KOUSAKA
悪天候にさえ遭遇しなければ、空に渋滞があるはずもなく、縦川たちの乗った飛行機は定刻どおりにデュッセルドルフ国際空港へと到着した。12時間乗ってたはずなのに、時計を見たらまだ4時間しか経ってないという、よく分からない体験をしながら、変な時間に寝たせいでぼんやりとする目を擦りつつ、入国審査と手荷物の受け取りを行う。
欧州と聞くと古式ゆかしいイメージがあるが、デュッセルドルフ空港は近代的な佇まいをしており、歩いていても日本の空港とあまり違いが感じられなかった。
市内に日本総領事館があるらしく、日本人が多く暮らしているせいか、空港内には寿司屋の看板まであった。欧州旅行でウキウキしながらやってきた人なら、気分が台無しになったかも知れないが、やはり異国の地で日本語を見るとやたらとホッとする。
かと言って、寿司屋に入ったら負けた気分になるので、それを遠巻きに眺めながら、スターバックス(米国企業)のコーヒーを飲みつつ、迎えを待った。通り過ぎる人混みがすべて外国人で、何を言ってるのかさっぱりわからない中にいると、たまに通り過ぎる東洋人が例え中国語を話していても、やけに頼もしく感じた。
尤も、言語で困ることは特に無い。すでにスタバで注文が出来ているくらいの会話なら、翻訳アプリがあればどうとでもなったし、黙っていれば向こうから話しかけてくることもない。わからない文字もカメラで撮影すればすぐに翻訳されるし、音声入力も完璧と至れり尽くせりだ。
そうでなければ現在の移民都市東京は存在しないので、これらの基礎を作り上げた立花倖は本当に偉大であると言えた。そんな彼女が何故、姿を隠して異国の地で死なねばならなかったのか……考えれば考えるほど人間とは業が深い生き物である。
「それにしても遅いわね……」
そんな具合に暇つぶしに人間観察をしていると、隣でスーツケースに腰掛けるようにして時計を見ていた愛が苛立たしげにつぶやいた。遅いとは迎えの人間のことである。空港に到着してから、そろそろ一時間が経過していた。入国審査や手荷物の受け取りにある程度の時間がかかるから、多少余裕を持って空港に向かっている可能性はあるが、いくらなんでも1時間は待たせ過ぎだろう。
「迎えの方って白木会長なんですよね?」
今や世界的大企業の会長自らが出迎えに来てくれるとは驚きであるが、飛行機の中で愛も言っていた通り、立花家と白木家は元々家族ぐるみの付き合いがあるらしく、それなりに気安い仲のようだった。立花倖が東京インパクト後に彼を頼ったのもそういう事情であるし、その倖が死んだあと、連絡をしてきたのも彼である。
特に白木会長は、故人の頼みとはいえ、彼女が生きていることを家族に隠していたことを後ろめたく思っていたようである。そのため、倖を迎えに欧州に行くと言うと、一も二もなく案内人を買って出てくれたらしい。
彼の経営するAYF本社は、ここデュッセルドルフにあり、仕事帰りに車で迎えに行くからというから、わざわざ夜の到着を選んだのであるが……
「いくらなんでも待たせすぎよ」
「お忙しい方でしょうし、会社の方で何かトラブルでもあったのでは?」
「そうなのかなあ……実はさっきからメールしてるんだけど、読んだ形跡もないのよね。埒が明かないから電話してみるわ」
一応、大企業の会長だからそんなことしたくなかったのだけど……彼女はそんなことを誰かに言い訳するように呟いてから、電話を掛けた。
ところが、こちらも全くつながる気配がない。
「あれ……?」
「どうしました?」
「繋がらない……電源が入ってないのかな?」
「待ち合わせしてるのは分かってるでしょうに。おかしいですね」
「仕方ないから奥さんの方に電話してみるわ」
愛はそう言って不機嫌そうな素振りでスマホをいじりはじめた。手持ち無沙汰の縦川も、御手洗あたりに連絡を取りたいところだったが、あいにく日本はまだ夜中である。彼のことだから嫌がりもせず、涼しい顔で受け答えしてくれるだろうが、流石にそれを知ってて電話するのは気が引けた。
そんな風に連絡が取れずにまごついていると、愛の方も白木夫人に連絡がつかなかったようで、二人は遠い異国の地で大いに困る羽目になった。待っていればそのうちやってくるかも知れないから、もう暫く辛抱してみようと、そのままラウンジで時間を潰していたのだが……それからまた1時間が経過しても、待ち人は一向にやってくる気配が無かった。
流石にこれは何かあったと思いはするものの、分かっていても今の縦川たちにはどうしようもない。
