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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第四章・永遠の今
81/137

自分には何も出来なかったんだ

 寺務所の中はしんと静まり返っていた。場の醸し出す重苦しい雰囲気に、その場にいる誰もが飲まれてしまい、身動き一つ取れなかった。


「え? なんだって? よく聞き取れなかった」

「……先生は、お亡くなりになられたんだ」

「ごめん、よく聞こえない。もう一度言ってくれる?」

「だから、上坂君……」

「もう一度だ」


 立花倖の訃報を聞かされても、上坂は耳がおかしくなってしまったのか、それを受け入れることが不可能だと言わんばかりに、何度も何度も同じ質問を繰り返した。縦川はそんな彼に向かって辛抱強く、出来るだけ優しい口調で同じ返事を返した。


 周囲を取り巻く人々も、指先一つ動かすことが出来なかった。下手に口を挟んだりすると、爆弾が爆発してしまうかのような気がして、息をすることすら躊躇うほどだった。


 だがいつまでもそうしているわけにはいかない。どんなに嫌なことでも、現実はいつか受け入れなければならない。


 やがて何度めかの質問のあと、ようやくその言葉の意味を理解できたのか、上坂の顔色が見る見ると変わっていく瞬間が訪れた。それでも彼はカチカチと歯を鳴らしながら、自分の耳に入ってきた信じられない言葉を否定しようと、どこかに抜け穴がないかと必死になって考えているようだった。


 だが、基本的に頭の回転が早い彼のことだから、例えどんなにそれを望まなくても、その事実を受け入れるのに時間はかからなかった。


 彼はそれでも誰かに嘘だと言ってほしくて、恐る恐る周囲を見渡した。沈黙する人々は、みんな上坂から視線を外して、空中の何もないところを見ていた。恋人の恵海でさえ、彼の視線を避けるように、俯いて肩を震わせている。彼のことをじっと真摯な表情で見つめているのは、さっきから辛い報告をする役目を負っていた縦川ただ一人だけだった。


 血液が逆流しているんじゃないかと思うくらい、すごい悪寒がして全身の力が抜けていった。頭の中では何かごちゃごちゃとして落書きみたいなものが蠢いていて、上手く考えがまとまらない。


 上坂が呆然とソファに腰掛けていると、外から車のクラクションの音が聞こえてきた。どうやらこんな路地に車が迷い込んできたらしい。慌てて御手洗と恵海の運転手が飛び出していったが、その表情はどことなくホッとしているようだった。誰も彼も、こんな場所には居たくないのだ。


「……嘘だろう? どうして、先生が……なあ、何かの冗談なんだよな? 俺を担ごうとしてこんなことしてるだけなんだろ?」


 寺務所の扉がゆっくりとしまっていくのを見つめながら、上坂が空中に向かってつぶやくように言った。それは半分独り言のようなものだったが、縦川は自分に対する質問だと判断し、


「俺だって嘘だと思いたいよ……でも、どうやら事実なんだ。夕方にエイミーさんが来てから、直接白木会長と電話をして確かめた。先生はドイツに帰ってすぐ……お亡くなりになられたらしい」

「嘘だ! 絶対嘘だ! だって、おかしいだろ!? 先生とは、つい一昨日別れたばかりなんだぞ? あの時、なんにも無かったじゃないか。先生、いつも通りピンピンしてたじゃないか! 病気でもなんでも無いのに、どうしていきなり人が死ぬんだよ!?」

「それはその……先生は病死でも事故死でもなくてだね……つまり……」


 上坂が叫ぶようにそう問い詰める。本当のことを言えばショックが大きいかも知れない。縦川はそう思って口ごもった。


「上坂の言う通りだ。和尚、一体何があった?」


 するとそれまで重苦しい雰囲気に沈黙を強いられていた江玲奈も同じ疑問を持っていたらしく、彼に追随してきた。縦川は上坂よりは江玲奈の方がまだ冷静だろうと思い、彼には悪いと思いつつも、江玲奈の方に向き直ってから話し始めた。


