それが仕事ですってば
立花倖の訃報からおよそ1周間が経過し、縦川たちはいよいよ欧州へ飛び立つ日がやってきた。時間がかかったのはパスポートが無かったためであり、こればっかりは御手洗の力を持ってしてもすぐ発行というわけにはいかなかった。
夜も迫った夕暮れの成田空港に降り立つと、空気がまとわりついてくるような、粘っこくて重苦しい何かを感じた。逢魔が時とでも言うのだろうか。つい10日ほど前に故人を見送った空港に、その故人の遺骨を受け取りにいくために再度訪れたからだろうか、縦川はなんだか奇妙な感覚がして仕方なかった。数日しか経ってないのだから、あの時から何かが変わったわけはないのに、見るものすべてが妙に古ぼけて感じるのだ。
飛行機に乗る前は、誰しも少しは緊張を感じるものだろう。もしかしたら墜落するんじゃないかと、そういう気持ちが立花倖の死と重なって、余計に気を重くしていたのかも知れない。
「……っていうか、本当に落ちたりしないだろうね」
キャリートランクをコロコロと転がしながら、縦川は不安な気持ちを懸命に振り払った。
出発ロビーまでやってくると、縦川を見つけた御手洗がしきりに手を振ってきた。出掛けに電話が掛かってきてしまったせいで、搭乗時間ギリギリだった。
今回、見送りは彼だけで、他には誰も来ていなかった。前回と比べたら寂しい限りだが、渡航の理由が理由なので仕方ないだろう。
もしかしたら上坂は来たがるかなと思ったが、案外落ち着いたもので、彼はあとのことは縦川に任せるからと言って、学校の方を優先したようだった。寺を出ていく時はだいぶ気落ちしていて心配にもなったが、もう大丈夫なのだろうか。もしかすると安全のために寮に入ったことが、功を奏したのかも知れない。やはりこういう時は下手に慰められるよりも、気の合う友達と一緒に居たほうが気が紛れるのだ。
そんなことを考えながら、えっちらおっちらと御手洗の元まで歩いてくると、
「和尚様、遅い! もう時間ないんだから、早く出国手続きを!」
既にゲートを潜っていた立花愛に急かされた。
縦川は面目ないと頭を下げてから、チェックインカウンターへと急ぐ。追いかけてきた御手洗にチケットを貰い、それを係員に渡し手荷物を預けながら、縦川は言った。
「実は、出掛けに上坂君から電話が掛かってきまして」
「ああ、やっぱり先生のことが気になって……」
「いえ、それがそうでもなくて……あ、いや、もちろんそれもあったんですけど、お父さんのことを聞かれましてね?」
「お父さんって……?」御手洗は一瞬怪訝そうな表情を見せたが、「ああ! 北海道に居たっていう、上坂君のお父さんのことですか」
「はい。上坂君、どうやらお父さんに会う気になったみたいなんですよ」
「本当ですか?」
「もうじき、大型連休が来るでしょう? そのときにでも訪ねてみたいからって、色々聞かれたんです。良いことですけど、一人旅は心配だから、それじゃ下柳に一緒に行ってくれって頼んでみるよと……それであちこち電話してて遅れちゃったんですよ」
「そうだったんですか」
「御手洗さんにもお伝えしておこうと思ったんですが時間がなくって、これはもう空港に着いてからにした方が良いかなと」
「分かりました。知らせてくれてありがとうございます。上坂君の方は、私の方でも見張っておきます。地盤が弱いとは言え、北海道にも党の支部はありますから、そっちから人を送りましょう」
「下柳はああ見えて柔道の有段者ですから、それなりに腕は立つと思います。まあ、荒事が起きるとは思いませんが、一応」
縦川たちが話をしていると、焦れた愛がゲートの向こうでヤキモキしながら、
「何をのんきにくっちゃべってるんですか! ほら、早くしないと飛行機出ちゃいますよ!」
「わわっ! すみません! すぐ行きますから!!」
縦川はペコペコと頭を下げると、最後に御手洗にもお辞儀をして、出国審査のゲートの方に駆けていった。空港にチェックインした時点で置いてかれることはないだろうに、慌ただしい出国に苦笑いしながら、御手洗は二人の背中を見送った。
