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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第三章・上坂一存の世界
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君のことが好きなんだ

 上坂と倖、そして預言者・饗庭江玲奈の会話から一夜が明けた。


 寺務所には倖、縦川、御手洗、下柳の4人が集まっており、昨晩の不意の邂逅について話をしていた。彼女は預言者とはいずれ会うことになるだろうとは思っていたが、まさかあのような形で、しかも昔の知り合いと再会するとは夢にも思わず、一夜明けた今でもまだ夢でも見ているような気分だった。


 倖は彼らを集めると、もうこうなっては出来るだけ多くの協力者が欲しいと思い、今まで詳しいことは黙っていた下柳に対しても、今までに起きた出来事を話して聞かせることにした。昨晩、縦川と晩酌をしてそのまま泊まっていた下柳は、これまで上坂の身に起きていたことを初めて聞いて、口をあんぐりとさせながら、


「超能力者なんてもんが出てきた時からおかしいなことになったと思っていたが……まさかお前らがそんなことに巻き込まれてたなんて……どうして言ってくれなかったんだ」

「信じるのか?」


 話を聞いてもすぐには信じられないだろうと思っていた縦川は、下柳の順応の速さに驚いて尋ねた。しかし下柳はさも当たり前だと言わんばかりに、


「そりゃおまえ、超能力者(ユーチューバー)なんて意味不明な奴らが出てきてから、ずっとそいつらの相手をしてたのは俺たち警察だぞ。今更、預言者だの秘密結社だのが出てきてもそれほど驚かん」

「我が国も平和そうに見えて、革命勢力は少なからず居りますからね。本気で国家転覆を狙った無差別テロだって昭和の時代には度々ありましたし」

「しかし、上坂のやつも悲惨だな……もしも神がいるなら、どうしてあいつばっかこんな目に遭わなきゃならんのか、一度とっ捕まえて取り調べてやりたい気分だぜ」


 縦川は下柳のそんな物言いに苦笑いしつつ、


「でももう、江玲奈さんもいるし、そんなに酷いことにはならないんでしょう? これから起きることは彼女の予言で回避できるんでしょうから」


 すると倖が首を振って、


「ところが予知ってのはそう万能な物ではないらしいのよ。この世界は泡沫の夢のようなもので、絶えず変化している。アマゾンの奥地で蝶が羽ばたいたら、北米で巨大ハリケーンが発生したみたいな、ほんの些細なことが切っ掛けでとんでもない結果をもたらすようなことがある。今この瞬間も世界は無限に変化し続けて、そのすべてを把握するのは不可能。だから、エレナは何でも知っていそうに見えて、実はそうでもないらしいの」

「でも、今の所ビシバシ当てまくってるんですよね? 御手洗さんのこととか」

「ええ、でもそれも非常に曖昧な言い方だった。だから、御手洗さんも実際にテレーズさんが目覚めるまで、彼女のことを信じてなかったのよね?」


 御手洗は頷いた。


「はい。彼女は、上坂君の渡航を阻止すれば、私の悲願が叶うだろうとしか言っていませんでした。私が何を願ってるかなんて、彼女に話したこともなければ、あの時点で上坂君とテレーズに接点もありませんでした。だから、それは単に私の気を引いて利用してるだけなんだろうと、そんな風に考えていたんですが……」

「事が過ぎてみれば、彼女の予言はそのものズバリを言い当てていたってわけよ。こんな具合に、彼女の予言というのは示唆的で曖昧な言い方でしか伝えられないものらしいわ。もしも彼女がはっきりしたことを予知してしまうと、その時点で未来は変わってしまう。あたかも波動関数が拡散するかのように」


 例えば、明日交通事故で死ぬと予言されたら、誰だって交通事故に遭わないように気をつけるだろうし、人によっては一日中家から出ないなんてこともあるだろう。そうしたらもうその予言は外れてしまう。予め何かを知っていれば、結果は簡単に変えられる。未来とはこんな風に、非常に曖昧なものなのだ。


 尤も、肝心なことを言ってしまうと予知が外れるからと言って、江玲奈の能力が無意味なものというわけでもない。彼女は大勢の人が関係するような重大事なら、ほぼ百発百中で言い当てることが出来る。例えば、二度あった世界大戦や、大震災や大噴火……


