私は東大なんですよ
鷹宮の弟、栄二郎に案内されて、縦川は鷹宮家の離れへとやってきた。事故現場となった風呂場に続く洗面所には、下柳の同僚が居て、未だに何かをやっていた。
司法解剖から帰ってきた鷹宮の死体は、母屋ではなく生前の彼の部屋へと戻され、縦川が手配しておいた葬儀屋によって衣服が整えられていた。部屋に入るとつい最近会ったばかりの友人の変わり果てた姿が目に飛び込んできて、死者を見慣れているはずの彼にとっても、これは中々くるものがあった。
遺体は水死体であったせいか少し膨れて、生前の面影がなくなってしまっていた。葬儀屋が死化粧をすれば多少は見れるようになるだろうが、それまで我慢してくれと心の中で呟いてから、縦川はお輪を鳴らして読経を開始した。
忙しく手を動かしていた葬儀屋たちがパッと手を止めて厳粛そうに黙祷する。それを見て、慌てた素振りで下柳と栄二郎も目をつぶった。
読経が終わると厳かな雰囲気になった室内で栄二郎が神妙に礼を述べた。縦川はそれに黙礼で返して、故人の部屋の中をぐるりと見回した。
生前の鷹宮栄一はこの離れの一室で暮らしていたらしい。元々は亡き祖母が建てたものだそうで、戦中生まれの女性の部屋らしく、どこもかしこも作りが小さいようだった。そのためか、彼女が死んでから誰も近づかなかったところ、最近になってユーチューバーになった栄一が使うようになったそうである。
パワハラで引きこもった過去のある彼の身の上を考えれば、こんな狭い場所に押し込められて……と思いもするが、案外、この穴蔵生活を気に入っていたのかも知れない。部屋のすみっこに退けられていたコタツと、煙突みたいなダクトをつけられたパソコンを見てるとそんな気がした。
問題の風呂場は部屋を出てすぐ右手の母屋へ続く廊下の突き当りにあった。水回りが一箇所にまとめられているらしく、洗面所とトイレが併設されていた。その洗面所と彼の部屋の間には小さな冷蔵庫が置かれており、多分、生前の栄一はここでビールでも冷やしていたのだろう。
寝酒か何かのつもりだったのだろうが、彼がこの世から去ってしまった今となっては、悪い習慣だったと言わざるを得ない……普段からそうしてたのかと尋ねてみると、
「はい。兄さんはあの通りの生活でしたから、空きっ腹にビールを流し込むことがあって、今までにも何度か風呂場で寝落ちしかけたことがあったんですよ。一度、夜中に悲鳴が上がったことあって、何事かと思って駆けつけたら、風呂場で溺れかけたと言うものだから、本気で怒ったんですよね。でも全然反省してくれなくて。だからそれ以来、たまに気を配るようにはしてたんですけど……今朝もそうしてれば良かったんですが」
そう言う栄二郎の眉毛がハの字に歪んでいた。縦川は、あなたのせいじゃないと慰めの言葉をかけてから、廊下の反対側に目を向けた。
廊下の反対側には、先程玄関で会った居候の部屋があり、昨晩、夜中にトイレへ行くために起きた彼が栄一の部屋の前を通ったのは必然と思えた。ただし、栄一の部屋はドアに鍵がついており、おそらくあの居候は、栄一の姿までは確認してなかったのではなかろうか。その点を栄二郎に聞いてみると、
「ええ、兄さんはいつもドアに鍵をかけてました。仮に開いていたとしても、ノックしないと凄く怒られるから、俺はいつも気を配ってましたよ」
「ふーん……あの白髪の居候の子は? えっちゃんとの仲は良かったのかい?」
「上坂君ですか? 彼のことはよくわかりませんが……多分彼もそうしてたんじゃないでしょうか」
「あの子はどうしてここで預かってるんだい? どうして母屋じゃなく、こっちで暮らしてるんだい?」
「それはちょっと……」
ついでに上坂のことを尋ねてみたが、そんな素っ気ない返事が帰ってきた。確か外務省絡みでなにかあると言っていたが……栄二郎のこの様子を見ると、本当にただ預かってるだけで、関わり合いを避けてるような感じがした。
まあ、これ以上根掘り葉掘り聞く必要もあるまい。何か問題があれば、先に来て色々と調べていたはずの警察の方が詳しいだろう。
それよりも、縦川はここへ来た本題に入った。
「それで二郎くん、お通夜のことですが、今日はもう遅いし明日やることにして、葬儀告別式は明後日ということでよろしいですか? ここは狭いし、式場も押さえた方がいいと思いますが」