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「え!? 一存のやつ、私じゃなくて縦川君の方に電話したの?」
愛に急かされて慌ただしく出国ゲートをくぐった縦川は、搭乗手続きで更にまごついてしまい、彼女の不興を買った。いい大人のくせに落ち着きがない、いったいいくつになったんだと歳を聞かれた縦川が自分の年齢を言うと、思いがけず年下だと知った愛の態度がガラリと変わって、それまで様づけしていたのが、縦川君になっていた。
たかが年齢ひとつでこうも態度を変えるとは、そっちの方が大人げないんじゃないかと苦情を言えば、パワハラ・セクハラが当たり前の芸能界、特に女はナメられるから、少しでもすきを見つけたら積極的にマウントを取っていかなければ生き残っていけないのだと、裏闘技場の格闘家みたいなことを言い出した。まあ、ウンコ呼ばわりよりはマシだから甘んじて受け入れる。
そう言えば彼女は芸能プロダクションの社長なのである。聞くところによれば、かつて恵海が所属していたらしい。愛自身も昔はタレントだったのだが、引退して母親の事業を受け継いだそうである。それは本当なのかと尋ねてみたら、彼女は首肯したあと、元々、白木会長と立花倖、上坂と恵海を引き合わせたのは自分だったのだと言いだした。
政財界関係者のパーティーに、たまたま来ていた恵海に一目惚れし、この子は絶対売れるからと勧誘しているうちに、姉の倖と恵海の父が仕事上の付き合いがあることに気がついて、その姉を巻き込んで一本釣りしたのだそうだ。その後、上坂と引き合わせてお互いに意識し合うようになり、今では交際までしているのだから、言うなれば自分は恋のキューピッドと言えるだろう。
なのに上坂が父親と会ってみようとしたとき、愛ではなくまっさきに縦川に相談したことが、彼女には相当不服のようであった。
「この間会った時に電話番号も交換したのよ。困ったことがあったらいつでも電話してきなさいとも言っておいたし……なのに、どうして私じゃなくて縦川君なのよ」
愛はぷりぷりと感情を露わにした。頼ってもらえなかったことが姉代わりとして悔しいのだろう。縦川は苦笑しながら、
「別に愛さんのことを苦手にしてるわけじゃなくて、男の子ですから、女性に相談するのが気恥ずかしかっただけですよ」
「そうかな」
「そうですよ。そう言えば上坂君、あなたのことは姉さんって呼んでましたよね。倖さんのことは先生って呼んでたのに。それって、あなたのほうが気安いってことでしょう?」
縦川がそういって慰めると、彼女はすごく複雑そうな顔をして、
「……そんなんじゃないのよ。あれは寧ろ、あの子が私に壁を作ってる証拠ね」
「え? どうしてです?」
「実は……あの子に初めて会ったとき、私つい怒っちゃったのよ。だって、あの子、開口一番私に向かってオバちゃん言うんだもん。つい頭にきて、オバちゃんじゃなくて、お姉さんと言いなさいって怒鳴っちゃったのよね」
「うわあ、大人げない……」
縦川はありがちな出来事だと思って苦笑したが、複雑なのはここからだった。
「仕方なかったのよ、私だって緊張してたんだから。姉さんがあの子を引き取るって言ったときに、母さんと喧嘩になったことは知ってるでしょう?」
「はい」
「それで姉さん家を出ちゃって……いや、元から出てたようなものなんだけど……それ以来、実家に寄り付きもしないまま数年経っちゃったのよ。母さんも姉さんも、どっちも歩み寄ろうとしないから、このままだと本当に縁が切れちゃうって思った私は、関係修復のために動き出したわけなんだけど……そんなつもりで居たから、あの子のこと真っ直ぐな目では見れなくてね、多分そういう気持ちがにじみ出ていたんだと思うの」
二人でそんな会話を交わしていると、飛行機は安定飛行に切り替わり、ベルト着用のランプが消えた。すぐに客室乗務員がやってきて、飲み物のリクエストを聞いてきて、彼女は飲まなきゃやってらんないと言わんばかりワインを頼んだ。