「そして、人類の滅亡も……ですか」

「彼女が言うにはこの流れは避けられないらしいわ。人類はタイムマシンを手に入れることで、これ以上進化する意味を失くして、生物としての進化が止まってしまうみたいね。誰もが、自分の殻に閉じこもって、やがて朽ち果ててしまう。言われてみると、確かにそうならないとは言い切れないわ」

「なんでもかんでも願いが叶ってしまう世界が来ると言うのは、それはそれで問題があるってことですか……」


 下柳がため息混じりに言う。


「それじゃあ、上坂が眠り病患者を治療して回るってのは次善の策でしかないってわけか? はっきりしたことを知ろうとしたら、予言が外れてしまうから」

「そういうことになるわね。結局、私達の未来は、私達自身で選び取っていくしか無いわけ。エレナはそのための指針は示してくれるけど、それ以上は彼女にもわからない。そんなわけで、私はこれからドイツに帰って、上坂君のために何が出来るかを考えてみるわ。なんでもかんでも、全部彼におまかせってわけにもいかないもんね」

「具体的に何か策でもあるのか?」

「手始めに、美夜と同じような子を増やせないかって考えたんだけど……」

「美夜ちゃんを……?」


 縦川がきょとんとした目で尋ねる。倖は頷くと、


「どうやら美夜は上坂君を探すために、高次元を経由して他世界を見ることが出来るらしいの。アンリエットが眠り病になった時は、それで彼女のことを起こしに行けたと考えられる。でも、完璧じゃないから、上坂君のことは見失ってしまった。恐らく美夜は人間じゃないから、エレナの言うアカシャ年代記(アカシックレコード)とは関係なく、私達人間とは根本的に見えてるものが違うんでしょうね。この違いが何なのか、一度ドイツに連れ帰ってじっくり調べてみようと思うの」


 彼女はそう言ってから、少し考えるような素振りを見せ、


「でも、これに関してエレナが反対したのよね」

「預言者が? だったらやめといた方が良いんじゃないですか?」

「はっきりと止められたわけじゃないのよ。単に、彼女にしても人とは違う美夜の存在はイレギュラーみたいなの」

「どういうことです?」

「美夜は人ではない、元AIよ。アカシャ年代記に繋がってないってことは、つまりエレナの予知の範疇外なの。もしもこれからこういうAIがどんどん増えて、人間とは別に世界に影響を与えるような存在になってくると、もはや彼女は未来を予知できなくなってしまう。人間はAIの影響を受けるけど、そのAIの魂(?)は彼女には見えないから」

「あー、なるほどなあ……」

「命を弄べば死を招きよせる。美夜はもう仕方ないけど、これ以上の量産は控えたほうが良い。私にはもう手を引けと彼女は言っていたわ。もちろん、私にそんなつもりはないけどね」

「じゃあ、美夜ちゃんは連れ帰らなくてもいいんじゃないですか? あんなに上坂くんに懐いてるのに」

「かも知れないけど。あの子は脳が機械なわけだし、なんやかんやメンテナンスも必要なのよ。今回だけは宥めすかして連れて帰るしかないわ」


 すると御手洗が気を利かせて口を挟む。


「なんなら、上坂君も一緒に連れて行ってはいかがですか? 今更彼の出国を阻むような勢力は居ないでしょうし、一時的な渡航であれば、パスポートは私がなんとかしてみせますが」


 有無を言わさず渡航を禁じてたころとは態度が大違いだ。倖は苦笑いしながら、


「そうしたいのは山々だけど、あの子にも生活ってものがあるでしょう? ここでまた私の都合で振り回すようなことをしちゃ、何のためにあの子がこの国に残るって言ったのか分からなくなっちゃうわ」

「それもそうですか……せめて長期休暇が近ければよかったんですけどね」

「新学期が始まったばかりだもの、仕方ないわね」

「ところで、その上坂は? 今日は日曜で学校も休みだろ?」


 そんな話をしていたら、下柳が尋ねてきた。昨晩、寺に泊まった彼は、朝から上坂とテレビゲームで遊ぶつもりで居たらしい。ところが起きてきたら彼は居なくて、代わりに御手洗が居たので面食らったようだ。縦川が言った。


