鉤十字の日
それから数日が過ぎ、立花倖の帰国の日。彼女はみんなに見送られながら、成田空港からドイツへ帰ろうとしていた。
日本の戸籍の上では死者である彼女は、来る時は密入国でこっそり日本にやってきたのだが、テレーズの計らいでローゼンブルク国籍を取得したお陰で、帰りは堂々と大手を振って帰れることになった。
そんなことしなくても、帰る方法はいくらでもあると一度は断ったのだが、テレーズが倖は恩人の恩人であるからと言って、国王である祖父に頼んで無理矢理なんとかしてしまったらしい。入管情報とかはどうしたのか気になるところであるが……なにはともあれ、これで彼女はもう逃げ隠れはせず、堂々と日本を行き来できるようになったわけである。
たまたまシルバーウィークに被っていたからか、空港のロビーは人でごった返していて、気をつけないと逸れてしまいそうなくらいだった。搭乗手続きを終えた倖は、ギリギリまで別れを惜しんで上坂たちと話をした。
そんな彼女の見送りには、縦川と御手洗、もちろん上坂、そして念願叶って彼と恋人同士になったばかりの恵海がやってきていた。2人はあの日、お互いの気持ちを確認したあと、上坂は倖に、恵海は海外の母親に報告をして、晴れて親公認のお付き合いを始めたのだ。
それ以来、毎日のように逢瀬を重ねており、見てるこっちのほうが恥ずかしくなってしまうくらい、仲睦まじ姿を周囲に見せつけていた。10年越しに思いが通じたのだからある程度は仕方ないだろう。だが余りにも仲が良すぎるものだから、倖がドイツに行ってしまったら、1人でこの2人の面倒を見なければいけなくなる縦川は、ほんのちょっぴり憂鬱な気分であった。
尤も、それは大事な息子を置いていく倖も同じだったらしくて、2人はチェックインカウンターの前で人目をはばからずに、
「いい? 雲谷斎さん。2人が学生の本分を逸脱するような付き合いをしないように、くれぐれもよろしくお願いするわよ」
「ええ、そりゃもちろん。俺自身、アツアツカップルの間に挟まれてちゃ、居たたまれないですからね。でも、上坂君に限ってそんな心配は無用でしょう。彼が間違いを犯すはずがない」
「私が心配しているのは恵海の方よ。あの娘の母親は高校生の時分には、もう恵海を妊娠してましたからね……今は12人目を妊娠してるって話だし。あの娘はあの恐ろしい両親の血を受け継いでるんだから、信頼なんかしてうっかりすると目を離したすきに、途端にぽこじゃか産み始めるわよ」
「そんなまさか、家畜じゃないんですから……」
「家畜の方が発情期がある分、まだマシよ! あなただって見たでしょう? あの娘が上坂君の布団にくるまって何をしていたか……」
言われて縦川は思い出した。倖が日本に来た翌日、一度だけ恵海が寺に宿泊したことがあったが、その時、彼女は上坂の布団に入り込んで一人悶絶していた。あの頃はまだ微笑ましいだけだと思っていたが……今の2人の仲良しぶりと、あまりにも深刻そうな倖の口ぶりを聞いていると、段々怖くなってきた。
「そ、そうですね……一応、上坂君には避妊具を常備させることにしましょう。あとは2人がお泊りをするような事態になることだけは、絶対に避けようかと思います」
「そうしてください、切実に」
倖と縦川がそんな風に顔を突き合わせて話をしていると、当の本人たちが複雑そうな表情で口を挟んできた。
「先生……その辺でもう勘弁して下さいよ。絶対そんなことにならないように気をつけますから」
「私だって上坂君のことは信用してるわよ。でも、同じ女として、白木家の習性を目の当たりにしてきた者として、どうしても心配が尽きないの」
「そんな心配しないでくださいよ。あちらのお父さんとも約束したんです。俺は絶対にエイミーを泣かせるようなことはしませんから」
「その娘はむしろ泣きたいのよ! ベッドの上で、野獣みたいに!」
「うう……私、信用が無さすぎですの……」
恵海が涙目でしょんぼりすると、上坂がそんなこと無いよと慰めの言葉をかけた。その間も2人はずっと手をつなぎ合っていて、視線が合うたびにまるで運命の出会いみたいに見つめ合ってしまうのだから、はっきり言って見ている方はやっていられない。
倖と縦川はここまで悪し様に言われても、やっぱり二人っきりの世界に入っていってしまう上坂達を見て、微笑ましく思う反面、確かな危機感を覚えていた。本当にコイツラ、うっかり繁殖しないだろうか……