「どんな顔して会えばいいのか分からなかったのよね、相手は子供だってのに、酷いこと言われないだろうか、嫌なことされないだろうか、この子さえ居なければ、私がこんな嫌な思いしなくて済んだはずなのに……って、優しくしてあげようなんて気持ちはかけらも無かった。でもあの子賢いから、私のそういう気持ちを見抜いていたんだと思うわ。まだ小さいのに、怒られて本当は怖いのに、お姉ちゃんお姉ちゃんって、一生懸命気に入られようと努力するのよ。姉さんの立場が悪くならないように、自分が悪いんだって言うのよ。私達に拒絶されたらもう行くとこなんかないのに……それでも自分が悪いんだから、姉さんと仲良くしてくれって言うのよ」
グラスを傾けながら、彼女はため息混じりに続けた。
「私、情けなくなっちゃってね……あんな小さな子に怒鳴ったりして、よそよそしい態度しか取れなくて、あの子のこと、我が家の平和を乱すエイリアンみたいに思ってたわけだけど、私のほうがあの子から姉さんを奪うエイリアンなんじゃないかと。ああ、これはとんでもないことしたって思ったわ。自分のことばっかり考えて、相手のことまったく考えてなかった。子供だって一個の人間だってのにね。それでようやく本当の家族として見られるようになったっていうか、あの子のこと受け入れられるようになったのよ」
「……そうだったんですか」
「私のほうがずっと子供だったわ。下の子が生まれてお母さんに甘える子供みたいに、姉さんのことを取られて嫉妬していたのね。だから、あの子に姉さんって呼ばれるのは戒めみたいなものよ。あの子と私は変わらない、同列だってことを忘れないように」
飛行機が国境を越えたというアナウンスが流れて、機長の挨拶が終わると暫くして、日が傾いてきて機内が薄暗くなった。ドイツまでの直行便とはいえ、飛行時間はおよそ12時間。ほぼ半日もあれば仮眠を取らないわけにもいかない。
縦川は飛行機に乗った経験がないなんてことは無かったが、ビジネスクラスに乗るのはこれが初めてだった。多分豪華なんだろうなと思っていたが、大の大人が足を伸ばして寝転がれるフラットシートは快適すぎて、世の中の格差はここまで広がっていたのかと理不尽さを感じるくらいだった。
一体いくらくらいするか分からないが、こんなシートを気前よく取ってくれた御手洗には感謝の念が堪えない。本当によくあんな人と知り合えたものである。財閥の御曹司で、政治家で、海外のお姫様と良い仲なんて、どこぞのラノベ主人公みたいな人と、普通だったら一生縁なんて出来なかったろうに、不思議なものである。
不思議といえば上坂だってそうだ。あんなに数奇な運命に翻弄されても腐ることなく、真っ直ぐに生きていこうとする姿は、好感を通り越して畏敬さえ感じる。行方不明の美夜は彼のことを神様と呼んでいたが、本当にそうなんじゃないだろうか……眠り病や、高次元世界の話を思い出しながら、縦川はまどろみの中でそんなことを考えていた。
「そう言えば……先日、姉さんの位牌を持って訪ねていったとき、一存がお経を読んでくれたんだけど。あれって縦川さんが教えてあげたのよね?」
縦川がウトウトしていると、隣のシートで同じく横になっていた愛が話しかけてきた。彼女とは頭の向きが逆だから、彼が半分眠りに入っていたことに気づかなかったのだろう。迷惑に思いつつも、その内容には興味を惹かれて、彼は肩甲骨をすぼめるように伸びをしてから、返事した。
「そうなんですか? いえ、俺は上坂くんに教えたりなんてしてませんよ」
「そうなの?」
「はい。多分、毎朝のお勤めをやってるうちに、自然と覚えちゃったんでしょうね。彼、頭がいいですからね。我々とは出来が違う」
「ふ~ん……その、朝のお勤めって?」
「そのまんまの意味ですよ。うちは寺ですから、朝起きたらまず仏様にお経を上げる。それからお堂と境内、自分たちの部屋の掃除をして、それからご飯を食べるんです。上坂君はうちに来てから、それを毎日続けていた」
彼はそこまで話しているうちに、ふと倖のことを思い出して、
「逆に、お姉さんの方は絶対に参加しようとしませんでしたね。お勤めの時間に起きてても、俺たちの姿を遠くから見てるだけで、こっちに近付こうとはしなかった。一応、うちの寺にいる間はルールだから、やんなさいよって言ったんですけど、頑なに拒まれましたねえ……科学者でしたから、宗教が嫌いだったんでしょうか」