「え? 明日?? 死んだ日のことを通夜って言うんじゃないんですか?」
「いいえ。親族や、生前に親しかった人たちが、夜通しお線香を絶やさずに死者を悼んで見送る儀式のことを通夜って言うんです。ほら、漢字も夜通しって書くでしょう?」
「そうだったんですか……でも困ったなあ」
すると栄二郎は更に困ったような表情をして、
「俺、2日も仕事を休むのは無理だと思います。両親も明日葬儀だと思ってたみたいで、実はもう親戚に連絡しちゃったんですよね……だから、なんとか今日明日で終わりにしてもらえませんか?」
「え? もう連絡しちゃったの?」
電話がかかってきたとき、葬儀のことが右も左もわからないからと言っていたから、縦川が来るまで何もしていないと思ったのだが……どうもさっきから話を聞いてると、縦川を選んだのも、故人と生前親しくしていたからじゃなくって、出来るだけ簡単に葬儀を終えたいという気持ちの現れのような気がしてきた。
兄、栄一と仲が良かった者からすると、その態度は少々ムカッとするものがあったが、しかし、僧侶としてはこういった遺族はそんなに珍しくなく、何度か対応した経験もあった。彼はぐっと自分の気持ちを押し殺して、
「もちろん、今日明日でと言うならそうすることも出来ますが……ただ、失礼を承知で申し上げますが、鷹宮という江戸時代から続く名家としては、それでもよろしいんでしょうか。皆様、家格に見合ったお式を挙げられた方がいいと、私なんかは考えるのですが」
「それなんですけど、電話でも少し話しましたけど、うちは先祖の菩提寺と揉めて縁が切れてまして……祖母はもう寺には関わるなと遺言し、彼女が死んだときには葬式を挙げずに直葬しちゃったくらいで……」
話しによれば、今日も父はそうするつもりだったらしい。それで、兄を不憫に思った弟がこうして喪主を務めているそうである。縦川は開いた口が塞がらなかった。
思えば、僧侶である縦川が来て読経まであげているというのに、両親は未だに姿を見せない。栄二郎も応対は丁寧だが、肉親が死んだばかりだと言うのに、どこか薄情な雰囲気を感じさせる。現代社会だからサザエさん一家みたいにウェットな関係は期待しないが、鷹宮家の必要以上に家族がバラバラな感じは、なんと形容したら良いだろうか。
詳しい話を聞いてみたら、どうもこの死んだ祖母とは大層な御仁だったらしい。
鷹宮の家は江戸時代の旗本の家柄で明治時代の旧華族、東京都内に先祖代々伝わる広大な土地を受け継いでいた富豪だった。栄一を除く一族郎党みんなして外交畑というエリート官僚一家で、国内外のセレブとも広く付き合いがあったらしい。
ところで、土地成金には有りがちな話だが、高度経済成長期に東京の土地が高騰したために、鷹宮家は地上げ屋に散々嫌がらせを受け、家族は相当苦労したそうである。先代は先祖代々の土地を守るために必死になったが、国は守ってくれなかった。ところがその先代が亡くなると、今度は相続税に苦しめられた。
そのせいで結局、多くの土地を手放すことになったのだが、戦中生まれだった祖母にとってそれは耐え難い苦痛だったらしく、以来、彼女は国を恨み、人間不信に陥り、相続した自分の土地を守るために、かなりの業突く張りになっていった。
そして、亡夫が相続税対策を何もしなかったせいで、大事な土地を手放さざるを得なくなったと考えた彼女は、その土地を活用してビルやマンションを経営し、収益をしこたま溜め込む実業家となった。
ここまではともすると良い話であるが、だがその家賃の取り立ては近隣で噂になるほど酷いものだったらしい。
彼女は家賃の支払いが滞ると、一日たりとて許せない性分で、場合によっては仕事場にまで押しかけ、経済的な事情で家賃回収の目処が立たない借り主が出てこようものなら、容赦なく追い出したそうである。
もちろん、それは違法ではないし、家賃を払ってもらわなければ彼女も困るのだから、ある程度は仕方ないだろう。
だが、家賃すら払えないという者は、その時点で切羽詰まっているわけだから、そんな人達に追い打ちをかけるような真似をしていては、恨みだけが募る結果となる。
中には夜逃げ同然で住んでた家から追い出された者もおり、それを見ていた近隣の住人は、昔であればお殿様であるはずの名家とは言え、鷹宮家のことを快く思わなくなった。やがて鷹宮家は近所でも恐れられ、どんどん孤立していった。