「みなさん!」「ただいまなのれす」
4人がコントみたいなやり取りをしていると、みんなのために飲み物を買いに行っていた御手洗と美夜が帰ってきた。御手洗は両手にトレイを持って、美夜は両手にコンビニ袋を下げている。
機内での暇つぶしのために、美夜に雑誌を買ってきてくれるように頼んだのだが、御手洗はそんな彼女が心配だったのか、お守りを買って出てくれたようだった。まだ若手とは言え、かなり偉い代議士の先生のはずなのに、全くパシリを厭わない姿勢は見習いたいものである。
御手洗から飲み物と軽食を受け取ると、倖と恵海は出発ロビーの椅子に腰掛けた。その周りを美夜と男たちが取り囲む。御手洗は土産物を差し出しながら、
「これ、頼まれてたものです。あとテレーズ……と言いますか、大使館から伝言です。ドイツに帰ったら、一度ローゼンブルクに行ってください。王宮の一部が役所になってるんですが、そこで新しい身分証の手続きやら何やらの他に、大公陛下が個人的に先生にお会いしたいそうです」
「ローゼンブルク大公が……? 何の用かしら」
「先生を大公に紹介する際、テレーズが先生のことをまるで武勇伝のように語っていましたから、興味を惹かれたのでしょう。及ばずながら私も、先生の人柄を陛下によくお伝えしときましたよ」
「う……それはプレッシャーね。まあ、ケルンから国境も近いし、一度アウトバーンを飛ばして遊びに行ってみるわよ」
「いい国ですよ。町並みは欧州そのものですが、その人種の多さはニューヨークに通じるものがあります。東洋人やアラブ人だからと、差別もありません」
「よく知ってるのね。学生の頃、留学していたんでしたっけ?」
「いえ、卒業したあとビジネスインターンです。我が家の家業を継ぐ関係上、金融の知識が求められましたから、国際的なプライベートバンクで名を馳せたあの国に留学したんです」
「へえ、それでどうして王族と仲良くなんてなれたの?」
「ビジネスパートナーの紹介で、王宮の方とたまたま懇意になりまして。あの国の王族は、とにかく語学だけは誰にも負けないように教育する方針を立ててるものですから、日本人の私はテレーズの家庭教師として重宝されたんですね。私も幅広いコネクションを欲していた時期でしたから、渡りに船でした」
「それが巡り巡って日本の、それも平行世界で上坂君と知り合って、私が国民になっちゃうんだから、人の縁ってのは不思議なものよね」
「まったくですね。江玲奈さんというイレギュラーな存在がいるとは言え、ここまで数奇な出会いはなかなか……いや、江玲奈さん自体の方がもっとぶっ飛んでいますか」
御手洗は苦笑交じりにそう言うと、キョロキョロと上坂達の方を見て、彼らが和気藹々と話をしていて、こちらの様子を気にしていないのを確認してから……
「その、江玲奈さんなのですが……」
「……なにかしら?」
「実は先生ではなく、美夜さんを止めるように託宣を受けました。先生が帰ることは構わないが、上坂君が残るなら彼女もこの国に残しておいた方が良いだろうと」
「美夜を……?」
逆ならともかく、倖を帰して美夜を残そうとする意図がわからない。御手洗が託宣と言っているからには、それは予言なのだろうが……
「それで私にどうしろと言うのか尋ねたのですが、それ以上は何も言われず、あとは我々の判断に任せると……やはり個人の未来と言うものは、はっきり予知してしまうと駄目なんだそうです」
「そうらしいわね。肝心なことを言ってしまうと、必ず外れるって」
「予言とはこういうものなのだと知ってはいましたが、なんとも歯がゆいものですね……それで、どうされます?」
「ふーん……エレナがそう言うのならそうした方がいいんでしょうけど……前にも言った通り、一度メンテナンスも兼ねて美夜を連れて帰りたいのは本当なのよ。上坂君が残るならって但し書きがついてるなら、きっと彼の役に立つから美夜を残せってことなんだろうけど……」
倖は少し考えてから、
「なら、出来るだけ早くこっちに戻すようにするわ。本当なら、じっくりとあの子の体を調べたかったんだけど……今回はオーバーホールの必要が無いか脳のスキャンと、記憶のバックアップくらいでいいでしょう。オリジナルは私が握ってるんだしね」
「そうですか。私にはさっぱりですから、先生の判断にお任せします」
2人がそんな会話をしていると、その時、場内にチャイム音が鳴り響いて、場内アナウンスが聞こえてきた。