「それが……ここに滞在していた時、彼女自身が言っていたんですが……先生は5年前から秘密結社に命を狙われていたそうなんです。FM社のワクチンに監視チップが仕込まれてることを公表しようとして以来ずっと……この無防備な寺にいた時にも何も無かったから、俺は彼女の気にしすぎだと思っていたんですけど……」

「……つまり、ユキは殺されたのか?」


 江玲奈がその残酷な事実に言及する。縦川は渋々と首肯すると、目を見開いて食い入るように彼の顔を睨みつけてきた上坂の視線から、逃げるように顔をそむけた。


「殺された……だって?」


 上坂はわなわなと震えながら、


「嘘だ! だって、先生は日本に居るよりも安全だからドイツに行こうって俺に言ったんだぞ? 実際、あっちにはエイミーのお父さんも居るんだし、先生の家はこんな誰でも入ってこれるような寺なんかよりも、ずっとセキュリティが良いはずだろう」


 彼の言葉にうなずきつつ、縦川は言った。


「上坂君の言う通り、ドイツの先生の家は結構な要塞らしい。実は今までも度々襲撃を受けていたそうだけど、そのたびに何事も無く撃退していたそうだ。だから白木会長も安全だと思っていたそうなんだけど……」

「そうだろ!? やっぱり、何かの間違いなんじゃないのか?」

「ところが、そのセキュリティが突破されてしまったそうなんだよ」


 縦川だって、上坂のみたいに現実逃避的な思いを口にしたいところだった。だが、事実を捻じ曲げてまで、そんな妄想に身を委ねたところで何も始まらないだろう。


「和尚、それで具体的にユキの身に何が起きたんだい? 詳しいことを話してくれないか」


 このままでは埒が明かないと言った感じに江玲奈が問う。縦川は狼狽する上坂を気の毒に思いながらも、淡々とした口調で続けた。


「ドイツに帰った先生が、白木会長と電話でお話していた最中のことらしいんですが……先生の家の玄関をこじ開けようとしてる不審者が現れたそうなんですよ。帰ってすぐの襲撃には流石の先生も面食らってたそうですけど、10分もしないうちに警備員がやってくる手はずになっていたし、先生の家は爆弾を使ってもびくともしない構造になってたそうだから、きっと大丈夫だろうと思ったそうです。とりあえず、悠長に話をしている場合じゃないから、二人はそのまま電話を切って、会長はセキュリティ会社から報告が来るのを仕事をしながら待っていたそうです……そしたら」

「その不審者とやらがユキを……?」

「おそらくは」

「でも、どうやって? 簡単には入れない仕組みになっていたんだろう?」


 縦川はそれを聞いて欲しかったんだといった感じに二回頷きつつ、


「それがおかしいんです。事件発覚後、警察が現場検証したところ、玄関は破られたわけじゃなくて、どうも中から解錠されたようなんですよ」

「……中から?」

「ええ、まるでわざわざ先生が招き入れたかのような感じで……AYF社の警備員は、会長が通報してからすぐに出動し、実際に10分程度で現場に到着したそうです。ところが、そのときにはもう襲撃者は現場から立ち去った後で、玄関は開きっぱなし、家の中はもぬけの殻だったそうです。たった10分の間に、一体何があったのか……」

「……美夜は?」


 二人が事件当時の状況を話していると、それを聞いていた上坂が疲れ切った表情でそうつぶやく。縦川は首を振った。


「現場には先生の御遺体以外には何もなかったらしい。会長がおっしゃるには、先生の研究成果や美夜ちゃんのオリジナルのデータなどが、片っ端から奪われていたそうなんだ。美夜ちゃんもそれと同じように、研究成果として連れ去られたんじゃないか。襲撃者は用意周到のようだった。十分足らずの間に、まるで初めからどこに何があるのか、全部分かっていたかのように、すべてを持ち去ってしまったんだ」


 また沈黙が場を支配する。江玲奈は唇を噛み締めながら何かを考えているようで、上坂はうつろな表情で宙を見つめていた。その瞳は何も映し出していなかったが、最初のときよりは少し現実を受け入れ始めていたのだろうか、うっすらと涙が浮かんでいた。


