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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第四章・永遠の今
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やめてくれよ、上坂君

 翌朝、上坂は寺に来て初めて朝のお勤めを休んだ。


 昨夜の様子ではそれも仕方ないだろうと思った縦川は、彼不在のまま日課をこなし、昨日色々あって調達しそびれた朝食を買いに行き、ジャムパンをかじりながら、気が乗らないまま株式相場が寄り付くのをぼんやりと眺め、なんとなく生前の立花倖が言っていたような大型株にちょこちょこと買いを入れては、結局すぐに売ってしまって、手数料を支払っただけという無駄な午前を過ごした。


 正午になっても上坂はまだ起きてこなかったが、疲れていたらそういうことも有りうるだろうと余り気にせず、きっと起きてきたらお腹をすかせているかも知れないと思って、コンビニに廃棄弁当を調達しに行っては、帰ってきて一人さびしくそれをつつき、後場が始まって暫くしてから、流石に少し眠り過ぎじゃないかと様子を見に行ったが、上坂はまるで死んだように眠っていて……と言うか本当に死んでいるんじゃないかと不安になるくらいに、わざわざ耳を近づけて寝息を確認してしまうくらいに、彼は泥の中にズブズブと沈んでいくかのように深く深く眠っていた。


 体が疲れていても、ここまで深く眠るようなことはないだろう。心が疲れていると、こんな信じられないくらい眠ってしまうのだ。どんなに疲れていても毎朝必ず起きてくる普段の彼からは想像もつかなかった。きっとこんなに眠ってしまったのは、赤ん坊以来のことじゃないだろうか。


 ふと思う。そう考えると赤ん坊というものは、あの可愛い見た目からは想像もつかないくらい、ずっと気疲れしてて不安定な生き物なんじゃなかろうか。ある日突然、知らない世界に放り出されて、身動きも取れず、不安で不安で仕方ないのだ。頼れるのは、毎日食料を運んでくれる母親だけで、彼女に泣いて縋って依存して崇拝して……思えば我々はあれから何も変わっちゃいない。酷く鈍感になっただけだ。


 可哀想にと、自然とそんな気持ちが湧き上がる。だが同情するなんてそんなおこがましいことは出来ないし、したくない。縦川は上坂よりずっと長く生きているけれど、二回も母親を亡くしたなんて経験はないのだ。じゃあ、この気持ちは嘘なのか。キリストは慈愛を説いた。家族と同じように隣人を愛しなさいと。対して釈迦は慈悲を説いた。家族のことのように、共に悲しみなさいと。縦川は僧侶である。僧侶である自分は、同じ悲しみを背負ってあげられるだろうか。


 そんなことを考えていると、御手洗から電話がかかってきた。昨日話した通り、上坂を引っ越させるための学生寮の準備が整ったとの連絡だった。いつものことながら仕事が早いと感心していると、上坂にもう引っ越しの話をしてくれたか? と聞いてきたので、肝心の本人がまだ起きていないと言うと、だいぶ面食らっているようだった。


 尤も、昨日の今日ではそれも仕方ないと彼は納得すると、学生寮のことは上坂が落ち着いてから話してくれればいいと言っていた。上坂は眠り病患者を救うために日本に残ったわけだが、江玲奈の方も当面はそっちのことも気にするなと言っていたそうである。肝心の上坂がやる気でないなら、無理やりやらせたところで意味がないのだそうだ。それどころか、絶望した上坂自身が眠り病になってしまう危険性すらある。


 多分、そんなことにはならないだろうが……確かにあの嘆き方を見たあとでは不安になった。それくらいは予言でわからないのかなと思いもしたが、彼女もこれから先の未来については見当がつかないのだそうだ。昨日、冷静さを欠いた上坂にも糾弾されていたが、一見何でも知ってそうに見えて、預言者というのは曖昧な未来しか見えてないものらしい。


 その他、ドイツ行きに当たってはパスポートが必要なのだが、御手洗の力を持ってしても発行を早めるのは不可能のようだった。ホープ党は政権与党でないだけに、役所関係には力が及ばず、やはりズルは出来ないようである。尤も、渡航費用は御手洗が持ってくれるそうで、こっちの方は大いに助かった。縦川みたいな貧乏坊主では、欧州への旅費はLCCでも目玉が飛び出るくらい高いのだ。


 そんな感じに今後のことを御手洗と話し合ったあと、電話を切って暫くしてからようやく上坂が起きてきた。まだ夏だから外は明るかったが、そろそろ涼しい風が吹き始める頃合いだった。