それを見ていた菩提寺の住職は、ある日このまま放って置くのは忍びないからと、祖母を嗜めることにした。ところが、これすら自分に対する攻撃だと考えた彼女は、檀家として巨額のお布施をしている自分に対してけしからんと、癇癪を起こし、ついに先祖代々の墓を改葬までしてしまったのである。
そこまでやってしまった祖母は晩年、誰からも相手にされなくなり、親戚からも家族からも敬遠され、一人寂しくこの離れで暮らし、ひっそりと世を去ったそうな。彼女が死んだ後は、残された家族は悲しむよりも寧ろホッとして、あれだけ彼女が守り通した土地も、切り分けられて大部分が売られてしまったそうである。
さて、それで菩提寺とも仲直りすればよかったのだろうが、鷹宮の父もまた、毎年巨額のお布施を要求されていた寺をよく思っておらず、結局そのままにしているらしい。改葬した墓はどこにでもある霊園の一区分で、祖母の納骨が済んでからは、ろくに墓参りもしていないそうである。
「そんなことがあったもんですから、父は兄さんが死んだことが近所に知られるのを嫌がってるんですよ。母も兄さんが引きこもった時、近所の人に嫌味を言われたらしくて、今度は何を言われるかわからないってパニックになっちゃってて……それで、出来るだけ身内だけの密葬って形にしたいんですが」
「そう……ですか」
縦川はこみ上げてくるため息をゴクリと飲み込んだ。
「そういうことでしたら、わかりました。それじゃあ、今日これから仮通夜という形で行いましょう。ここは手狭ですし、明日の葬儀のためにも、棺桶を母屋の方に移した方がよろしいと思うんですが」
「いえ、その……出来れば葬儀もこちらで。実はその……父が嫌がってまして……あの二人、仲が悪かったんですよ……情けない話です」
「そう……ですか」
縦川は全身がわなわなと震えてきて、何か一言言ってやりたい欲求に駆られたが、なんとかそれを押し留めて、彼らの言い分を受け入れることにした。
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通夜を行うつもりで用意をしてこなかったが、取り敢えず車に積んでおいた仏具と、葬儀屋が用意したものでどうにか仮通夜を行った。
生前、鷹宮栄一が使用していた狭い私室には、棺桶と仏具を置いたら喪主の栄二郎と両親が入ったら一杯で、下柳と上坂の二人は廊下に追いやられてしまっていた。明日親戚が集まったら、廊下にも入り切らないから窓を開けて中庭に立って参列するらしい。色々な事情は理解するが、何もこんな狭いところでやらなくてもいいのにと思いつつ、縦川は亡き友人のことを思い、滞りなく儀式を終えた。
読経中、栄二郎から両親の話を聞いていたものだから、もしかして騒ぎでも起こさないかと、実は内心構えていたのだが、拍子抜けするくらい二人は大人しくて、このときはまだどこにでもいる普通の親に見えた。
じっと静かに正座して声を出さず、焼香も普通に行い……いや、それが当然なのであるが……更には、儀式が終わったらさっさと母屋に帰ってしまうだろうと思っていたら、意外にも母親がニコニコと縦川の方へ近づいてきて、
「和尚様、本日はご足労頂きありがとうございました。ささやかですが、あちらの方にお茶を用意しておきましたので、よろしければどうぞ召し上がってください」
と言って彼を母屋へと案内した。
その協力的な態度は、それはそれで不気味だったので、恐々としながら彼女の後をついていく。
どうも案内されるのは縦川だけで、下柳は栄二郎と部屋に残っており、一体自分にだけなんの用事だろうかと怪訝に思っていると、なんてことはない、どうやらお布施のことを聞きたかったらしい。菩提寺と揉めたとはいえ、名家は名家なので、こういう時の作法も心得ていたのだろう。
「お久しぶりですな、縦川くん、あれが仕事をやめた時以来ですから、5年ぶりくらいでしょうか。いや、失礼した。和尚様と呼んだ方がよろしいかな」
「いえ、お好きなように呼んでくださって構いません」
「そうですか、では遠慮なく。あなたがね、子供の頃から知ってるものだから、ちょっと呼びづらかったもので、それにしてもご立派になられて……」
「いえいえ、そんな大したもんじゃございませんが」
