゼンブルクのお姫様ですよ」
「お姫様!?」
「上坂君と御手洗さんの共通の知り合いです。怪しい人じゃないから、今はついていきましょう」
曲がりくねった廊下を足早に通り抜け、連れてこられた時最初に通された待合室で荷物を受け取ってから、玄関には向かわず傍にあった裏口のドアを潜ると、警察署の中庭に面したスペースにそこそこの広さの駐車場があった。
ドアを出るなりテレーズがキーを取り出すと、青と銀のボディカラーのパトカーの中に紛れこんでいた一台の車がピッと音を立てて、ガルウィングがスーッと開くのが見えた。
警察署には似つかわしくないその車に縦川は目を瞠った。エンブレムを見なくてもすぐにわかる。ポルシェ911だ。一見すると高級車に見えないコンパクトな流線型のボディに、正面から見るとまるでカエルの顔みたいなかわいい見た目、それでいてドイツ車らしい優等生的なドライビングを可能にしたスポーツカーである。
流石、お姫様だけあっていい車に乗っているなあ……と感心すると同時に、彼はどうして病み上がりのテレーズがこんな車を転がしてるのか疑問に思った。免許は? リハビリは? だがテレーズはそんな縦川の戸惑いには気づく素振りもなく、
「さあ、早く乗り込んでください。刑事さんが中央に連絡を入れて、状況が変わりでもしたら困りますんで」
「俺たち、なんかまずいことしてるんですか?」
「いいえ。ただ、今は外交筋を駆使して、無理矢理お二人の身柄を引き受けているだけですから、あちらが本気になって法を盾に出てこられますと、手が出せなくなってしまうんですよ」
「なんか知らないけど、とにかく急いだほうがいいのね? それじゃ、私が後ろに乗るから、縦川くんは助手席に座って」
話を聞いていた愛がここで押し問答していても仕方ないと言った具合に、さっさと車に乗り込もうとした。しかし、助手席を倒して後部座席に乗ろうとすると悲鳴を上げた。
「なにこれ……せまっ!? 狭すぎる。これじゃ荷物も置けないんじゃないの?」
「早く乗ってくださいよ」
縦川に急かされた愛が渋々体を折りたたむようにして後部座席に転がり込む。そこに更に押し込むようにして、二人分のトランクを詰め込まれたら、後部座席はギュウギュウで身動き一つ取れなくなった。愛は膝の上に乗っかったトランクの腹をバンバン叩きながら文句を垂れる。
「ちょっ……ちょっとまって? この体勢、かなり苦しいんですけど」
「国境まですぐですよ。暫く我慢してください」
愛の抗議の声も虚しく、助手席を戻されると、すぐに車は発進した。警察署を抜けて一般道に出ると、忙しなくシフトチェンジしながら、一般車の間を縫うように走り抜けていく。
上坂の話によれば、テレーズは眠り病患者で、5年間も寝たきり状態だったはずだ。なのに、どうしてこんなに見事な腕前を披露出来るんだろうか? しかも彼女が操作しているのはMT車である。進路変更をするたびに左右に揺れる体を腕で固定しながら、そのギア捌きを感心しながら眺めていたら、
「ぎゃあー! 揺れる、揺れる! ちょっ! ちょっとまって!? これ、おかしい、おかしいでしょう? 一般道で出していいスピードじゃないわよっ!」
後部座席が騒ぎ出した。テレーズはそんな愛の方を振り返りながら、
「大丈夫です、もう間もなくアウトバーンですから。ほら、加速レーンが見えてきたでしょう?」
「ぎゃあああ!! 前! 前見て頂戴!!」
「はいはい」
テレーズは苦笑しながら前方へ視線を戻す。彼女の言う通り、車はあっという間に市街地を抜けて、アウトバーンに入っていた。
世界最古の高速道路ネットワークであるアウトバーンはダイムラーやベンツと共に、ドイツ自動車産業の誇りであり、かのアドルフ・ヒトラーは政権を握ると、その製作者たちをわざわざ呼んでまで表彰したらしい。
かつては制限速度の無い高速道路として有名だったが、それは前世紀の話であり、現在ではかなり厳しい速度規制があるそうだ。今の車の技術でそれを許したら、凄惨な事故が多発するのが間違いないからだろう。
だが、どうやらお姫様はその前世紀に生きているらしい。アウトバーンに入った車は更に加速して、一般道と変わらず他の車両をスイスイと追い越していく。速度メーターを見る気にはなれなかったが150キロは言うに及ばず、下手したら200キロ出ているのではないか……
後部座席の愛は堪らず叫んだ。
「スピード出しすぎ! 出し過ぎだってば!!」
「大丈夫ですよ。こんな真っ直ぐな道で事故なんておこしませんよ」
「あんた馬鹿でしょう!? 馬鹿なのね!? 北海道ではね、こんな何もない直線道路が一番危ないって言うのよ! だからスピード落としなさいってば!」
「国境を越えたら落としますから、もう少し我慢してくださいって」
「それまで何時間かかるのよ! 私の身がもたないわよ!!