『〇〇航空1××便は、まもなく、最終搭乗手続きを開始いたします。ご搭乗なされるお客様は、○番ゲートまで、お急ぎください……繰り返します……〇〇航空……』
出発ロビーのあちこちで、手荷物を持って立ち上がる人たちが見えた。倖も手にしたコーヒーを飲み干すと、空のコップを御手洗に手渡してから、上坂と最後のお別れをしていた美夜に向かって言った。
「美夜! そろそろ行くわよ」
「ふみゅ~……名残惜しいれす。もっと神様と遊びたかったれす」
縦川と恵海に頭を撫でられながら、しょんぼりと美夜が言った。見た目は10歳の子供だから、そんな顔を見せられると罪悪感が湧いてしまう。倖は苦笑いしながら、
「何も一生あっちで暮らすってわけじゃないでしょ。今回は身体検査だけにしたから、今月中にまたこっちに戻ってこれるわよ」
「あれ? 徹底的に調べるんじゃなかったんですか?」
当初の予定では年内はあっちにいると聞いていた上坂が目をパチクリさせながら倖に尋ねた。つい今まで、別れを惜しむ美夜相手に、冬休みになったら恵海と一緒にドイツに遊びに行くと約束していたのだ。
「うん、ちょっと事情が変わってね。美夜はすぐに返すことにしたわ」
「そうなんですか。じゃあ、冬休みは美夜も連れて先生に会いに行きますね」
予定はちょっと変わってしまったが、どっちにしろ冬休みはドイツで過ごすことになるだろう。上坂がそう言うと、倖はにっこりと笑った。
『〇〇航空1××便は、ただいま、最終搭乗手続きを致しております。ご搭乗なされるお客様は、○番ゲートまで、お急ぎください……繰り返します……〇〇航空……』
そんな話をしているうちに時間を食ってしまったのだろうか、また空港アナウンスが聞こえてきた。飛行機が乗客を置いて飛んでいってしまうことはないが、流石にそろそろ急がなければ、他の乗客に睨まれてしまう。倖は美夜の手を握ると、
「さ、行くわよ」
「ふみゅ~……神様。お嬢様。またなのれす~」
美夜の手を引いた倖がゲートを潜って搭乗口へと歩み去っていく。美夜は何度も振り返ってはこちらに手を振っている。やがて2人は長いエスカレーターに乗ると、後ろを振り返って上坂に向かって手を振った。上坂は隣に並ぶ恵海の手を握りしめながら、階上に運ばれていく倖に向かって叫んだ。
「先生! お元気で! 必ず会いに行きます!」
雑踏と場内アナウンスのせいで、彼の声が届いたかどうかはわからない。だが、倖が振る手の速度がほんの少し早くなったから、こっちの意思は伝わっただろう。
上坂の方も手を振る速度を早めると、大きく背伸びをしながら、その姿が完全に消えて見えなくなるまで、二人のことを見送った。
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ドイツ、ケルン。
ルール地方の南に位置する都市に立花倖の今の家はあった。彼女を支援する白木家のAYFカンパニーの拠点がこの辺りにあるからだ。彼女はそんな古くて美しい街並みが見える丘の上に、住居兼仕事場の研究所を建てて住んでいた。
その家は外から見ると小洒落た中世風の家に見えたが、その実、中身はハイテクの塊で、もしも何も知らないでうっかり泥棒にでも入ろうとしたら、泥棒自らが警察に保護されることを望みたくなるような、そんなガチガチのセキュリティが施されていた。そのハイテクシステムを制御するのは九十九美夜オリジナルであり、人間の知能を超越した汎用AIによる堅牢な要塞は、恐らく国際レベルのハッカーであっても容易には侵入できないであろう代物だった。
倖は久しぶりの我が家に帰宅すると、まずはその堅牢なセキュリティを慎重に解除しなければならなかった。生体認証だけではなく、彼女の知識も試されるものだったが、結局はこういったアナログ的な鍵が一番有効なのだ。
家の鍵を開けるのに手間取っている彼女の背後で、おなかがすいたとグズグズ言っている美夜の声をイライラと聞き流しながら、彼女はセキュリティを解除すると、およそ1ヶ月ぶりの我が家へと足を踏み入れた。帰ったらすぐに身体検査をするために、美夜には半日ほど何も食べさせてなかったのだ。
『おかえりなさいませ、マスター。そして、ワタシ』
家に入りリビングへ向かうと、美夜オリジナルの声が聞こえてきた。ラボのコンピュータ上にいる彼女が、2人の生体反応を感知したのだ。倖はそんな彼女の声に返事する。
