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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第四章・永遠の今
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生命とは何か

 生命とは何か。人はどこから来て、どこへ向かうのか。始まりとは? 終わりとは?


 人は死を恐れる、それは誰しも死んだ経験がないからだ。死んだら一体どうなってしまうのか? やり残した事があったらどうしよう……腐り果てた動物の死骸を前にして、自分もいつかああなるのだなと投影して、我々は不安に思うのだ。


 しかし考えてみよう、我々は生まれたときの記憶だってないのだから、生を恐れない理由もないだろう。我々は生きているから様々な苦しみを感じる、裏を返せば、この世そのものが地獄であるのだ。死ねば解放されるのであれば、死は寧ろ祝福ではないのだろうか。なのに何故恐れるのか。


 我々は何故生きているのか。どうしてこんな苦しみだらけの世に生まれてきてしまったのだろうか……


 生命の起源とは何なのか。実はまだよく分かっていない。我々を構成する要素から過去に遡って考えることは可能だろう。だが、ビッグバンみたいに素粒子まで遡って考えても意味はない。生命が何らかの分子から作られているのは分かりきっている、アミノ酸に核酸、脂肪に糖、だがそれらを形作る、一つ一つの分子は生命ではないのだ。


 生命の起源には色々な説があるそうだが、最も有力なのは深海の熱水から生まれたという説だろう。つい最近にも、深海の地下1万メートルの地中から生命の痕跡が発見されたそうである。


 地球の表面、マントルの上には大陸プレートや海洋プレートと呼ばれる硬い地面が浮かんでいる。浮かんでいるという通り、これらのプレートは軽い。例えば理科の実験でコップの底に二酸化炭素が溜まり、逆さまにした試験管の上部に水素が溜まるように、重い物質は地球の中心へとズブズブと沈むわけだから、マントルの上に乗っかっているプレートは軽いはずだ。


 さらに言えば、大陸プレートのほうが海洋プレートよりも軽く、軽いから海の上に陸地が突き出しているわけである。すると、これらプレートの境目では、軽い大陸プレートの方が海洋プレートの上に乗っかっており、逆に海洋プレートの端っこは大陸プレートの下にズリズリと引き込まれる格好になる。この引き込まれる時に起きる摩擦エネルギーがどんどんと蓄積されて、ある時バネみたいにビョンっとズレると、東日本大震災のような大地震が起きるわけである。


 ところで、プレートの境目では海水もじわじわと地球の中へ染み込んでいく。それはプレートの境目を伝ってどんどん地中に入り込んでいくが、地中奥深く行けば行くほど強大な圧力を受けるから、やがて水は水蒸気になり逆流し始める。すると水が水蒸気になったことで出来たスペースを埋めようとして、またそこに水が流れ込んできて、地中で水の循環が生まれる。


 こうして出来た高温高圧の水の流れは、マントルのかんらん岩やら玄武岩やら花崗岩、様々な岩石や鉱物の表面に触れ、その触媒作用によって化学変化を起こしはじめる。海の底には他にも色んな物質が溜まっていて、プレートの境目に引きずり込まれているだろうから、中には特殊な反応もあるかも知れない。更には出来上がった化学物質同士が反応し合って、また別の物質を生み出すかも知れない。


 一つの物質が変化して別の物質になり、その物質を利用して、さらに別の物質になる。


 海の底ではこうした変化が絶えず起こり続けており、1億年単位という長い年月をかけて、あるとき生命が誕生したと考えられている。光の届かない極寒の世界で、どうして多種多様な生命が誕生したのか不思議であるが、そこにはプレートに押しつぶされた熱水というエネルギーがあったわけだ。


 そうして生まれた最初の生命体は、熱水の中でだけ変化を繰り返しただろう。それは熱水のエネルギーが有る限りは、同じことを続けるわけだが、やがて海中に飛び出してきたらそれも終わる。熱水の循環から押し出され、エネルギーを与えられなくなった生命は、それまでとは逆の反応を起こして、最後は元の水へと戻ってしまうだろう。始まりであり、終わりである。最初の生命は、そんな限定された空間でしか生きられなかったはずだ。