「とんでもない。あなたのような学友がいて、あれも幸せだったでしょう。まだ若いのに、あれと違って、世間様に顔向けできるような仕事にね、あれもちゃんとついててくれれば。それが唯一心残りだったに違いないでしょう。あなたも本当に立派になられて」
「え? あ、はい。そうでしょうか」
「ところでその……本日は誠にありがとうございました」
「ええ、はい」
「それで、あれですね。我々も突然だったから、何も用意しておりませんで、縦川くんの好意に甘えるばかりで本当に済まないね」
「いえ、お気になさらず」
「で……その、こういう時は、ほら、どのくらいあれをね、包むものかなと……」
何が言いたいんだこいつはと、会話を右から左に聞き流していた縦川は、思わずあっと小さく声を漏らした。ある意味自分の商売のくせに、すっかりお布施のことを忘れていた。彼はゴホンと咳払いすると、畏まって言った。
「いえ、こういうのはお気持ちだけを包んでいただければ、額はいくらでも構いませんので、お気持ちだけで、どうか」
「そうですか。そうは言いますけどね。そういうわけにもいかんでしょう。それで出来ればその、目安みたいなものがあれば」
「でしたら……本当に目安ですが。実はこんなものを用意しておりまして」
そう言って縦川は手提げに入れておいた、大体のお布施の額を書いたプリントをそっと差し出した。すると鷹宮父はそれを受け取りちらりと一瞥すると、不機嫌そうにポイとそれを脇に追いやり、
「こういうのを用意してくれていると助かります。どうもね、こういったやり取りが苦手で……はっきり言ってくれればいいのにね。あいつら……この相場というのもね、寺によって違うんでしょう?」
「え、ええ……あ、いや、どうでしょうか」
「別にお金のことなんかどうでもいいんですよ」
鷹宮父は強調するように言った。
「どうもね、こちらが金を払ってやってると言うのに、あっちじゃなくてこっちが気を使わなきゃならんのが……どうしてあいつらは高圧的なのか……気に食わなかった。いやいや、縦川くんみたいなお寺さんなら、大歓迎ですよ。こっちも気楽で助かりますよ」
「あ、そうですか。恐縮です……ええーっと、本当にお気持ちだけでよろしいんですよ?」
「栄二郎のやつは喪主を立派に務められたでしょうか?」
「え? あ……ああ? どうでしょうか。明日になってみないと」
「あいつがこの鷹宮家の跡継ぎですから、こういう経験もしたほうがいいと思いまして。縦川くん、明日は一つよろしくおねがいします。栄二郎には期待しているんですよ。我々の言うことをよく聞いて、よく育ってくれた。兄の方はどうしたことか……ユーチューバーなんてわけのわからんものになってしまって」
「えーっと」
「明日、親戚になんて説明すればいいんでしょうかねえ。本当は葬式なんかしないで置こうと思ったくらいなんですよ。でも栄二郎のやつがどうしてもと言うから。あいつは思いやりのある良い子なんです。お兄ちゃんはずっと家に引きこもっていたなんて、世間に顔向けできないでしょう」
縦川はもうお布施なんかどうでもいいから、さっさと帰りたいと思っていたが、どうにも席を立つ切っ掛けがつかめずに、この奇妙な威圧感がする父親の話を、気分が悪くなりながら聞いていた。鷹宮が引きこもったばかりの頃に訪ねてきたときも、この父親はちょっと頭がおかしいと思っていたが……こりゃ相当屈折しているようだと怖気が走る思いがした。
「私は東大なんですよ」
鷹宮父は唐突に話題を変えた。何が言いたいんだろうかと、じっと続きを待っていたが、どうやら相づちを求めてるらしいと気づき、
「すごいですね」
「もちろん現役で合格しました。法学部です」
「そうですか」
「私の血を受け継いだから、あれも東大に現役で合格できたのでしょう……その恩を忘れて、どれだけ苦労して育ててやったのか、分からなかったのか。分かっていたら、あんな商売とも呼べない遊びにうつつを抜かすことはなかっただろうに」
縦川はうんざりしながら、
「えーっと、でも自分の食い扶持は自分で稼いでいたんでしょう? 確か、お父さんより稼いでいたとか」
「お金のことはどうでもいいと言ったことをもう忘れましたかあなたは」
ピシャリと言い切られて、縦川は言葉を飲み込んだ。
確か栄二郎が、生前の兄と父は仲が悪かったと言っていた。