やがて、待ちくたびれた愛がため息混じりに言った。
「これ以上、待っていてもしょうがないわ。このままじゃホテルのチェックインも出来なくなっちゃうから、もう私達だけで移動しましょう」
「まだ会社にいるかも知れないですよ。一応、会社に電話を掛けてみませんか?」
「就業時間はとっくに終わってるだろうし、大体、あなたアプリ無しでドイツ語出来るの?」
「……出来ませんね」
「明日になれば何か分かるかも知れないから、今はとにかく移動しましょう。時間がもったいないわ」
ホテルは倖の家があるケルンに取っていた。移動にはスムーズにいっても1時間はかかる。電車を使った方が早いのだろうが、慣れない土地でこれ以上時間を食いたくなかったから、少しもったいない気もしたがタクシーで現地に向かうことにした。
タクシー乗り場で高齢のドライバー相手に少々手こずった。訛りが酷いうえにスマホが苦手らしくて、翻訳アプリを使ってもいまいち会話が伝わらないのだ。結局、宿泊先の住所が書かれた走り書きのメモを渡したら、それで理解してくれたようで、車はあっけなく発進した。
空港を出てアウトバーンに乗ると、あっという間に周囲は真っ暗な田園風景が広がりはじめた。遠くの街明かりも小規模で、地方都市を思わせた。
と言うか、実際、地方都市なのだ。何となく島国日本で暮らしていると、大都市と言えば東京を思い浮かべてしまうが、実際は東京みたいなどこまで行ってもコンクリートジャングルが続くような都市の方が、世界的には珍しいのだ。ここデュッセルドルフの人口も62万人と、仙台や札幌よりもずっと少なく、100万都市ではない県庁所在地と考えれば、だいたい想像がつくだろう。
特に欧州人は都会の喧騒を嫌い、金持ちほど郊外で暮らしたがるそうだから、こういう田園風景が沢山残っているそうだ。実際、ベルリンは思ってる以上にトルコ人と東欧人だらけだそうだし、フランスのパリでばっかりデモが起きるのも、都会に移民や貧乏人が集中するかららしい。まあ、フランスのあの激しいデモの光景を見ていると、金持ちが逃げ出したくなるのも分かる気がする。
デュッセルドルフはラインラントの南西に位置し、ルール工業地帯の一部である。オランダ国境のすぐ側にあり、古くから炭鉱として栄えており、現在でもドイツ一二を争う工業都市だ。先述の通り、領事館がある関係上、日本企業の進出が盛んで、ドイツ国内で一番日本人が住んでる都市であるそうだ。
ラインラントはその名の通り、ライン川の沿岸の土地を意味する。ベネルクス地方に隣接し、北海に通ずる河川は水運に適しており、そのため古くからドイツ工業の中心地だった。そういった要衝のせいか、その土地を巡って度々戦争も起きており、ナポレオン戦争時代には一時フランスに占領されたこともあった。
フランス国境であるアルザス・ロレーヌ地方で石炭が出るようになってからは、特に重工業が発展し、ドイツ北部の北海沿岸に広がるルール工業地帯の一部として大いに栄えた。ところが第一次大戦でドイツが敗北すると、アルザス・ロレーヌ地方はフランスに割譲され、賠償金の支払いのためにドイツの工業力は著しく低下する。
第一次大戦でベルギー、オランダ、フランスは疲弊し、その復興のためにドイツの賠償金を当てにしていた。ところが、帝政から共和制へ移行する革命余波で賠償金の支払いが滞ると、右派が支配的なフランスはルール地方を占領してしまう。
賠償金支払いのために必要な工業地帯をフランスに占領されてしまったワイマール共和国ドイツは、これではアベコベじゃないかと態度を硬化し、労働者のストライキで対抗する。ドイツ憎しのフランスがそれで納得するはずはなく、我慢比べの結果、ドイツはパン一個を買うのにトランク一杯の札束が必要という、桁外れなハイパーインフレに陥ってしまった。
結局、この騒動はアメリカの介入により終息するが、独仏間にはしこりが残った。特にそれでも賠償金を支払わねばならないドイツ人のフランス人への憎しみは、恐らくこのときがピークであっただろう。
ナチ党のアドルフ・ヒトラーはこの機に乗じて人々の反仏感情を煽り、ミュンヘン一揆を起こした。国民はこのとき、弱腰の政府に我慢ならず、政権交代を求めていたのは事実である。だが、だからといってぽっと出の極右政党のちょび髭の言うことを真に受けることはなく、ミュンヘン市長たちの機転によって、このときの一揆は失敗に終わった。