「そんなに距離はありませんよ。日本に住んでると国境って概念がいまいち掴めないかも知れませんが、県境と同じようなものです。我が国への国境は、ケルンからなら100キロ程度、一般車でも頑張れば1時間で越えられますよ。私はそれを30分に縮められますけどね。えっへん!」
「気軽に世界を縮めないでよ!」
一国の姫を躊躇なく馬鹿呼ばわりする姿はなかなかすごいものがあったが……縦川はテレーズに向かって、苦笑いしながら言った。
「ところで、テレーズ様。さっきも聞きましたけど、どうしてドイツに? 俺はてっきり、日本でまだ入院しているんだと思ってましたが」
するとテレーズはハンドルを握る手を休めずに、
「はい。思ったよりも予後が良くて、そちらのお寺に遊びに行けるくらい回復してましたから……祖父から一度ローゼンブルクに帰ってくるように言われていたんです。リハビリだけなら母国でも出来ますし、私が目覚めたという知らせはニュースにもなっていて、国民が心配していると言うので。ご存知ありませんでしたか?」
「すみません、色々あったからテレビもあまり見てなくて、気づかなかったようですね」
もしくはテレ東が独特だからか……妙な納得の仕方をしてから彼は続けて尋ねた。
「でも驚きました。テレーズ様、5年間も眠りっぱなしだったのに、いつ免許なんて取ったんですか?」
「元々、日本に行く前から免許は持っていたんですよ。眠り病の間も、あちらの世界では普通に乗ってましたしね。それで免許更新するために国に帰ってきたのもあります。日本で新たに免許を取ろうとすると、色々面倒くさいんですよ」
「そりゃ、そんなファンタジーを聞かされたら警察も免許あげたくないでしょうからね……」
「落ち着いたら、また日本に戻るつもりでいます。今度は大使館員として。でも本当に良かった。偶然とは言え、私がこちらに帰っていたから、お二人のことに気づけたんですよ」
「ああ、そうだった。さきほどは助かりました。どうして俺たちが捕まってるってわかったですか?」
「元々、明日には会う予定っだったんですよ。それが突然、AYF会長が警察に事情聴取されていると情報が入りましてビックリ」
テレーズが言うには、縦川たちが欧州に来ていることは御手洗からとっくに聞かされていたらしい。それなら是非会う機会作ろうと、白木会長と連絡を取り合っていたそうである。ところが、縦川たちがこっちに来て困っていたのと同じように、彼女も突然白木会長と連絡が取れなくなった。
「予定では本日、お二人をケルン市内のホテルにご案内して、明日お姉さまの家を見に行き、そこで私も合流するつもりでした。実は、お姉さまの御遺体は、すでにローゼンブルクに運んでおりまして」
「ローゼンブルクに? どうしてまた」
「はい。立花先生は死の直前、ローゼンブルク国籍を取得していました。それで、ドイツ警察の死体安置所で身元不明遺体として扱われるよりは、我が国の邦人としてお預かりしたほうが良いだろうと、取り計らわせていただきました。現在は、迎賓館の方に安置されておりますから、ご安心ください」
「まあ! 迎賓館に? そんな格別の御厚情ありがとうございます」
これにはさっきまで後部座席で悪態をついていた愛も感動したらしく、すぐに感謝の意を示した。スピードにもだいぶ慣れたようで、もう文句は言っていない。テレーズはそんな愛ににこやかな笑みを見せながら、
「いいえ、とんでもございません。元々、立花先生にはお祖父様も大変興味を持たれておりまして、我が国に招致していたところだったのです。本当ならケルンに帰られて数日後には、会う予定になっていたのですが……こんなことになってしまって」
「わかったから、前を見て運転して、お願い」
愛は顔面を引きつらせつつそう言いながら、思い出したように、