縦川が愚痴るようにそう言うと、愛は嬉しそうに笑いながら言った。
「姉さん、ルールが嫌いなだけよ。昔から、教師とか、国家権力とかが嫌いだった。自分が教師になってからも、学年主任さんとか、校長先生とか、同じ先生によく怒られてたわ。そのたびに、愚痴に付き合わされて嫌んなっちゃったわよ」
「あー、なんか、それっぽいですね。先生らしいや」
「ねえ、縦川君から見て、姉さんってどんな人だったの?」
愛はポツリと呟くように尋ねてきた。それは男女の仲について勘ぐってるとか、そんな感じではなくて、純粋に興味本位のようだった。
「どんなって言われても……俺より愛さんの方が知ってるんじゃないですか。姉妹なんだから」
「私が知ってるのは5年前までの姉さんよ。あれから姉さんがどういう生活をして、どう変わっていったんだか、私にはわからないわ」
「なるほど……」
言われてみれば確かにそうだ。縦川は遺族のために、ちゃんと話してあげようと思い、記憶をたぐり始めた。
「とはいえ、それほど長く寺に留まっていたわけじゃありませんから、よくわかりませんね。とにかく、上坂君が慕っていたからすごい人だって印象が強いです。話をした限りでは、科学分野に限らず話題が豊富で、とにかく切れる感じだった。オカルトとか、裏社会と戦っていたようなので、少し殺伐とした印象もあった気がしますが……そう言えば……」
縦川はふと思い出して言った。
「そう言えば、オカルトで思い出しました。先生、神様なんて信じそうにないのに、神様がどうのこうの言ってて、不思議な人でしたね。何でも幼い頃、神様に会ったことがあるんだとか……」
「……姉さん、縦川君にもそう言ってたの?」
「ええ。俺もってことは、愛さんにも言ってたんですか?」
すると愛は体を起こし、縦川の方を覗き込むようにして続けた。
「うん。姉さんが科学者になったのも、実はそれが理由なのよ。昔、助けてくれた神様に会いに行くために、その方法を探すんだって……そんな科学とオカルトを一緒くたにして、意味ないでしょ? だから夢でも見たんじゃないのって言ったんだけど、そしたら姉さん、科学は元々オカルトだったんだから、これで良いんだって言ってたわね」
「へえ……」
「縦川君はお坊さんだから、神様は居るって信じてるの? それともやっぱり、そんなの迷信だって思ってる?」
「俺は仏教徒ですから、神様じゃなくて仏様ですけど……」
縦川は少し考えてから、唸るような低い声で言った。
「うーん……多分、いらっしゃるのではないかと。今はそう思いますね」
「へえ、意外」
聞いた本人も、まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかったようで、彼女は目をパチクリさせながら縦川の顔を覗き込んだ。彼はその瞳を捉えると、覚悟を決めたかのように、落ち着いた口調で続けた。
「巷で噂の超能力者や眠り病があるように、不思議な力を持った人たちが確かに居るんです。先生はそれを高次元世界という概念を用いて説明してましたが、もしも本当にそんなものが存在するなら、そこになにかあると考えるのは自然なんじゃないかと……」
上坂や江玲奈はその高次元世界を知覚しているらしく、江玲奈に至っては予言のような奇跡までをも起こしていた。彼らのその神性は、もはや疑いようもないんじゃないか。残念ながら縦川自身は高次元なるものを感知できないために、確信は持てなかったが、少なくとも信じるに足るだけの、上坂に対する信頼があった。
だから神はいるんじゃないか。縦川はそう思っていた。
「ふーん……」
愛は感心した素振りで彼の返事を聞くと、また自分の座席に寝転がった。
「もしも神様が居るんなら……姉さんは天国に行けたかな?」
「ええ、必ず行けますよ」
「……また、軽く言うわね。本当にそう思ってる?」
「思ってますよ。少なくとも極楽浄土には必ず行けます」
「極楽……? ああ、そう言えば、仏教って天国が無いんだっけ……それって何か違うの?」