多分、これがその理由の一つなのだろう。この父親は妙に人を圧迫すると思っていたが、それは人間としての器の小ささ故だと理解した。友達の父親を悪く思うのは気がひけると思っていたが、それで少しは気楽になれた気がした。
ただ、いつまでもこんな話を聞いていたら頭がおかしくなってしまいそうだった。だからさっさと帰る口実を見つけなければと思っていると、
「あなた、和尚様が困ってますよ」
鷹宮母が柔和な顔で父を窘める。思わぬ方向から助け舟が入った。この母親は少しはまともなのかなと、ホッとしていると……
「ところでこのお布施はもう少しお安くならないのかしら? お葬儀屋さんにもね、お願いしてみたんだけど、検討してくれたものだから……」
「え? えーっと、ですから、お気持ちだけでよろしいので」
「お気持ちお気持ちって言いますけどね、はっきりしないから」
「おまえ、やめないか!」
鷹宮父が怒鳴りつけると、鷹宮母は茶目っ気たっぷりにぺろりと舌を出した。とても、自分の子供が亡くなった母親には見えなかった。彼女はパタパタとスリッパを蹴立てて立ち去る際に、こんなことを口走った。
「そうだわ、明日銀行から下ろしてこなくっちゃ。死亡届を出したら口座凍結されちゃうから」
縦川はもう深夜と言えど、あり得ないほどクタクタに疲れていた。でも本番は明日なのだと思うと、気分がげっそりしてくるのを感じた。
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ようやっと解放された縦川はフラフラになりながら離れに戻ってきた。鷹宮の両親に小一時間ほど捕まっている間に、葬儀屋も警察も帰ってしまったようだった。
友達なんだから待っててくれれば良いのに……と思いはしたが、お互いに車だから、どうせ帰り一緒にというわけにもいかない。ため息を吐きながら、彼も帰り支度を始めた。
時刻は深夜を回っていた。葬儀は明日の午前中の予定だから、一度帰って出直してくることになる。その挨拶のためと、一応、通夜なので線香を絶やさないようにと栄二郎に念を押すつもりで離れに戻ってきたのだが、部屋に人の姿は見えなかった。
香炉の線香はまだ煙を上げていたが、もうじき燃え尽きそうだった。母屋まで行って栄二郎を呼んでこようかと思ったが、思うだけでやめておいた。
代わりに自分が線香を立てて合掌する。
結局、葬式という儀式は死者のためと言ってはいるが、どちらかといえば生きている人が気持ちの整理をつけるためにあるものなのだ。その生きている者が、死者の死を悼んでないのであれば、儀式の手順など些細なものではないか。どうせもう誰も傷つかないのだ。死者はもう、傷つくことは出来ないのだから。
この家は病んでいる。最後に会った時の鷹宮の顔を思い出そうとするが、もう上手く思い出せなかった。彼はあの日も笑っていたはずだが、どうして笑うことが出来たのか。両親の軽薄な態度と、パンパンに膨らんだ顔が思い出を塗り替えていく。
少しセンチメンタルになったかな……と思いつつ、縦川は身支度を整えると、最後に友人の顔を拝んでから立ち上がろうとして座布団から降りた。
するとちょうどその時だった。
背後から気配がして、振り返ると同時にその人と目があった。白髪に年輪のように深い眉間のシワ。名前は確か、上坂一存と言ったか。縦川は、その年齢に見合わぬ泰然として威圧感のある少年の登場に驚いたが、すぐに気を取り直すと、
「仏さんに何か御用ですか?」
すると彼は香炉を指さしてから、
「線香……絶やさないようにって」
意外なセリフに縦川は目を丸くした。
「君が寝ずの番をしてるのかい?」
「誰もやらないなら仕方ないでしょう……」
彼はそこで一旦区切ると、ため息を吐き、本当は面倒くさいんだと言いたげな、うんざりした口調で言った。
「……こういうのはきっちりやっておかないと気持ちが悪いから」
投げやりにも聞こえたが、今日はじめて血の通った言葉を聞いたような気がして、縦川は救われたような気がした。それがこの奇妙な少年の言葉だったと思うと、なんだか不思議な感じがした。
そういえば、この少年はこの離れで暮らしていたのだ。もしかすると、生前の栄一と仲が良かったのかも知れない。
「君は、えっちゃんと……栄一さんとの関係は良好だったのかい?」
そう思って尋ねてみると、彼は少し考える素振りをしてから、