ところがただでは転ばない彼は、法廷で持ち前の演説力を駆使して自らを弁護し、かなりの減刑を勝ち取ることに成功する。そして、注目を浴びていた彼の演説は全国紙にも載り、期せずしてヒトラーの知名度を上げることになってしまった。
こうしてまんまと全国区にデビューしたヒトラー率いるナチ党は、これを境にそれまでの過激な革命路線から遵法路線へと方針を転換する。そしてこのとき、禁固刑を食らったヒトラーが、ドイツ南部のランツベルク刑務所で書いたのが、かの有名な『わが闘争』であった。
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縦川たちを乗せたタクシーは、やがてアウトバーンから降りてケルン市内に入っていった。
ケルン大聖堂を中心に広がるおしゃれな町並みは、きっと昼間に散歩したら最高だったろうが、そろそろ深夜に差し掛かろうとしている暗闇の中では、左右に大きく突き出すように生えている街路樹がかえって不気味に思えた。
自動車の国らしい広いレーンを進み、どことなく日本の町並みを思わせる市街地を抜けて、タクシーはどんどん進んでいく。四角い建物が多く、何の面白みのない町並みが続いていたが、それが日本よりもおしゃれに感じるのは、多分道幅にゆとりがあるからだろう。
そんな風に車窓から町を眺めていると、縦川は何となく違和感を感じるようになっていった。さっき市内に入ったまではいいものの、今はどんどん、その中心から離れていってるんじゃないか? 信号を一つ通り過ぎる度に、建物は少なく、道幅は狭くなっていってるような、そんな気がする。
案の定、暫く進むと周辺は薄暗がりが広がり、はっきりと市街から離れているのがわかった。建物はまばらになり、商店や雑居ビルのようなものは見当たらない。正確な場所は知らないが、ホテルは街の中心にあるはずだから、流石にこれはおかしいだろう。
愛もそのことに気づいたらしく、お互いに顔を見合わせたとき、タクシーは薄暗い住宅地の一角で停まった。運転手がメーターを指さして何か言っている。慌てて翻訳アプリを起動するが、そんなもの使わなくても言わんとしてるところはわかった。ここが目的地だ、到着したと言ってるのだろう。
「運転手さん、ちょっとちょっと、ここどこですか?」
「Was? Woruber sprichst du? (なに? なんていってるの?)」
焦りながら日本語で喋り、翻訳アプリで通訳する。音声を聞いた運転手が怪訝な表情で何かを言ったが、その声を変換しようにもアプリは上手く動かない。
「あ! もしかして……」
そうこうしていると、何かに気づいた愛がハンドバッグに手を突っ込んでゴソゴソとやりだした。そしておもむろに二枚のメモを取り出すと、運転手に見えるように2つを差し出した。
「Oh, Es ist jetzt hier. Wolltest du ins Hotel gehen? (ああ、今はここにいるんだよ。あなたはこっちのホテルに行きたかったの?)」
すると運転手は片方のメモを指さしながら何かを言った。愛にはそれだけで何を言ってるかわかったらしくて、
「ああ……しまったわ」
「どうしたんですか?」
「最初に見せたメモが間違ってたのよ。それで別の場所に連れてこられちゃった」
「なんですって? それじゃ、ここどこなんですか?」
縦川が呆れながらそう言うと、愛は面目なさそうな表情を一瞬作ったが、すぐにハッと目を見開いてから、運転手に向かって言った。
「今、このメモの場所にいるのね?」
運転手は差し出されたメモを見ながら方をすくめて、
「Hier」
とだけ短く答えた。それくらいは縦川にもわかった。今はここにいますよ。
「ちょっと待ってて!? ジャストモーメント、プリーズ!」
愛は運転手の返事を待たずに、勝手にドアを開けて外に出てしまった。運転手はびっくりして目を丸くしたが、すぐに諦めたように肩をすくめると、運転席のリクライニングを倒した。
待っててやるよという意思表示だろうか。縦川はダンケと、感謝の言葉だけを述べて、愛に続いてタクシーを降りた。
住宅地は市街から少し離れた見晴らしの良い丘にあって、まだ9月だと言うのに冷たい風が吹き抜けていった。いかにも高級住宅地といった感じの大きな家が立ち並ぶ。
タクシーが停まったのはそのうちの一つで、周囲からは少し浮いた感じの近代的な建物だった。家というよりもビルと言ったほうが良いような、そんな感じである。
