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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第四章・永遠の今
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行けばそこに先生がいるわけではない

 恵海が美空学園に転入してきたことで、上坂は午前いっぱいイジられ続けた。彼女が上坂の恋人であることは公然の事実だったので、嫉妬されてからかわれてもそれを甘んじて受けるしかなかったのだが、しかし彼女が何故急に転校してきたのか、その理由を知らない彼はクラスメートにイジられながら、もやもやしたまま午前を過ごす羽目になった。


 理由を尋ねたくとも、恵海はHRで挨拶をしたあとどこかへ行ってしまい、探すにも昼休みを待たねばならなかった。担任が言うには、恵海は特別な生徒で、便宜上このクラスに所属しているだけで、カリキュラムは全く別個のものが用意されているらしい。何故そんな特別扱いを受けてるのか? その理由も含めて問い質そうと、上坂は昼休みが来るや否や、クラスメートたちの攻撃を掻い潜って、恵海に会うため廊下に躍り出た。


 ところが、勢いよく教室を飛び出したまではいいものの、どこへ行けば彼女に会えるのかがわからない。特別と言っても、この学校は言うなれば学校自体が特別学級みたいなものだ。別段、彼女を贔屓するための学科やなんやがあるわけではない。


 これは困ったぞと、廊下でまごついていると、突然、太ももの裏を蹴られて膝がカックンとなった。バランスを崩して床に手をついた上坂が振り返ると、彼に続いて教室から出てきたらしきアンリエットが上から目線で見下ろしていた。


「何しやがんだ!」

「一人で先走んじゃないわよ。エイミーさんのとこに行くんでしょ?」


 上坂がプリプリしながら非難の声を上げると、彼女は表情を変えること無く言った。


「……もしかして、どこにいるか知ってるのか?」

「私、購買のサンドイッチで良いわよ。パックジュースもつけてよね」


 彼女はそう言うと上坂の返事を待たずにさっさと歩き始めた。どうやら、彼女は恵海の居場所を知ってるらしい。上坂は憮然としたまま立ち上がると、他にあてがないので彼女の後に従った。暫く進むと、彼女はふと思い出したように、ちらりと横目で見ながら、


「あとそれから、この度はご愁傷様です……」


 昨日、恵海と一緒に居たから、多分彼女に聞いたのだろう。二人はそのまま無言で進んだ。


 途中、購買に立ち寄ってから、美術室や音楽室のある実習棟へとやってきた。恵海と言えばピアノだから、もしかして音楽室にいるのかなと思ったら、アンリはそこを素通りし、普段は物置になっている多目的室の方へと足を向けた。するとそちらの方から微かなピアノの音が聞こえてきた。


 どうしてこんなところから? と思って多目的室の前に立つと、いつの間にかそこのプレートが第二音楽室とやらに変わっていた。音楽科のある学校じゃなるまいし、音楽室を2つも3つも作る理由なんてないはずなのに、もしかして、恵海のためにわざわざ作ったのだろうか。


 これは一体、誰がどんな魔法を使ったんだと勘ぐりながら、アンリと一緒に教室内に入ると、そこには西多摩の白木邸にあったグランドピアノが置かれており、その持ち主である恵海がうっとりとした表情で弾いていた。


 彼女は目を瞑っていたが、上坂達が部屋に入った微妙な空気の流れに気がついたのか、ぱっと目を開けてそこに恋人が居ることを確認してニコリと笑みを浮かべた。それでもピアノを弾く手を止めないのは彼女がピアニストだからだろうか。上坂は彼女の演奏を聞きながら、部屋の片隅に置かれていたパイプ椅子と机を出して、恵海がピアノの練習を終えるのを待った。


「いっちゃんにも相談しようと思ったんですけど、実は(わたくし)、高校の卒業資格が欲しかったんですの」


 演奏を終え恵海がやってくると、3人は軽く挨拶代わりの世間話をしてから、上坂はすぐにどうして彼女が美空学園なんかに転校してきたのかと尋ねてみた。と言うか、転校どころか彼女は高校に通ってなかったはずである。それが突然、名目だけとはいえ、高校三年の上坂のクラスにやってきたのはどういうカラクリだろうか。