「どうかな……まあまあじゃないかな。ただ……」
言いかけてから、彼は背後を振り返り、母屋の方を見つめてから、また縦川の方に向き直り、彼にしか聞こえないくらいの小さな声で言った。
「彼はこの家の中で会話が成立する唯一の存在だった」
縦川はこのセリフを聞いて、思わず吹き出しそうになった。そして一発で彼のことが好きになった。もしかしてこの家には、まともな人間が一人も居ないんじゃないかと、うんざりしていたところだったが、どうやらここに一人だけいたらしい。
忘れてしまいそうになるが、今の社会は働かないでも生きていける。それはつまり、その気になったらこんな家は飛び出してしまっても問題ないのだ。なのに生前の栄一がそうしなかったのは、弟が居たからかなと思っていたが、もしかしたらこの白髪の少年がいたからかも知れない。
栄一の突然の死を信じられなかった縦川は、もしかして、彼が超能力者で、不思議な力を使って栄一のことを殺したんじゃないかなどと考えていたのだが、それは大きな間違いだった。仮にそうなら、こんな誰も居ない場所で、一晩中一人で線香をあげているなんて出来っこないだろう。
「君はこの世に超能力者が居るって、聞いたことがあるかい?」
ただ縦川は、一応そのことを聞いてみることにした。疑ってしまった罪悪感もあったが、はっきりしない気持ち悪さの方が勝った。すると少年は縦川の真意を探るように一瞬だけ怪訝そうに頭を傾けてから、何かを思い出すかのように沈思黙考すると、
「それなら以前、栄一さんが言ってたな。秋葉原で襲われたって。ホントかどうかは知らないけど」
「実は、生前の彼は、君が超能力者なんじゃないかって疑ってたようなんだよ」
「俺が……? へえ、なるほど」
すると彼は縦川のことをじっと見つめてから、何もかもを見透かすような冷徹な瞳のままに言った。
「お寺さん。俺が超能力者だったら、殺す相手を間違えてるよ」
その言葉の意味を、最初、縦川は理解できなかった。
だがすぐにこの少年が、縦川が自分のことを疑っているのを見抜いたのだと気づき、彼は大慌てで弁解するはめになった。
「あ、ああ、すまない。馬鹿なことを考えたと思うよ。今はもう君のことを疑ってなんかいないよ」
「別にいいですよ。俺があんたの立場でもそうするだろうし」
ぶっきらぼうなその口調が板についていた。下柳はこの少年のことを18歳と言っていたが、その見た目のせいなのか、縦川は同じ年くらいの男と会話しているような錯覚を覚えた。何があったか知らないが、この少年はそれだけ老成しているのだろう。
「君は、どうしてここで暮らしてるんだい? 親御さんや、兄弟はいないのかい?」
俄然、興味が湧いてきた縦川が尋ねてみるが、少年はそれに沈黙で答えた。多分、返事は返ってこないだろうと思っていた縦川は、がっかりしながらもそれを見て頷くと、
「そうかい。生前、えっちゃんと仲良くしてくれてありがとう。なにか困ったことがあったら、いつでも相談してくれ」
そう言って彼は立ち上がった。翌朝はまた早い。そろそろ帰らないと、眠る時間が無くなってしまうだろう。縦川が立ち上がり、ドアに近づいてくると、少年は彼を通すために脇に寄った。縦川は礼を言ってその横を通り抜ける。線香の煙がゆらゆらと揺れて、長くなった灰がぽとりと落ちた。
と、その時、ふと思いついて、縦川は最後に一つだけ尋ねることにした。
「そういえば、君はナナの因子って言葉に心当たりがあるかい?」
その言葉を発した瞬間、それまで沈着冷静を絵に描いたように表情を崩さなかった少年が、一瞬だけ表情を変えた。しかし、「あ、これは何か知ってる顔だな」と思ったときには、もう元の落ち着き払った表情に戻っていた。
少年は言った。
「知らないな。なんだ、それ」
「俺も知らないから聞いたんだ」
「そうですか、ならいいです」
少年はそう言うと、ぷいっと踵を返して自分の部屋の方へと戻っていってしまった。縦川はまずいことを聞いたのかな? と思いつつ、慌てて立ち去るその背中に向かっていった。
「明日はえっちゃんと最後のお別れになる。君もどうか故人を見送って欲しい」
少年は一度だけ立ち止まって振り返ると、何を当たり前のことを……と言わんばかりの表情を見せてから、すぐまた踵を返して自分の部屋へと入っていった。