「ただいま美夜。元気してた? 留守の間は変わったことなかった?」
『はい、マスター。ワタシは元気です。そして留守の間、何も変わったことはございませんでした』
「ふみゅ~、お腹減ったのれす。美夜は元気じゃないのれす」
するとコンピュータ上の美夜と、人の体を持った美夜の2人が同時に返事を返してきた。
そう言えば、この2人はどっちも美夜なのだ。人間からするとオリジナルとコピー、機械と子供、という歴然とした差があるのだが、彼女たち本人はいまいちその違いを認識出来ないらしいのだ。
「ややこしいわね。取り敢えず、こっちのちびっこが家にいる間は、コンピュータの方はオリジナルと呼ぶことにするわ。いいかしら? オリジナル」
『かしこまりました。マスター』
オリジナルはそう言って沈黙した。もしも人造人間の方の美夜に言ったら、確実に駄々をこねるところなのだが、オリジナルはこの通り必要以上のことには一切関知しない。コンピュータ上にあるのと、人間の体を持つこととで、これだけの違いが出てしまうのだ。これは一体何故なのだろうか。未だに不明な事実に頭を悩ませながら、倖は美夜を連れて家の中に作られたラボへと向かった。
「どう? 美夜。久しぶりの我が家は落ち着かないかしら。でも、ここがあなたの生まれた場所なのよ」
倖はラボに連れてくると、多数の計器が並ぶ中に置かれた診療台を指さした。美夜はそれをプラスチックみたいに無関心な目で一瞥すると、
「ふみゅ? 美夜はここで生まれてないれすよ。美夜はアメリカで神様に作ってもらったのれす」
「ああ、そうだったわね。肉体を持つあんたも、やっぱりそういう感覚なのね。不思議なもんだけど」
「美夜は変ではないのれす。何が変なのかよくわからないれす」
「ごめんごめん。変なんて思ってないわよ。寧ろ感心していたの。あんたは本当に上坂君に対して忠実よね」
「神様は神様れすよ?」
「そうね。それじゃ、ちゃっちゃっと始めちゃいましょうか。服を脱いでそこの診療台に乗っかっちゃってちょうだい」
倖がそう言うと、美夜は何も言わずに言われたとおりに服を脱ぎだした。旅の疲れもあるだろうが、一切文句を言わないのは、一応マスターとして認識されているからだろうか。
倖は診療台に寝転がった美夜のことを、オリジナルに解析するように命じると、診療台の上にフードが降りてきて美夜を包み、彼女の身体検査が始まった。こうなるとしばらくはやることもないので、手持ち無沙汰になった倖は久々に戻ってきた研究室のパソコンを起動して、何か変わったことがないかとメールチェックを始めた。
するとポップアップが表示され、美夜を解析中であるオリジナルが、
『先程、マスターの留守中、白木会長からご連絡がございました。帰宅したら折返し連絡が欲しいとのご要望です。おつなぎ致しますか?』
「ええ、お願いできるかしら」
倖がドイツに戻ることは、恵海を介して伝えてあった。だからそろそろ戻ってるだろうと、ほんのついさっき電話が掛かってきていたようである。オリジナルが美夜を解析中の間、暇つぶしにもってこいだし、繋げてくれと指示をする。呼び出し音が数回鳴った後、電話は繋がった。
『もしもし? 立花先生ですか』
「ええ、久しぶりね。元気してた」
『もちろんですとも。先生もご息災でなにより。ご子息ともお会いになられたようで良かったですね。あの爆発の中でまさか本当に生きているとは。いやはや、凄い子ですな、彼も』
「まったくね。でも一番凄いのはあんたの娘よ。私ですら諦めてた彼のことを、ずっと待ち続けてたんだもの。あんなこと、普通なかなかやれないわよ」
『そうですな。親としては、それで娘の気持ちの整理がつくのならと……そういったつもりで日本に残るのを許可していたのですが、最後は粘り勝ちですな』
倖は一応、上坂の保護者として聞いてみた。
「……実は上坂君と恵海がお付き合いすることになったんだけど、あんた知ってた?」
すると白木会長は二つ返事で、
『ええ、ええ、聞いておりますよ。先生がこちらに帰るよりもずっと前に、当の上坂君本人からお電話をいただきました。自分のわがままで恵海を引き止めるようなことをして申し訳ないと。そして自分が如何にあの子のことを好いているかをよく話してくれました。まったく、出来た子ですなあ』
「そ、そうだったんだ……やるわね。でも、子を持つ親として、それで良かったの?」