「そうだった……ねえ、縦川君。いろいろあって有耶無耶になっちゃってたけど、あなたもあの犯行現場の映像を見たのよね?」
「あ、はい。そうでした」
「あなた、あれを見て何か気づいたことは? 刑事さんがあれだけしつこかったところを見ると、あなた、何か知ってるんでしょう」
縦川は後部座席の愛にも見えるように頷いた。
「先生を殺害した犯人は、美夜ちゃんでした……姿形は間違いなく、美夜ちゃんそのもの……でも、その様子が、どうにもおかしいんです」
「美夜ね……刑事さんにも言われたけど、そもそも、その美夜ってのは何なの?」
縦川が渋面を作って何から話そうか迷っていると、愛が尋ねてきた。言われてから思い出したが、立花倖は5年間、家族から姿を隠していたのだ。上坂が受けたひどい拷問のことも遠まわしにしか伝えていないし、その間に作られた美夜のことを愛は何も知らないのだ。
縦川は大雑把に、美夜とは上坂が作り出したAIを元に、倖が作った人造人間のことだと説明すると、
「姉さん、そんなことしていたの……? っていうか、こういうことって勝手にやっちゃっていいのかしら。バレたらどうするつもりだったのよ」
「多分、それで白木会長が捕まってるんだと思います」
他にも理由はありそうであるが……特に、あの事件以前に撮影されたという、ナチス親衛隊の制服を着た美夜である。あれは一体、どこから出てきたのか。少なくとも、倖が作ったとは思えない。愛が続けて尋ねた。
「それじゃあ、姉さんは自分が作ったAIの暴走で殺されたっていうの? まるで犬死じゃないの。なにやってんのよ、あの人」
「いや、それはないと思うんですよ」
愛の嘆きに間髪をいれず、縦川が弁解するように続けた。
「美夜ちゃんは上坂君を見つけるまで、3年近くをエイミーさんの家で暮らしているんです。そんな暴走をするようなら、先に彼女のほうが殺られてなきゃおかしい」
「恵海と……?」
「それに、俺は彼女とも数週間一緒に暮らしていたんですが、とてもそんなことをするような子には思えないんですよ」
「でも、ロボットなんでしょう?」
縦川は、愛のその言葉に、自分のことじゃないのに何故だか傷ついた。人に作られた存在と言えば、確かにそうだ。だが、あの美夜がすべて計算ずくで生きていたとは到底思えない。
「確かに元AIだとしても、あの時彼女は人間だった。怒って、悩んで、そして生きようとしていた。彼女のあの悩みまでもが、コンピュータが計算して見せていただけの、ただの幻想だとしたら、俺はもう何を信じて生きて良いのかわかりませんよ。それくらい、彼女は完璧な人間だった」
「そ、そう……姉さんもまたとんでもないものを作ってしまったものね。でも縦川君。あなたが肩入れする気持ちはわかるけど、その彼女が犯人じゃないというのなら、あの映像は何なの? まさか、警察が証拠を捏造しているとまで言わないでしょうね?」
「そうなんですよね……」
縦川は腕組みし、うーんと低い唸り声を上げながら、考え込むように続けた。
「あの刑事さんにも言われたんですよ。彼女は人間なのか? って……その通り、美夜ちゃんは本当に人間らしいけど、人間じゃないことがネックなんです」
「どういうこと?」
「作られた存在って、言い換えれば、同じ方法でまた作れるってことじゃないですか。そして実際、美夜ちゃんはどうも二人いたらしい……刑事さんが見せてくれた写真に、もう一人の美夜ちゃんが写っていたんです。そいつは美夜ちゃんが日本にいる間、ここドイツでネオナチとして活動していた……」
「ネオナチ……? そうだったわ。あの映像の最後、犯人たちはナチスの敬礼なんかして、美夜って子を囲んでたわよね」