 すると彼女は、もちろん上坂と同じ学校に通いたかったという明け透けな理由も白状しながら、高卒資格が欲しいという、なんだか彼女らしくもない、ある意味真っ当な理由を挙げてこう言った。


「実はシャノワールで演奏会をやったときから、自分のピアニストとしての将来について、少しずつ考え初めていたんですの。大勢の素晴らしい先生に師事してきたとはいえ、結局私は独学ですから、もっとしっかりした勉強をして、視野を広げたいなと。そんな時、欧州に行くという話になって、それならあっちへ行ってから、改めて勉強をし直そうと思っていたところ……」

「俺が引き止めちゃったのか?」


 上坂は全身から血の気が引くような焦りを感じて、慌てて弁解するように言った。ところが、


「ごめん、自分のことばっかり考えて、エイミーのことをちゃんと見てなかったんだ。もし君が……本当は欧州に行きたいんなら……」


 どうぞ自分のことは気にせずに行ってくださいとは言えなかった。彼女の夢のためとはいえ、離れ離れになるのが、今はとても不安なのだ。彼女が行ってしまったあと、自分一人でやっていけるのだろうか。彼女の気持ちが離れないとも限らないではないか。もし彼女が欧州で、自分なんかよりもっと素晴らしい人と出会ったりしたら、その時、自分は身を引くことが出来るんだろうか……そんな情けない気持ちが自分にあることに、上坂は憂鬱な気分になった。


 しかし恵海はそんな上坂の気持ちを知ってか知らずか、慌てて否定するように首を振ると、


「いいえ、日本に残ると決めたのは私の本心からの気持ちでしたの。いっちゃんの気にすることじゃないですの。それに、もしもあのままドイツに行っても、きっと何にもならなかったでしょう。お父様のお金とコネを使って学問を習得しようとしても、それじゃ今と変わらないじゃないですか。そうではなく、私は自分の力だけでどこまで行けるかどうか、確かめたくなったんですの」

「……確かめる?」

「はいですの。と言っても、やっぱりお父様に経済的にご迷惑をおかけしてしまうのですけれど……普通なら誰もが通る道をちゃんと通って、真っ直ぐ進みたいなと。ちゃんと高校を卒業して、音大に入学してそこで勉強して、コンクールにも出て、自力で欧州へ留学するチャンスを掴んで、それから本場の音楽を学びたいと、そう思ったんですの。だから、今すぐ欧州に行きたいとか、そんな気持ちは端からありませんですわ。

 でも、もしもそのチャンスを得たら、その時はもう迷わないと思います。あなたにもちゃんと認めてもらえるように、しっかりお話をして、笑顔で見送ってもらえるように努力したい。そして私がまたこの国に帰ってきた時、あなたに待っていてほしいと、そう思っているのですわ」

「……そっか。うん。エイミーならなれるよ、きっと。今すぐ離れ離れになっちゃうと思ったら、すごく寂しかったけど……」

「それは私もですわ。いつだって、いっちゃんとお別れするのは寂しいです……でも、社長にも言われたんですの」

「姉さんに……?」

「人が人と寄り添うというのは、ただ一緒にいればいいわけじゃないって。愛する人が苦しんでいるとき、支えになれなければ意味がないって。丁度、あなたが辛い時に、私は泣いていることしか出来ませんでした。先生のことをお伝えするのも、本来はお父様に任された私がしなければならなかったことなのに、和尚様に嫌な役目を押し付けてしまいました。あの時、もしも私が彼のように、自分の進むべき道をしっかりと歩いていたら、きっと迷わなかったと思いましたわ。あの時の私には、何があってもあなたを支えるという自信が無かった。私は私の道を歩いて、それを見つけに行かなければならないなって、今はそう思いますですの」


 上坂は感嘆のため息を吐いた。恵海は彼よりも年下なのに、もう自分の道を歩き出そうとしている。それも上坂のために、強くなりたいと願っているのだと知って、彼はとてもうれしく思った。


「そうか……そういうことなら、俺も応援するよ」

「ありがとうですの」


 そして彼女が上坂を大事に思うように、彼もいつか彼女の支えになりたいと強く思った。二人の瞳が交差する。キラキラとした瞳が上坂を捉えて、まるで吸い込まれそうだった。二人がお互いを見つめ合いながら、その顔が徐々に近づいていくと……