『……? 何を気にすることが有るというのですか。寧ろ避妊の心配は必要ないから、大いにやってくれと言っておきました。妻はあの年頃にはもう身ごもっておりましたから。子供が出来ても全部面倒見ると言っていたら、感動のあまり彼も言葉を失っていたようですが』
「それは絶句してただけよっ!! あんたんちと違ってうちの子は繊細なんだから、程々にしといてちょうだいっ!!」
『そうですかあ? どんな聖人君子であっても、親公認でヤリまくれるとあっては、手を出すのも時間の問題ですぞ。いやあ、今から孫の顔が楽しみだ……そうすると立花先生とも親戚ということになるんですね。これからはお姉ちゃんとでも呼んだほうがよろしいのでしょうか』
「おおお、恐ろしいこと言わないでよっ!? あんたにそんなこと言われるくらいなら、今すぐ首かき切って死んでやるっっ!」
『何もそこまで嫌がらんでも……』
白木会長は落胆する素振りを見せつつも、その声はどことなく嬉しそうだった。彼は気を取り直すように咳払いしてから、
『ところで、日本滞在時は大丈夫でしたか? お一人で渡航すると聞いた時は肝を冷やしましたが……先生、飛行機に乗ってから電話を掛けてきても、我々も護衛のしようがありませんぞ』
「悪かったわよ。上坂君が生きていたって連絡が入って、居ても立ってもいられなかったのよ。私も飛行機に乗ってから気づいたくらいだから、敵も同じように油断していたんでしょう。日本滞在中は驚くほど静かだったわ」
『あれほどしつこい連中が、一度も襲撃がなかったんですか?』
「ええ、お陰で私は中二病扱いよ。イルミナティだ秘密結社だと言うたびに胡散臭いものでも見るような目つきで見られて、いちいち説明しなきゃならないんだもん。あれならいっそ、襲撃の1つや2つ遭ってくれた方がマシだったわ」
『物騒なこと言わないでください。何もなかったなら良いのですが、ご自分の命が狙われてることは、いつも肝に銘じておいてくださいよ?』
まさに2人がそんな会話をしている真っ最中だった。
ビー! ビー! ビー!
……っと、警告音がラボの中にこだまして、突如として倖の見ていたPCのモニターが切り替わった。
『警告。何者かが侵入を試みております。警告。何者かが侵入を試みております……マスター。お話の最中に恐縮ですが、外にお客様がいらしているようです。対応なさいますか?』
オリジナルが皮肉たっぷりにそう言うと、倖のPCのモニターには家の外の様子が映し出された。見れば玄関口に目だし帽を被った複数人の男たちの姿が見える。
ガシャンガシャンと機械音を建てて、家中の窓という窓のシャッターが降りる。ただの泥棒なら、この時点でまともじゃない家だと判断して逃げ出すのであるが……モニターの中の男たちは怯む様子を見せずに何かをしている。
『いやはや……帰って早々これですか』
「まいったわね。まあ、破られることはないだろうけど」
『たった今、うちのセキュリティを向かわせました。10分ほど時間を稼いでくださいますか』
「わかったわ」
『警告。只今、九十九美夜システムは外部よりハッキングを受けています。警告。ただいま、九十九美夜システムは外部よりハッキングを受けています。通信回線を遮断いたします』
そんな警告とともに、白木会長との通話が途切れた。どうやらオリジナルが物理的に外部との通信を遮断したようである。現在、研究所のシステムはスタンドアローンで起動しているようだ。
外からの物理的な侵入と同時にハッキングを試みてくるとは、もはや尋常の相手ではないことは明白だ。倖は親指の爪を噛みながら、警戒レベルをあげるようにオリジナルに命じた。
それにしても、一体何者だろうか。久しぶりの襲撃に若干焦りを感じつつも、倖は慎重の相手のことを考察した。
このタイミングで外に押しかけてくるところを見ると、彼らは倖が帰国するのを待ち構えていたと考えるのが妥当だろう。もしかしたら空港から付けてきたのかも知れない。だが、もしそうなら、どうして彼女が家に入る前に拉致しようと試みなかったのか。また、一度でもこの家に襲撃をかけたものなら分かるはずだが、単に人数をかけたところで、この家のセキュリティは破れない。それこそ、戦車でも持ってこない限りはありえないのだが……
と、その時、モニターの向こう側で男たちが玄関の扉に何かを仕掛けた後、急いでその場から離れる姿が見えた。するとそれから数拍置いてから眩しい閃光とともに、
ドンッ!!