 上坂はそのままの姿勢で、誰に目を合わせること無く、自分に言い聞かせるような口調で言った。


「……行かなきゃ。先生を、このままにしてはおけない。美夜だって探さなきゃ」


 彼はそうつぶやくと、そわそわとしながら応接セットのソファから立ち上がった。隣に座っていた恵海が、困惑気味に彼の姿を目で追う。縦川がそんな彼を制するように立ちふさがる。


「ちょっと待ちなよ。行くって……ドイツにかい?」

「他にどこに行くっていうんだよ。俺は先生の息子なんだ。なら俺が彼女を弔わなければならない。そして先生の墓前に誓う、襲撃者を見つけ出すと。絶対に、絶対に許さない……落とし前をつけてやる」

「落とし前って……何をする気だい」

「今更、人を殺すことに躊躇いなど無い。どうせ、俺の手は血で汚れているんだ……」


 上坂らしからぬ物騒なセリフに絶句していると、今度は江玲奈が縦川の代わりに上坂の進路を遮るようにしながら言った。


「落ち着きなって、上坂。行ってどうする。君に何が出来ると言うんだ。大体、眠り病患者の方はどうする? ついさっきまで彼らに親身になっていたのに、それを投げ出していくのかい?」

「投げ出すって……今はそんなことやってる場合じゃないだろう!?」

「冷静になるんだ。ユキは何故殺されたんだ? 彼女の言う、秘密結社が実在していたからだろう。そいつらはドイツ国内にまだ潜伏しているはずだ。そんなところへ君がノコノコ行ったら、殺されるだけだぞ」

「それでも、俺が行かなきゃならないだろうがっっ!!!」


 キンキンと鼓膜を震わすような大声が深夜の寺に響き渡った。縦川は、普段の上坂から想像もつかないような大声に度肝を抜かれて、一歩二歩とたじろいでしまった。気の毒な恵海がソファの上で縮こまっている。


 彼は興奮するようにフウフウと鼻息を鳴らしながら、


「俺が今まで生きてこれたのは、何もかも先生のおかげなんだ! その先生が殺られたってのに、指を咥えて黙ってることなんて出来るかよっ! 仮に殺されるとしても、俺はドイツに行かなきゃならない!!」

「だから落ち着けって、君は今冷静さを欠いている。大体、復讐するならするで、まずは相手のことをよく調べてからでも遅くはないだろう? 普段の君ならそれくらいのこと分かるはずだ」

「そんな悠長なことはやってられるかっ!」

「……埒が明かないな。とにかく、今すぐ君がドイツに行くのは許可できない。御手洗にも協力はさせない。いや、彼だって君の無謀な行いには反対するだろう。だからとにかく今は落ち着いてだなあ……」

「どうして邪魔するんだ!!」


 上坂は苛立ちを隠そうともせずに叫んだ。その瞳はギラギラと光っており、普段の彼からは想像つかないくらい血走っていた。彼はまるでゴミでも見るような冷たい目つきを江玲奈に浴びせかけると、


「大体、おかしいじゃないか! 君は未来が見通せるんじゃなかったのか!? 先生が死ぬのが見えなかったのか!? 君が一昨日、空港で先生を引き止めてくれていれば、彼女は死なずに済んだんだぞ! こうなることが分かっていたなら、何故止めなかった! 先生が死んだのは、君のせいじゃないか! そうだ、おかしいぞ? 俺をドイツに行かせなかったのも、はじめから君の策略だったんじゃないのか!?」


 突然、怒りの矛先を向けられた江玲奈はウッと息を呑むと、不快そうに眉毛を歪めた。流石にこれには彼女も腹を立てたのか、ほんの少しトーンを下げた声で、


「……日本に残ると決めたのは、君自身じゃないか。僕は何も言ってない」

「そうなるように俺を誘導したんじゃないのか! 予知が出来るんだから、俺を思う通りに動かすことだって造作もない!」

「そんなことするわけないだろう。僕だってユキのことは気に入っていたんだ、もしもそんなことが出来るなら、君の言う通り彼女を引き止めていたはずだ。そうしなかったのは、それが出来なかったという証拠だろう」