一体ここが何だというのだろうか? 先に飛び出していった愛の後を追いかけると、彼女は軒先の鉄扉にしがみつきながら建物を見上げていた。縦川はその横に並び、
「で、ここって何なんです?」
「姉さんの家よ」
びっくりした縦川が表札を確認すると、そこには『KOUSAKA』と書かれていて、更に驚いた。きっと名前を隠していた立花倖が、ここでは上坂を名乗っていたのだろう。帰ったら上坂に教えてやろうと思いつつ、愛と並んで建物を見上げる。
生前の倖が好みそうな、機能的なだけで何の飾り気もない無骨なビルがそこにあった。窓には鉄格子がはめられており、彼女が襲撃を恐れていたことを窺わせた。多分、窓も防弾なのだろう。
目につくものは特になく、鉄扉の先に続く小道の先を更に覗くと、ぽっかりと玄関の扉が開いているのが見えた。恐らく、現場検証した警察が残していったのだろう、入り口にはロープが張られており、内部への侵入を阻んでいる。
この中で、立花倖は殺されたのか……そう思うと、その開きっぱなしの玄関が、ものすごく薄気味悪く見えた。入ったらもう出てこれない、まるで巨人の口のようである。
縦川が尻込みしていると、愛は鉄扉のノブをカチャカチャやりだした。まさか中に入ろうと言うのだろうか。
「もう夜更けですよ。またにしましょう」
「でも、せっかく来たんだし……」
「勝手に入ったら警察に怒られますよ」
「中にまでは入らないわよ。流石に。怖いもの」
彼女がそう言うやいなや、鉄扉がスーッと音もなく開いた。どうやらこっちの方も鍵は掛かっていなかったらしい。愛は縦川の顔を見てから、玄関へ続く小道へと足を進めていった。正直、気は乗らなかったが、縦川はその後に続いた。
ロープの隙間から建物の中を覗き込んで見る。中は真っ暗闇で、本当に光も通さないと言った感じで、何も見えなかった。スマホのライトで照らしてみても、玄関先がうっすらと見えるだけで、それが限界だった。二人は緊張からいつの間にか止めていた息を吐くと、お互いに苦笑いを見せながら、家の裏手へと歩いていった。
家の裏手は庭になっていて、玄関とは打って変わって明るかった。開けた芝生の庭を月明かりが照らして、その中央に白いベンチがある。紅茶テーブルも置かれており、もしかすると生前の倖がここでお茶を飲んだりしたのではなかろうか。見晴らしは良く、ケルンの中心街が一望でき、大聖堂の尖塔がよく見えた。建物の方は無骨だったが、きっと彼女はこの景色を買ったのだろう。
二人はしばしの間、見惚れるようにその景色を眺めていた。これが故人の見ていた世界なんだなと思うと、どことなくその風景が静謐に感じた。愛も縦川も、もしかすると自分たちは、欧州までこの景色を見に来たんだと、なんとなくそんな気がしていた。思い出というのはなかなか口に表せない。こうして同じ景色を見たという記憶を留めておくくらいしか方法はない。
縦川はその場に、ぼーっとして佇む愛を残して、踵を返した。ここに故人が居るわけではないのだが、なんとなく二人きりにしてやろうと、そんな気がした。姉妹は今、ここで同じ景色を眺めているのだ。それを邪魔するわけにはいかない。
彼はそう思い庭の半ばまで戻ってくると、そこのベンチに腰掛けて、まるで一つの絵画みたいに、佇む愛の後ろ姿を飽きることなく眺めていた。
ところが……
「Bewegen Sie sich nicht! (動くな!)」
と、その時、二人の居る庭に、数人の足音が聞こえてきた。ザクザクと芝生を踏み荒らす足音は忙しなく、まるで急き立てられてるような気がして縦川が慌てて振り返ると、その顔に容赦なくサーチライトが浴びせられた。
眩してく何も見えない。その眩しさに目がくらんでいると、
「Nicht widerstehen! (動くんじゃない!)」
更に何事かを言われて、次の瞬間、縦川はベンチから引きずり降ろされるように地面に転がされた。
「きゃあああーーーー!!」
っと、愛の悲鳴が上がる。
助けなきゃと思って咄嗟に彼にのしかかって来た人を払いのけようとしたら、逆にやり返されて、縦川は背中を地面にしたたかに打ち付けた。
ゲホゲホと咽ながら、涙目で自分を押さえつける人影を見つめる。
そう言えば、立花倖はここで殺されたんだ……それを思いだして、一瞬、背筋が凍るような恐怖が体を突き抜けたが……
しかしそこに居たのは、悪の秘密結社なんかではなく、単に見慣れない制服を着た、ドイツの警察官だったのである。