っと地響きのような音が鳴って、グラグラと研究所内が揺れた。実は壁や窓は強化されていて爆発物では容易に突破できない。一番弱い玄関を狙ったのはそのことを熟知している者の犯行だろうか。
緊張しながらモニターの映像が回復するのを見ていると、どうやら玄関の扉はまだ突破されていないようだった。ホッとしつつも、破られるのは時間の問題だと判断した倖は、とっさにオリジナルに命じた。
「美夜! シェルターを開けて。応援が来るまで中に籠もることにするわ。自分のバックアップを取ったら必要ない情報は全部破棄して。少しでも相手に情報が漏れないように」
『……かしこまりました。九十九美夜システム、バックアップモードに移行します……エラー。繰り返します。エラー。バックアップモード、起動できません』
外の様子を横目に見ながら、家の中に作られたシェルターへ急ごうとしていた倖はたたらを踏んで立ち止まった。オリジナルの言葉を聞いてもその意味がすぐに理解できない。
「なんですって!? エラーって、どう言うこと?」
『警告。只今、九十九美夜システムは、何者かによるハッキングを受けています。ハッキング継続中……ハッキング継続中……30%……40%……50……』
「どうして!? 外部との通信は遮断したはずよ? 一体どこからハッキングを受けてると言うの?」
『逆探知します……成功。ハッキング元、判明しました。ハッキング元は研究所内、九十九美夜』
「この中ですって!? っていうか、あんた自身てどういうことよ!! 何かまずいもんが動いてるなら今すぐ止めなさい!」
『違います、マスター。ハッキング元はワタシではなくて、九十九美夜です』
「ええ!? だからあんたのことじゃないの……?」
その言葉の意味を理解するのに戸惑って、一瞬判断が遅れた。
倖はこの部屋の中に、『九十九美夜』が二人いることを思い出し、真っ青になって背後を振り返ろうとした。と、その時、
ズブリ……
……っと、何か冷たいものを突きつけられたような感触が腰のあたりにして、次の瞬間、彼女は糸の切れた人形みたいに、その場でカクっと膝を折った。
「……あ……あ、ああ……あ……」
体に力が入らなくて息が吸い込めない。脳はフル回転しているのだが、酸素が足りなくてガンガン痛む。目尻にたまった涙で視界がボヤケてきて、これは現実なのか夢なのか……彼女は自分の身に起きていることを理解することを拒否していた。
「ガアァァッッ……!!」
背中を蹴られ、体の中から何かが引き抜かれた。次の瞬間、研究所内に鮮血がほとばしり、そこここに並んでいる計器類を真っ赤に染めた。
返り血を浴びた『九十九美夜』はそんな中に不敵な笑み浮かべて立っていた。全裸の体は血に染まり、手には鋭利なメスを握っている。
彼女は痛みに転げ回る倖を見下ろすと、まるでそうするのが当たり前のように、彼女の傷口の辺りを蹴り上げた。
「ぎゃああああっっ!!!」
この世のものとは思えぬ叫び声が狭い室内にこだました。倖はあまりの痛みに意識が吹き飛びそうになった。ズキズキと全身に痛みが走り、脳は考えることを拒否している。ただ自分の身に何が起きているのかは、さっきよりはよくわかった。
どうしてなのかはわからない。何故か、さっきまで子供みたいな仕草でお腹が空いたと言っていた美夜が、倖を殺そうとしているのだ。
「……どう……して?」
「この時を待っていた」
美夜は、痛みで意識が朦朧としている倖に向かって言った。
「私は待っていた。この小娘がここに戻り、システムと繋がる瞬間を……外部からは堅牢な城も、内部から崩せば造作もあるまい。この日のために、私は何年もの間、小娘の中に潜伏していた……それは苦痛の日々だった。だが、それも今日で終わる」
「あ……あんたは……?」
薄れゆく意識の中で、倖は懸命になって美夜の顔を見上げた。いや、見上げる美夜はさっきまでの美夜ではない、どうやったかは知らないが、今はもう別の何かだ。倖はそれが一体何なのか確かめようとしたが……
「知る必要はない。貴様は今から死ぬのだからな」
美夜はそう言うと、まるでステーキでも切るように、持っていたメスを倖の胸にぶすりと突き刺した。それが肺に到達し、口の中にゴボゴボと酸っぱい血の味が広がった。だがもう、倖は痛みを感じることすら出来なかった。
「げほっ……ごほっ……ちくしょう……」
彼女は呼吸をするたびに、後から後から沸いて出てくる自分の血液を吐き出しながら、最後の抵抗をしようと試みた。だがもうその時には体は指一本動かすことも出来ず、ただ彼女のことを冷徹な目で見下ろす美夜の顔を見ていることしか出来なかった。
次第に視界が暗くなってくる。
倖は自分が何を見ているのかが分からなくなってきた。
ところで自分は今、一体全体、何をしていたんだっけ?