「今更、それをどう信じろっていうんだよ!!?」


 江玲奈はため息を吐くと、


「……だから最初に説明しただろう。僕が見えるのは大局だけで、個人的な未来は予知しても外れてしまうんだ。特に人の生死に関しては、ほぼ不可能だと思っていい。何故なら、僕が死を予言したら、言われた本人はそれを回避しようとするだろう? すると僕の予知は外れることになる。必ず外れるなら、最初に予知したこと自体が矛盾になる。結果、予知すること自体が起こらなくなる。過去にさかのぼってそういう事が起きるんだ。人にとって、過去も未来も一つではない、無限に枝分かれする可能性の世界の一部に過ぎないんだから」


 彼女はそう言って説明をしたが、興奮する上坂の頭ではそれを理解できなかった。


 彼は彼女が言い訳をしているようにしか思えず、ぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、


「君の予知が外れるんなら、俺が君の言う世界の終末とやらに付き合う義理もないじゃないか! ならもう、君との約束はこれでおしまいだ。俺は自分勝手にやるし、君も自分勝手に俺を妨害すればいい」

「だから、妨害なんてしていないさ。子供じゃないんだ、いい加減に頭を冷やせよ」

「うるさいっ! 君の言うことはもう聞きたくない! 帰れ! もう帰ってくれ!」

「上坂!」

「うるさいっ! うるさいっ! 俺の邪魔をするんじゃないっ!」


 まるで駄々っ子みたいに上坂が癇癪を起こした。普段の、年に似合わず冷静な彼からは想像できないような取り乱し方に、理不尽な怒りをぶつけられていた江玲奈もたじろいでしまった。


 彼は小柄な江玲奈をドンッと突き飛ばすと、手近にあった自分のスマホと財布をひったくるように手に取って、寺務所から出ていこうとした。


 あっけに取られていた縦川は我に返ると、このまま彼を一人で深夜の街に行かせちゃまずいと、慌てて追いかけようとした。


 ところがその時、上坂が今まさに開こうとして手をかけた扉が、まるで自動ドアみたいにガラガラと開いた。勢い込んで出ていこうとしていた上坂がたたらを踏む……かと思うと、


「こらあああぁぁぁーーーー!!!! 女の子にそんな乱暴はしないっ!!」


 突然、キンキンと耳をつんざくような声が部屋中に響き渡る。


 その大声を真正面からもろに受けてしまった上坂が、意表をつかれて後退る。見れば寺務所の玄関に、どことなく見覚えのある一人の女性が仁王立ちしていた。


「え……ええっ!? 立花先生??」


 縦川は突然の来客に目を丸くしながらも、一体誰だろうかとその姿を捉えた。するとそこに、死んだはずの立花倖が立っているのを見つけて、彼は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。


 しかし、もちろんそんなことはない。そこにいたのは、死んだはずの立花倖に良く似ているが、彼女とは明らかに別人だった。ものすごく似ているけれど、全くの別人、言わば、親戚か姉妹と言った感じである。


 案の定、縦川がそんな印象を持ちながら女性のことを見ていると、ソファで縮こまっていた恵海が突然立ち上がり、


「し、社長!? どうしてここに……」

「エイミーさん、知り合いなの?」


 すると彼女は焦ったような素振りで、


「は、はいですの……彼女は立花愛さん。私が芸能活動していた時にお世話になっていたプロダクションの社長さんで、倖先生の妹さんですの」


 道理で似ているわけだと感心していると、その社長と呼ばれた女性はじろりと恵海の方を一瞥しながら、


「恵海……最近コソコソしていると思ったら……突然、芸能活動を再開したり、ドイツに行くとか言い出したり……そういうことだったのね」


 ジリジリと詰め寄るような足取りで愛が寺務所に入ってくると、恵海は冷や汗を垂らしながら後退った。まるで蛇に睨まれたカエルのようである。何をそんなに焦っているんだろうかと首をひねっていると、


「……恵海、あなた、姉さんが生きているって知ってたのね……? こんな大事なこと、どうして隠していたのよ?」


 愛がそう呟くのを聞いて、縦川もハッとなった。


 立花倖は世間的には5年前の東京インパクトで死んだことになっていたのだ。それ以来、彼女は自分を狙う秘密結社の魔の手が家族に及ばないように、自らの生存をひた隠しにして生きていた。