「そうなんです。もう一人の美夜ちゃんはネオナチだ……で、これらを踏まえて考えると……もしも二人の美夜ちゃんがどこかで入れ替わっていたとしたら、先生があんな風に油断して殺されてもおかしくないんじゃないですか……? 美夜ちゃん、あんまり賢い子じゃないから……例えば飛行機の中で、トイレに行った時とかに彼女は捕まり、犯人が入れ替わっていた。先生はそれを知らずに犯人を家の中に連れ込んでしまい……殺された」
「犯行現場の姉さんちは破壊された様子もなく、姉さんが犯人たちを招き入れたようだった。そう考えれば、辻褄があうわね……」
「または、彼女の脳は機械仕掛けだから、何らかの方法で人格だけを入れ替えてしまうってことも出来るかも知れない……生前の先生が言うには、美夜ちゃんはいつもオリジナルとリンクしていた……つまり何らかの通信手段があったはずなんです。どっちにしろ、美夜ちゃんではなくて、美夜ちゃんの顔をした誰かが、先生を殺したのは間違いないでしょう……」
「そうか……」
愛は悔しそうに下唇を噛みながら物思いにふけっていた。多分、姉のことを思い出しているのだろう。彼女は暫く沈思黙考したあと、ふと思いついたかのように言った。
「でも、ネオナチねえ……どうして姉さんがそんなのに狙われなきゃならないのよ? ネオナチってナチスの真似事をしている差別主義者のことでしょう? 特に大きな団体ってわけでもないでしょうし。そんなのに狙われる理由がないわ」
「そう……ですね。確かに変ですよね……先生のことをずっと狙ってたのがネオナチなら、東京インパクトを起こしたのも彼らになる。でも、ネオナチはそれをやること自体が違法で、そんな力がある程まとまった団体じゃないはずだ。ちょっと考えられないですね……」
「大体、姉さんを狙ってたのはネオナチじゃなくて、イルミナティじゃなかったの? それがなんなのかはいまいち分からないけども」
「うーん……でも、映像を見る限り、犯行を行ったのはネオナチ……もしくはナチス信奉者であることはほぼ間違いないですよ」
二人がそんな会話をしていると、ハンドルを握っているテレーズが何か言いたげに、二人のほうをチラチラと見ていた。恐ろしい速度を出しながら、そんな注意散漫な真似しないでくれと、真っ青になりながら愛が言った。
「な、なにかしら、テレーズ様。前見て、前!」
「大丈夫ですよ。それより、少々よろしいでしょうか?」
「だから言いたいことがあるんならどうぞお願いだから前見て」
愛がブルブルと震えながらそう言うと、テレーズは少し困り気味な表情を見せてから、おもむろにこう切り出した。
「実はそのイルミナティなんですが……私、以前にどこかで聞いたことがあるなと思いまして」
「ああ、結構有名な団体だそうだから、テレビのオカルト特集とかじゃないですか?」
「いえいえ、そうではなくて。小さい頃に家の中で聞いたような、そんな気がしまして。まあ、ただの思い違いかも知れないと思ったのですが、今回帰国したついでに家人に尋ねてみたんですよ。そしたら知ってるって。うちもそうだって」
「……はあ!?」
縦川と愛は揃いも揃って素っ頓狂な声を上げてしまった。今、このお姫様はなんて言った? うちもそうだって……つまり、どういうことなんだ?
あまりに突拍子も無さすぎて、二人ともその事実を中々脳が処理出来なかった。なんというか、聞こえているのに頭の中に入ってこないような、そんな感じである。
縦川は口をパクパクさせながら、どうにかこうにか絞り出すように言った。
「テレーズ様の家って……ローゼンブルク大公家ですよね??」
「そうですよ……あ、ほら! ちょうど国境が見えてきました」
テレーズはさも当然と言わんばかりにあっけらかんとそう言い放ったあと、実に嬉しそうに前方を指さしながら、朗らかな笑みを振りまきつつ、こう言った。
「ローゼンブルクへようこそ」