縦川は彼女に見えてないだろうと思いながらも頷いた。
「キリスト教で言うところの天国ってのは、神様の住む楽園のことでしょう。そこへ行けば幸福に暮らしていける、そんな場所……仏教にも天国はあって、そこに神様も住んでますが、困ったことに、天の神様も堕落して地獄に落ちてしまうんです。
六道輪廻と言いまして、生き物は天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道と、6つの世界のどこかに生まれ、そして死んだらまたその6つのどこかに生まれ変わる。それを繰り返す。神様だって煩悩にまみれてしまえば死んで地獄に落ちてしまう。その円環から唯一逃げ出せるのが、人間なんです。
人間道……つまり人間界は四苦八苦に悩まされ、苦しみに堪えない世界ですが、煩悩を打ち払うことによってその苦しみから解放される。これを解脱と言って、仏教とは、解脱して仏になり、苦しみから解放されようって宗教なんです。ところが、そのためにはこの苦しい世界で、苦しい修行をしなければならない。
お釈迦様はその方法を残してくれました。四諦八正道と言って、お釈迦様は四諦、つまり生老病死4つの苦しみから、人間はどうしても逃れることが出来ないと嘆き、菩提樹の木の下に座ってウンウンと考えました。そしてはっと悟ったんです。
彼は弟子に請われてその方法をみんなに伝えました。これが八正道というもので、要するに、悟りを得るための修行の方法を記したものです。お釈迦様はこうすればみんな解脱できるよと、具体的な方法を残したんです。
ところがまあ、その方法がとても難しい。
一例を挙げますと出家、つまり財産を捨てて修行に身を投じ、物請いをして生計を立てろとあります。みんなが信心深く、平和な時代ならまだいいですけど、戦争で世が乱れてたらとても無理だ。だから時代が進むに連れて、その方法もそぐわなくなってきたら、やり方を変えようと言う声が大きくなった。そうして出来たのが大乗仏教ってやつです。鎌倉仏教もその一つ。
鎌倉仏教というのは、日本に伝わった仏教が更に変化したものです。鎌倉時代は日本の中世ですから、かなり苦しい時代だった。人がよく死んだ。諸行無常とは言えど、こうも為す術もなく人が死んでいく姿を目の当たりにして、当時の仏教家は心を痛めていた。
こんなに生活が苦しくては仏教なんて出来るわけがない。しかし修行をしなければ、誰も解脱ができない、苦しみから解放されない。こんなに苦しいと言うのに、救ってくれる神はいないのか。
それがいるとおっしゃったのが法然上人です。法然上人は、お釈迦様のような素晴らしい人が今の世の中を見て、なんとも思わないわけがない。修行して、解脱して、仏陀になろうとしている人には、必ず何とかしようと考える人がいるはずだと考えた。それが阿弥陀如来です。
南無阿弥陀仏ってのは、この阿弥陀如来のことを言ってるわけです。阿弥陀如来は苦しい世の中で修行が出来ない我々をも救おうとしてくれている。だから、我々も阿弥陀様のことを呼んでお縋りしましょうと、念仏を唱えるわけです。
上坂君は先生のためにお経を読んだとき、きっと一心に先生のためを思っていたでしょう。その気持ちは必ず阿弥陀様の元へ届いているに違いない。だから、先生は必ず天国に行けますよ。天国っていうか、極楽浄土ですが……」
ドイツ行きの飛行機の中は静まり返っていた。外は夜で、機内は薄明かりがあるだけで視界は悪く、動く人は誰も居ない。ジェットエンジンのノイズのような音だけが聞こえてくる。
そんな雰囲気の中で死者について話していたからか、なんとも厳かな気分になった。縦川は、立花倖が天国に行けると受けあったが、そのための見送りもちゃんとしなければならないと、改めて気を引き締めた。
「……縦川君。本当にお坊さんみたいね」
「いや、本職ですって」
愛は半分眠ってるような、寝ぼけた声でつぶやいた。
「説教臭いし……」
「それが仕事ですってば」
「……でも……ありがと」
二人はそんな話をしながら、ドイツまでの長い時間を過ごした。