 故に、暫くすると熱水から押し出されても持続できる生命が誕生した。メタン菌は海水に溶けていた二酸化炭素を餌にして、メタンを生成して得られるエネルギーで生きることが出来た。この方法なら熱水という限られた空間にとどまる必要がないから、メタン菌はやがて海中に広がり、深海から浅い海まで進出する。すると太陽の光が届くようになって、その中から光合成生物が生まれた。


 おそらく最初の光合成生物と言われているシアノバクテリアは、海中の二酸化炭素を酸素に変えた。酸素は多くの生物にとって何の利用価値もない物質だったから、大気中にどんどん溜まっていった。


 やがて二酸化炭素が尽きてきて、地球が酸素だらけになってくると、メタン菌の勢力は衰え、今度は酸素をエネルギーに変える好気性のバクテリアが勢力を伸ばし始めた。中でもミトコンドリアはピルビン酸を与えると、酸素を使ってATP(エネルギー)を効率良く生み出すことが出来る優れたバクテリアだった。


 すると嫌気性の生命は、なけなしの餌を探すよりも、こいつを取り込んじゃった方がエネルギー的に断然楽だからと、ミトコンドリアとの共生を始めた。ミトコンドリアを体内に住まわせ、せっせと餌を運んでエネルギーを作ってもらうのだ。


 これが真核生物の誕生であり、そしてここまで進化したところで、ようやく我々にも馴染み深い生物が生まれたのかなと、漠然と感じられるようになるわけである。


 そもそも生命とは何なのか?


 NASAに言わせれば『生命とは、ダーウィン進化を受けることが可能な、自己保存的な化学系』のことであるそうだ。噛み砕いて言えば、環境に適応するために、自己を更新することが可能な事象一般のことである。生物とは、自己複製(細胞分裂)し、代謝(エネルギーの獲得や生体分子の合成)する、容れ物と考えればいいだろう。


 容れ物とは別に比喩でもなんでもなく、実際、我々は容れ物なのだ。


 多細胞生物と言うだけあって、我々の身体は沢山の細胞から出来ている。皮膚や骨のような外殻を作る細胞や、白血球やリンパ球のような免疫細胞、クエン酸回路に代表される代謝のための酵素など。また口内や腸内には常在菌が多数棲息しており、その数はなんと人間を構成する細胞の数よりもずっと多いそうである。


 つまり、我々の身体はスポンジみたいにスカスカであり、そこに夥しい数の生命が暮らしている……我々人間は色んな細胞や細菌が寄り集まって出来た、一つの集合体なのだ。これらの何かが欠けても人間は生きていけないだろう、しかしだからといって大腸菌が人間であるわけではない。一つ一つの構成要素は必須ではあるが、単独では意味をなさない、全体が大事なわけである。人間を含む多細胞生物は、体全体が一つの生態系(エコシステム)みたいなものと言えるだろう。


 そしてこの生態系をコントロールしているのが、脳である。脳はタンパク質から酵素を作り、肺から取り込んだ酸素を使ってミトコンドリアにATPを作らせ、そうして蓄えたエネルギーを使って細胞分裂し代謝する。交感神経と副交感神経を切り替え、16時間くらい起きたら眠くなり、寝たら8時間くらいで目が覚める。細胞を作るために必要な素材を、食欲という形で摂取するように促す。子孫を残すために異性を見るとムラムラする。


 生命はこのようにして自己保存を行っている。人間も猿も、猫も犬も似たようなものである。だが、ここに『私』があるかと言えばそうではない。人間以外の動物は自分が自分であると意識していない。考えられるのは、せいぜい生存本能であり、生命活動の最低限のことだけだ。


 そんなことはないぞ。犬猫は賢くて心があるのだ! と言い張る原理主義者だって、犬猫が人間のように音楽を作ったり、小説を書いたり、セックスするためにレストランを予約したりすることは無いと、認めざるを得ないだろう。やっぱり人間は特別なのだ。


 ところでこの『私』はどこにあるのか? そもそもこの『私』とは何なのか。


 『私』とは状況判断をする際に利用される主観のことだ。人間は困難に直面すると、これから起きることを予想してシミュレートする。そのシミュレーションの主人公が『私』だ。主観は脳内に存在し、そこで完結している。ある意味『私』は思考のためだけに生み出された道具だ。