 恵海は倖に頼まれて、愛にばれないように逃げ回っていたのだ。それをおかしいと思った彼女との間で、追いかけっこのようなことが起きていたらしい。


 愛はズカズカと寺務所に乗り込んでくると、その場にいた縦川と江玲奈を一瞥し、続いて上坂の方を真っ直ぐ見つめた。


「……戸籍上死んだことになっていた姉さんが海外で死んだからって、ドイツの領事館から照会があったのよ。最初は何言ってるかわけがわからなかったわよ。もう隠す必要もないからってAYF社からも連絡があって、それでようやく何が起きたのかわかったってわけ。驚いたわよ。死んだと思っていた姉さんが生きていて、かと思えば、やっぱり死んだから遺体を引き取りに来いってさ……母さんなんかあまりのショックで引きつけ起こしちゃって、今寝込んでるわよ」


 愛が一言一言をつぶやくように言うたびに、上坂の身体がビクビクと震えていた。いつの間にか彼の顔色は真っ青になっており、さっきまでの勢いはどこへやら、まるで今にも死にそうな目をして彼女の話を聞いていた。


「その過程であんたが生きているって知って飛んできたのよ。5年前、姉さんと一緒に死んだとばかり思っていたのに……生きてたんなら、何で連絡してこないのよ!」

「すみません……」


 上坂はまるで死刑の宣告でも受けているかのようだった。どうしてそんなに恐れているのだろう? もしかして二人は仲が悪いんだろうか? 縦川が不安に駆られながら見ていると、理由はそれとは全然別だった。


 上坂は真っ青な顔で、目だけをうさぎみたいに真っ赤にして、酸欠の鯉みたいに口をパクパクさせながら、絞り出すように言った。


「今まで連絡しないでごめんなさい……先生が生きているって知ったのは、俺も最近で……先生が生きてて俺も嬉しくて、もう絶対離れ離れにならないって思ったのに、なのに、俺は先生を守れなかった。先生はいつも俺を助けて、俺のことを考えてくれてたのに……肝心な時に俺は先生と一緒にいられなかった。俺が……俺が先生を殺したようなものなんです」

「バカッ!」


 愛は震える上坂の体を抱きしめると、


「辛かったでしょう。苦しかったでしょう。あんた、小さい頃から姉さんにべったりだったでしょ。その姉さんが死んで、あんたが悲しくないわけがない。それくらい分かってるわよ。あんたは今、深く傷ついているんだわ。でも心の傷は見えないから、あんたは自分を追い込んでその代償としている。それは鳥が自分の羽をむしるような行為よ。そうやって、なんでも一人で背負い込むんじゃないわよ」

「でも、俺が……俺がいれば先生は……」

「あんたがいてもどうにもならなかったわよ。姉さんは天才よ。あんた自身が、それを一番よく知ってるんじゃないの」


 上坂は何も言い返せなかった。彼女の言う通り、倖は上坂なんかより何倍も切れ者で、自分自身彼女に頼りっぱなしだったのだ。その場に自分が居れば何か出来ると思うのは傲慢だ。


 そうだ。自分には何も出来なかったんだ……


 そのたった一言が、気丈にも最後まで張り詰めていた彼の心の抵抗を奪った。瞬間、彼の全身から力が抜けて、強張っていた腕がだらりと垂れ下がった。愛は今にも倒れそうな彼の体を支えるようにギュッと抱きしめると、


「今は何かしていないと落ち着かないんでしょうけど、もっと人を頼りなさい。悲しいのはあなただけじゃない。みんな悲しいのよ」

「……う……うわあああああああーーー!!」


 その瞬間、彼は堰を切ったように泣き出した。表情は殆ど変えること無く、ただ目から止め処なく溢れる涙を流しながら、獣みたいな泣き声を上げた。それは聞くものの心をえぐり取るような、魂を揺さぶる咆哮だった。


 こうして上坂は立花倖の死を受け入れた。それは幼い子が母親を失った時と同じような衝撃で、原始的な恐怖が頭いっぱいを占めてしまって、彼はもう自分が何に悲しんでいるのかさえ忘れてしまうくらい、何も考えることが出来なかった。


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