長い夢を見ていた気がする。昨日はいつの間に眠ってしまったんだ? それにしても寒い……なんだか今日はやけに底冷えする気がする……まだ起きたくない。ベッドの中で布団に包まっていたい。もう少ししたら、お母さんが優しく起こしに来てくれるだろう。それまであと10分……いや、5分くらい眠っていたい。いつものように布団で粘っていると、仕事に向かうお母さんが倖にチューをしてくれるのだ。今日は早く帰るから、夜はステーキを食べに行きましょう。そうしたら倖は大喜びで、お母さんにチューを返してあげるのだ。本当は、ステーキなんかよりも、お母さんの作ってくれたシチューの方が好きなんだけど、忙しいママにわがままを言って困らせちゃいけない。倖がお利口さんになって待っていれば、ママはきっと約束通り、お土産を買って帰ってきてくれる。そしたらクリスマスのときみたいに、一緒にケーキを食べるんだ。早く帰ってこないかな……ママ……ママは、今何をしているんだろう……家に帰らなくなってから、もう何年の時が過ぎたんだろうか……こうして異国の地で果てるまで、どうして自分はそのことに気が付かなかったのだ。
倖は思った。会いたい……今はただ、無性に母に会いたい……だが、それはもう決して叶わないことなんだと、薄れゆく意識の片隅で、彼女は自分の母親の顔を思い出しながら、それを痛感していた。親不孝を許して下さい。何も残せなくてごめんなさい。せっかく日本に行ったんだから、せめて最後に一度くらい、会っておけばよかったなあ……
立花倖は最後にそんなことを考えながら……
そして彼女は事切れた。
「ふはははははははは!!」
九十九美夜の高笑いが研究所にこだまする。たった今まで荒い呼吸をしながら、血を吹き出していた立花倖の身体は、もう決して動くことなく、弱々しい姿を晒したまま横たわっていた。
美夜はそんな立花倖の遺体を蹴飛ばして、彼女が完全に死んだことを確認すると、実に嬉しそうな笑みを浮かべて、まるで気が狂ったかのように哄笑した。
ドンッと地響きがして、次いで先程まで外で侵入を試みていた男たちが研究所内にどっと押し寄せてきた。彼らは小銃を構えながら部屋に突入すると、床に血だらけで倒れる倖を確認し、彼女を見下すように不敵な笑みを浮かべて立っている少女を見てから、銃口を下ろしその場に直立不動の姿勢をとった。
美夜はそんな男たちを頼もしそうな目でぐるりと見回すと、
「親愛なる愛国者諸君よ。予言より30年ほど遅れはしたが、私は帰ってきた。鉤十字の日は訪れたのだ。これより世界は新世界にシフトする。雌伏の時は終わった。我が第三帝国の勝利である!」
「ジーク・ハイルッ!!」
美夜を囲んで、男たちが右手のひらを高々と空中に突き出した。
「ジーク・ハイルッ!!」
美夜を取り囲む男たちは、不気味なことに眉一つ動かすこと無く、ただその言葉を熱狂的に叫び続けた。
終末の時は訪れた。だが人類はまだそのことに気づいていない。
(3章了。第四章へ続く)