 起きてきた上坂はタイムスリップでもしてしまったのかと呆然としていた。まさか自分がこんなに寝こけるとは思いもよらなかったようだ。どうも、あれだけ長い間眠っていたくせに、その間、一度も目が醒めることは無かったらしい。普段は8時間も寝れば寝過ぎなくらいで、自然と目が醒めるものだが、人体の神秘である。


 よく寝たおかげか顔色は良かったが、寝すぎたせいか頭がはっきりしない様子で、彼はフラフラになりながら寺務所のダイニングテーブルに腰掛けると、縦川が渡したコップの水をぼんやりと見つめたまま固まっていた。昨日から何も食べてないから流石に腹が減っただろうと、昼に仕入れてきた廃棄弁当をあげたら、彼は暫く考えたあと、まるで紙でも噛んでるかのような表情で、モソモソとそれを食べ始めた。きっと、食欲がないのだろう。


「雲谷斎。先生は死んだのか……」


 咀嚼するばかりで飲み込めない上坂のために、縦川がお茶を沸かしていると、その背中に声がかけられた。縦川はドキッと心臓が高鳴るのを感じつつ、どう言えば上坂が傷つかずにすむかと考えながら、結局、そんな都合のいい言葉など何も思い浮かばずに、


「……ああ」

「そうか……」


 上坂はそう一言だけ返すと、またモソモソと弁当を食べ始めた。表情はピクリとも動かない。まるで顔中の筋肉という筋肉が全部断裂してしまったかのようにのっぺらぼうだった。


 シンと静まり返る部屋の中で縦川は居たたまれなくて、かと言ってテレビなどつけるような雰囲気でもなくて、彼はとにかく何か喋らなきゃといった義務感のようなものに追い立てられて口を開いた。


「先生とのお別れは愛さんが行くことになったよ。それで、あちらでお葬式をあげるということで、俺も一緒に行くことになったんだ。上坂君も行ければ良かったんだけど、どうも難しいようだから、代わりに俺が精一杯、先生のためにお祈りしてくるから、どうか堪えて欲しい」

「そうか……」


 上坂はその言葉を聞いて意外そうな表情で顔を上げると、ぼんやりと縦川の顔を見つめながら、


「お寺さんがそうしてくれるなら、俺はそれが一番良いと思う。俺がやれることは何でもするから……どうか、先生が安らかに眠れますように、何卒よろしくおねがいします」

「やめてくれよ、上坂君」


 縦川は堪らず言った。


「水臭いこと言わないでくれよ。ほんの短い間とは言え、俺たちは一緒に暮らした仲なんだ。俺にとっても先生は、家族みたいなものなんだ。俺は先生のことを、自分のお姉さんみたいに思っているし、君のことだって、弟みたいに思ってるんだ。家族の間にそんな遠慮は要らないよ。そうだろ」


 上坂は縦川の言葉を聞いてから、暫くじっと黙ったまま彼のことを見つめていたが、やがて力が抜けたかのように、がくりと肩を落としてから、


「俺も、そう思ってるよ」


 彼はそう呟くと、これっぽっちも表情を変えることなく、少し泣いた。感情はもう揺れ動くことは無いのに、ただ涙が溢れる、そんな機械みたいだった。


********************************


 上坂の精神は消耗していたものの、生活の方は翌日にはもういつもどおりになっていた。朝、縦川が本堂に行くと、そこにはもう上坂が来ていて、本尊の前からほんのちょっと脇にずれたところに、座布団を敷いて正座していた。お経を読んで本堂を掃除し、布団を干して朝食を食べて、比較的落ち着いていそうだったから、縦川は今後について、ぼちぼちと話をしてみた。


 美空学園の学生寮へ入らないかと言ったら、上坂はほとんど嫌がる素振りを見せずにそれを受け入れた。一応、欧州に行ってる間、一人だと心配だからという体で話をしたのだが、そんな理由をわざわざつける必要も無かったようだ。彼は自分が狙われるかも知れないと言う事実を認識していた。そしてここに居ると縦川にも累が及ぶ危険性があるということも。


 ただ、落ち着いたらまた帰ってきても良いかと言うので、縦川はもちろんだと答えた。もしかしたら迷惑をかけるかも知れないと上坂が言うから、そんなもの気にするなと答えた。この場所を気に入ってくれたことが嬉しかった。ただ、少し気になったから聞いてみた。上坂は将来、何になりたいんだろうか。寺に住んでるからって、まさか僧侶になりたいわけでもあるまい。自分の夢に向かって動き出すなら、この場所に縛られている必要もないではないか。