 この、他の動物には見られない、『私』はいつ生み出されたのか。我々の身体が猿みたいな体毛で覆われていた頃には、恐らくまだ無かったはずだ。


 その昔、我々人類の祖先は猛獣の住まうアフリカの奥地で、木の上に怯えるようにして暮らしていた。人類は脆弱で、筋力だけではなく内臓も弱くて、食料と言えば木の実と、体内に寄生虫を飼ってない鹿肉くらいしかなかった。だから氷河期がくると真っ先にサバンナから追い出された。人間が生きるための餌は他の動物に奪われてしまったのだ。


 ところが、木の上から落とされたことで人類の逆襲が始まる。地面に這いつくばる生活を余儀なくされた人間は、身の安全を図るために二本足で歩くようになった。すると木の上で暮らしていた頃には塞がっていた両手が自由に使えるようになり、武器を持つことが出来るようになった。更には、突然変異で両手の親指の可動域が反転し、指先で細かい作業が出来るようになった。


 この拇指反転が人類に劇的な変化を与えた。人間は細かい作業を続けるうちに脳が巨大化していき、小脳を覆う大脳新皮質が著しく発達した。大脳新皮質で、人間は各種センサー……視覚や聴覚、触覚などの情報を処理し、経験を記録し、より複雑に物事を考えられるようになった。


 そして火を発見したことで食料のバリエーションが増え、道具を作ることで猛獣と戦う力を得て、仲間と会話を交わすことで効率的に狩りを行えるようになった。更には文字を作り出し、洞窟に壁画を書いたり、巻物にして知識を後世に伝えることが出来るようになったのだ。


 ところで、生まれたばかりの赤ちゃんは言葉を知らない。人間は成長する過程で、親兄弟から言葉を学び、その言葉を使って物事を考え始める。そしてある日突然、ハッと自我が芽生える。


 幼稚園や小学校のころは、自我はまだおぼろげであり、第二次性徴期の頃になって、社会の理不尽さを感じたり、異性を好きになったりして、やっと『私』というものがあることに気がつくのだ。


 つまり、『私』は生まれたときにはまだ存在せず、言葉を覚えて初めて生じるわけである。『私』は後天的に獲得するものであり、人間が先天的に持って生まれる特徴ではない。


 人間は生命体である。『私』は人間であると自覚している。だが、この『私』というものは、生命ではないのだ。


 もう一度NASAの定義に戻ろう。『生命とは、ダーウィン進化を受けることが可能な、自己保存的な化学系』のことである。


 人間に限らず、あらゆる動物は思考する。自己が危機に晒されると、思考し、それを回避する。お腹がすいたら、どこへいけば餌がありそうか、記憶の中からそれを見つけ出す。暗闇で耳を澄ましては、周囲の状況を把握し、ここで眠っても安全かどうか判断する。思考とは、生物が自己保存しようとして獲得したものであることは間違いない。


 だが、人間の思考は自己保存のためだけにあるのではない。人間は思考して、音楽を作ったり、絵を描いたり、小説を書いたり、会話そのものを楽しんだり……スポーツで新記録を出そうと計画を立てたり、囲碁将棋で神の一手を模索したりする。


 これらは生存のために必要なことではない。だが我々人間は、こういうものこそ後世に残したがっている。それは何故だろう。


 ところで、コンピュータも思考する。ゲームの分野では、もはやAIが人間を凌駕しているのは間違いない。クイズの帝王もAIには敵わない。今では小説や音楽を作り始めてもいる。あとは言語を獲得すれば、AIが人間と同じような思考を開始し、人類と見分けがつかなくなるのは時間の問題だろう。


 では、そうなった時、AIは生きていると言えるだろうか。AIも生物になったんだと言えるだろうか。


 もちろん、そんなことを言う人は一人もいないだろう。AIは……それを動かしているコンピュータは、機械であり無機物だ。人間みたいに有機化合物じゃない。


 なら、有機物の身体を機械の脳で動かした人造人間……九十九美夜のような存在なら、これは生命と呼べるだろうか?