「おっほん!」


 と、その時、二人の横合いからわざとらしい咳払いが聞こえてきて、二人はハッとなって距離を取った。


「この部屋、暑いわね……空調効きすぎてるんじゃないかしら」


 アンリはまるで植物でも観察するかのような無表情で、頬杖をつきながら二人を藪睨みしていた。ズズズズズっと、パックジュースが音をたてる。上坂たちは真っ赤になって俯いた。


 その後、白眼視するアンリを交えて3人で空々しい会話が続いた。


 聞くところによると、アンリは恵海が美空学園に転入してくる際にかなり活躍してくれたらしい。


 シャノワールで恵海が演奏会をやって以来、あの店はフレンチ界隈でピアノが売りの店という立ち位置になっているらしい。それで、次はいつやるのかという問い合わせが相次いでいたのだが、あの時は恵海はドイツに行くつもりだったので、どうしようかと困っていたそうだ。


 幸い、恵海の紹介でピアニストの確保が出来ていたので、次回、次次回くらいまではなんとかなりそうだった。だが、そこから先が続きそうもない。元々、シャノワールは前オーナーが趣味で演奏会を開いていたくらいで、別段、音楽界にコネがあるわけでもないのだ。


 ところが、そんな時に上坂と恵海がやっぱり日本に残ると言い出した。たまたま彼女の料理の面倒を見ていたアンリは、そのことをいち早くクロエに伝え、それなら是非また店に立ってくれと、恵海はクロエに要請され快諾した。


 そんなわけで、またシャノワールに立つことになった恵海であったが、先程の通り、どうせ日本に残るならちゃんと学校に通いたいとアンリに相談した。アンリは店に来てくれるという恩に報いるために、あちこちに連絡をして今回の転入のために尽力してくれたらしい。まあ、ほとんど御手洗に丸投げだったそうだが……


 連絡を受けた御手洗は、恵海の学習状況を踏まえてすぐに入学を許可したらしい。幸い、家庭教師をつけて最低限の教養はあり、高卒認定資格を持っていた彼女は、出席日数さえなんとかすれば、卒業をゴリ押し出来るそうである。音楽室登校と言う、かなりアクロバティックなことをやっているので、マスコミにバレたら叩かれそうではあるが……


 そんなわけで、美空学園に通うことになった恵海であったが、


「でも、西多摩から通うのは大変じゃないのか?」

「それなんですけど、立花社長が便宜を図ってくださったんですの」

「姉さんが?」


 聞けば、シャノワールの仕事を受けるにあたって、もはや逃げ回る必要も無くなった恵海は、改めて立花プロにマネジメントをお願いしたらしい。社長である愛は、それなら西多摩じゃ不便だから都心に出てこいと、美空島のすぐ目と鼻の先にあるタワマンの一室を用意してくれたそうだ。


 そんなに業界に力のあるプロダクションでもないのに、なんて豪勢なんだと思ったら、どうやらそのタワマンの持ち主は、姉である立花倖……つまり、元々上坂が住んでいた家のことだった。


 あの日、上坂達が暮らしたマンションは吹き飛んでしまったが、復興の過程で再建されると、区分所有者だった倖の部屋もちゃんと用意されたようである。


 尤も、持ち主が死んでしまったので、それを愛が相続し、以来、売ることも出来ず、住むにも不便で、空き家のまま放置していたそうである。


 それはもう、かつて上坂が暮らした部屋ではない。だが、たとえ形を変えたとしても、自分たちが生きていた証が残っていたということに、上坂は何だか言いようのない、モヤモヤとしたものを感じた。


 行けばそこに先生がいるわけではない。だがそれを確かめないわけにもいかない。


 そんな彼の気持ちを察したのか、恵海は放課後になったら是非家に遊びに来てくれと上坂を誘った。アンリは二人きりにしたら、きっといかがわしい事をするからと言って、自分もついていくと言いだした。


 そんなお為ごかしを非難しながらも、正直なところ、今は二人きりになると、際限なく憂鬱になってしまうかも知れないと思ったから、彼女の申し出は少し有難かった。


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