 すると上坂は虚を突かれたように押し黙ってしまった。まだそんなことを考えられるような心境でも無かっただろうに、縦川は失言だったと後悔した。


 大体、将来何になりたいかなんて、ほとんどの人がわからないのだ。わからないから足掻いて大騒ぎして、落ち着くところに落ち着いているのだ。縦川だって、あの日、打ち捨てられた死体の山を見るまでは、自分が僧侶になるなんて思いもよらなかったのだ。たった今、傷ついて迷っている人に、将来のことなんて尋ねるようなものじゃない。


 縦川は慌てて会話を修正するように、学校の事を話し始めた。学生寮は学校と同じ美空島にあるから、今までは通学に一時間もかけていたが、今度からは好きなだけ寝坊できるだろう。寮にはGBや日下部も住んでて、楽しいからってあんまり夜更かししないようにと言うと、説教坊主めと窘められた。


 引っ越しが決まると、そこから先は早かった。元々、上坂は私物が無くて身一つで寺に来たから、学生寮に持っていくものも殆どないのだ。寺に来てから買った洋服と布団を詰めて、教科書類とあとは立花倖の遺品をまとめたら、荷物はそれくらいのものだった。学生寮にはテレビがないから、レトロゲーム機が遊べないのを上坂は残念がったが、スマホは持ち込んでいいそうなので、退屈はしないで済むだろう。


 午前中に荷物を詰めて、御手洗に連絡し、午後に商店街で軽トラを借りて寺の前に止めていたら、呼んでもないのにコンビニオーナーとスナックのママがやってきて、荷物を運ぶのを手伝ってくれた。彼らは上坂の荷物を見ると、これしかないのかと気の毒がって、餞別だと言っては、あれやこれやを勝手に荷台に放り込んだ。


 期せずして満杯になってしまったトラックの荷台に幌をつけて、荷物を縄で固定してると、気がつけばあちこちから近所の住人が集まってきた。商店街の青年会やスナックの常連客、寺に遊びに来る猫の飼い主やら、毎日掃除をしに来てくれるおばさん。呼んでもないのに、なにやってるの? と勝手にやってきては、上坂が引っ越すと聞くと一様に驚いて残念がる。その一人ひとりにお別れを言っていたらキリがないので、ある程度話しが済んだら、上坂は逃げるように軽トラックの助手席に乗り込んだ。


 車窓から外を覗けば無数の視線が突き刺さる。こんなに沢山の人がわざわざ見送りに来てくれたのか。上坂は、やはりいつかここに帰ってこようと思った。たったの3ヶ月足らずとは言え、なんやかやここが今のじぶんちなのだ。


 トラックが動き出す。みんながお別れの言葉を言って手を振る。車窓から身を乗り出せるような道幅もなく、仕方なくバックミラーを見ていたら、彼らはトラックが角を曲がるまで、いつまでもいつまでも手を振っていた。


 池尻大橋から山手通りに入り、中目黒を通り過ぎて、いつもは船で東京湾へと出る天王洲アイルの手前で道を南下する。大森を過ぎて蒲田へと出て、新都市計画で林立するタワーマンションのジャングルを走り抜けると、旧羽田方面、美空島へかかる唯一の橋が見えてくる。


 元々運搬橋だったそれの出口にはゲートが設けられてあって、一般車両が島内に入るには通行料と許可が必要だった。許可証を貰って、フロントガラスの目立つところにそれを貼り付け、学生たちが我が物顔で闊歩する島に入り、制限速度10キロという遅さで、いつもの通学路を進んでいくと、やがて美空学園が見えてきた。


 学生寮はそこから少し離れた場所にあった。島の端っこの海に面した立地だった。8階建てと、島の中では大きめの建物であったが、すぐ対岸にタワーマンションがあるせいか、相対的にかなり小さく見えた。小学校の運動場くらいはありそうな中庭に軽トラで入っていくと、どこからともなくワラワラと学生たちがやってきた。


 物珍しそうに軽トラを囲む学生の中には、上坂のクラスメートもいたらしく、彼らは上坂が引っ越してきたことを知ると、荷物運びを手伝ってくれることになった。そのうちGBも出てきて、彼は上坂が来たことをとても喜んでいた。上坂の性格上、馴染むまで時間がかかりそうだと勝手に想像していたが、それはどうやら縦川の杞憂だったようである。