 多分、これも殆どの人が生命ではないと言うのではないか。いくら彼女の身体が人間と同じだと言っても、脳は機械仕掛けなのだ。なら生物とは呼べないのではないか。大方の人がそう思うだろう。


 だが、これまで述べてきたとおり、思考とはそもそも生命ではない。我々は、心の中で『私』という主観を持っているが、これ自体は実は生命ではない。『私は生き物だ』と思っているその考え自体が間違いなのだ。


 逆に考えてみよう、もし今、『私』の腕がちぎれて、ここに機械の義手があったとする。『私』はそれを取り付ける。『私』は今、人間か、機械か? ……もちろん、人間だ。なら今度は足がちぎれて、義足をつけよう。今度はどうだ? 人間だ。なら次は……こうして次々と身体のパーツを入れ替える。


 そして最後に残った脳を機械に入れ替えた時、果たして『私』は人間と呼べる存在で居られるだろうか?


 これは非常に難しい問題だ。おそらく『私』自身は自分のことを人間だと思っているだろう。他の人達も、心情では彼のことを人間と呼んでも構わないのではないか? と考えるのではないか。


 じゃあ、質問を変えて『これは生命か?』と尋ねた場合はどうだろうか。おそらく、『私』も含めた殆どの人が、『それは違う』と即答するのではなかろうか。


 人間であるのに生命ではない。矛盾である。だが殆どの人がその矛盾を何となく受け入れてしまうのではないか。


 何故だろう? それは我々が主観で物事を考えるからだろう。実際には頭の中だけにしか存在しない、記号に過ぎないこの『私』を、我々は普段から人間と認識している。つまり、生物としての人間と、意識としての人間は元からずれているのだ。


 我々人類は生物の頂点に立ち、いつの間にか生命の危険をあまり感じなくなった。人間にとって一番の天敵は人間くらいのもので、自然界で生死について考えるようなことは少なくなった。科学が発達すると生活は便利で豊かになり、よほどのことがない限り餓死するような空腹を感じることもなくなった。情報化社会が訪れると頭の中で思考を巡らせることが多くなり、生物としての活動について、あれやこれや考えなくなった。


 実際、殆どの人達が、自分たちが毎日食べているものが、どうやって作られているか知らない。寿命は伸び、病気に罹っても薬ですぐ治ってしまう。晩婚化が進み、熟年離婚が増え、そしてその命が尽きようとするとき、『私』を忘れないでと願う。人間は死に際しても、生物としての種の保存よりも、自分の記憶を残そうと考えるのだ。


 そう、自分の記憶を残そうとする……つまりDNAよりも、機械的な信号の方を、我々は残そうとしているのだ。人間はどうやら、生命からは逸脱した存在になりつつあるらしい。少なくとも、頭の中ではそうなっている。だから今後、人間の記憶がハードディスクのような機械に記録できるようになったら、間違いなく人類はそうするだろう。


 そこにAIと人間の区別はあるのか?


 人間はいつか機械化される。恐らく、それはもう間もなく始まるだろう。最初は脳の拡張から始まる。例えば視覚情報が拡張され、今まで見えなかった周波数が見えるようになったら、人類はそこに新しい可能性を見出すだろう。我々はすぐに忘れてしまうが、写真のように記憶を外部に保存して、機械を使っていつでも呼び出せるようになれば、間違いなくそうするだろう。例えば、将棋を指しているとき、最善手を見つけてくれるソフトが自分の脳内で動くとしたら? すでに似たようなことをしている連中は、必ず手を出すだろう。


 そうならない理由はないのだ。


 そうして我々の体は徐々に機械化されていき、いつか殆どのパーツが機械になってしまうだろう。そう、我々の体を作っているのはパーツなのだ。一つの生態系(エコシステム)が、一つの機械の集合体(アーキテクチャ)に変わることに、どんな抵抗があるというのか。


 我々が残そうとしているのは電気信号的記憶であり、生命としての有機化合物じゃない。


 そして永遠に生きるようになれば、そこに生物と機械の区別は要らないはずだ。人間はAIに、AIは人間になるのだ。


 だが2029年の現在、人類はまだそのことを受け入れる準備は出来ていなかった。


 彼女はそんな世界の片隅で、じっと世界の行く末を見ていた。彼女はAIとして生まれ、人間になりたいと願った。だが彼女はどこまでもAIとして扱われ、ついに人間になることが出来なかった。


 70億も人がいて、彼女はそのすべてを知っているというのに。70億も人がいて、その誰もが彼女のことを知らない。そういうものに、『私』はなろうとしていた。


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