 上坂の部屋は最上階だったが、この人数とエレベーターのおかげで、あっという間に片が付いた。満杯だった荷台が空っぽになって幌を外すと、手伝ってくれた学生たちが、勝手にその上に乗り始めた。


 歓迎会するから、このまま蒲田まで連れてってくれという学生に対し、これ違法じゃないのかな? と思いつつ承諾する。上坂はそんな気分じゃないと断ろうとしていたようだが、こういうのも大事だからとGBに説得されて、仕方なさそうに折れていた。それを見て縦川は、ほうと感心の息を吐いた。思えば初めて会ったときとは比べ物にならないくらい、彼も人間的に成長したものである。


 学生たちに早くしろと急かされて、軽トラに乗ってエンジンをかける。


 ところが、その時、ふいに学生寮の出入り口の方から、


「いっちゃん!」


 と上坂を呼ぶ声が聞こえてきて、少女漫画みたいなつぶらな瞳をした、やけに線が多いボブカットの少女が歩み寄ってきた。


「あれ? エイミー?」


 恵海は嬉しそうな表情で近づいてくると、運転席に座っていた縦川に会釈をした。彼女から少し遅れて、アンリエットもやってきて、ペコリとお辞儀する。その様子からするに、恵海に島内の案内をしていたのだろう。でも、どうしてこんなところに居るのだろうか? と、縦川たちは首をひねった。


 突然の美少女の登場に、上坂のクラスメートたちがざわついている。知り合いなら紹介しろと、無数の熱い視線が上坂に突き刺さる。彼はそんなクラスメートの方は見向きもせずに、


「どうしてエイミーがここに?」

「美空学園に用事があって尋ねてきたら、丁度いっちゃんがやってきたんですの。御手洗さんから教えて貰って、アンリさんに案内して貰ったんですわ」

「どうも」


 アンリが気怠げに手を振る。クラス委員長だから、先生に無理やり押し付けられたのだろうか。ところで、どうして恵海が美空学園に来ているのかと尋ねようとしたら、


「おい、上坂、こちらはどちら様だ」「上坂の知り合い? 紹介しろよ」「どうも! 俺、上坂くんとは特別親しくして貰っております」「あ、てめえ! 騙されないでください、俺のほうがもっと上坂と仲良しです」「俺のほうがもっと仲良し」「俺も俺も」


 クラスメートたちが上坂を押しのけるように前に出てきて、だらしない顔で恵海を取り巻き始めた。彼女は元芸能人らしく、にこやかな表情を絶やさずに、それに応対している。その姿が可憐で、いよいよ顔面がスライムみたいにどろどろに溶けていたクラスメートたちであったが……


 そんな時GBがボソッと、「その子、上坂の彼女だぞ……ちっ」と言って舌打ちすると、次の瞬間、上坂のボディに次々と肘打ちが叩き込まれた。


「ぐっ、う、う゛げぁ~……な、何をするんだよっ!?」


「黙れリア充が、爆発しろ!」「そうだそうだ」「お前には失望した」「もう友達だと思うなよ」


 上坂が非難の声をあげるも、クラスメートたちはお構いなしに罵詈雑言をまくしたてては、不愉快そうにトラックを飛び降り去っていった。


「おいこら、歓迎会はどうしたんだよ?」


 と言っても、誰一人として振り返りもしなかった。恵海が慌てて上坂の元へ駆け寄ってくる。GBはニヤニヤしていて、アンリは能面みたいに無表情だった。運転席で一部始終を見ていた縦川は苦笑いしながら、


「楽しそうなクラスだね」

「楽しくないよ、ちっとも」


 ふてくされるように上坂はそう言ったが、今朝起きたときよりも、少しだけ表情が柔らかくなっていた。


 結局、歓迎会は取りやめとなり、上坂はその場に残ったGB達と軽トラの荷台に乗って、橋の手前のゲートまで、縦川を見送りに行くことになった。


 トラックの荷台に恵海と寄り添うように座っていると、海風が強く吹き抜けていった。助手席に座ったアンリとGBの楽しそうな会話が聞こえる。


 遠巻きに手を振るクラスメートたちに手を振り、クラクションを鳴らしてトラックが動き出すと、夕日に照らされた雲がゆっくりと流れていった。西の空は、夏の終わりの濃い紫に覆われていた。季節が変わろうとしていた。


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