「上坂君なら日本に残ることを恵海さんに伝えに行ってるとこだよ。いまのとこ、彼女はまだドイツに行くつもりでいるから、事情が変わったことを自分の口で伝えに行ったんだよ」

「へえ~……それはつまり、俺のために残ってくださいって言いに行ったってわけか。あいつ思い切ったな」

「はてさて、上手くいくんでしょうか」


 すると倖は自信満々そうに、鼻で笑いながらこう言うのだった。


「そんなの預言者じゃなくても、誰にだって分かるじゃないの」


 男たち3人はそのセリフに互いに顔を見合わせると、どことなく気恥ずかしげな顔をしながらお互いに苦笑いをしてみせた。


「しかし、先生も上坂君と別れるのは寂しいんじゃないですか」

「そうね。でも私は平気よ。子供ってのはいつか巣立っていくものでしょう」

「ドイツではなくて、この国に拠点を構えるわけにはいかないんですか? その方が上坂君も喜ぶでしょうに」

「そうしたいところだけど、私にも私の生活ってのがあるのよね。あっちには今まで構築してきたシステムがある。それに、私が欧州に出ていったのは、私の命を狙う連中から逃げるためよ。戻ってきたらまた何をされるかわかったもんじゃないわ」

「そう言えばそうでしたね……でも、本当にそんなものがいるんでしょうか?」

「用心にこしたことはないわよ。狙われるとしたら、私だけじゃなくて、上坂君だって危ないのよ。特にアメリカCIAの連中には気をつけて。この国には彼らを手引きするものがいくらでもいるでしょうから」

「その点は抜かり無く……我が党が政権を奪取できれば盤石なのですが、中々そうも行かないのは残念ですがね」

「寺にいる間は俺も気を配っておきましょう。おかしなことがあったら警察に知り合いも居ますし、すぐ相談するようにします」

「おう、任せとけ」


 縦川、御手洗、下柳の3人が力強く請け負うと、倖は少し寂しそうな表情を見せてから、すぐにいたずらっぽい笑みを見せて、


「そう。じゃあ、頼んだわよ。トイレ三兄弟」


 と言った。縦川と御手洗は、突然何を言い出すんだ? と目を丸くしたが、


「トイレ三兄弟? ははは! こりゃあいい。雲谷斎に御手洗で、確かにうんこ三兄弟だ。あんた、中々上手いこと言うな。ははははは!」


 下柳一人だけが、その言い草が気に入ってゲラゲラと笑いだした。しかし、彼はすぐに違和感を感じて、


「ん? でも三兄弟って……3ってなんだよ、3って。俺も含まれてるの?」

「あんただって下やんでしょ」

(しも)しか入ってないじゃないか! つーか、(しも)とうんこは関係ないでしょ? 雲谷斎や御手洗さんと一緒にすんなよ!」

「うっさいわねえ、あんた存在自体が下品なくせに、いっちょ前に傷ついてんじゃないわよ」

「むっかー! なんだよそれ、名前に下が付いただけでウンコ呼ばわりされるいわれはねえよ。全国の(しも)なんとかさんに謝れ、この糞ババア!」

「ババア!? あんた今、ババアっつった!? この野郎……初めて会った時から気に食わないと思ってたけど、堪忍袋の緒が切れたわ、このチンカス野郎!」

「あ! いてえ! このババア! 暴力反対!!」

「わあ! 2人ともやめてやめて! 古い建物なんだから、大人がそんな暴れないで!!」


 また性懲りもなく倖の怒りを買った下柳が追い回され、それを縦川が必死になって止めようとする。御手洗はそんな3人を避けようとして、椅子の脚に自分の足の小指をぶつけてしまい、悲鳴をあげてのたうち回った。日曜の朝、まだ静けさの残る住宅街の中にある、縦川の寺の寺務所では、大の大人がドタバタ大騒ぎする声が響いていた。


 きっと上坂がいたら今頃頭を抱えている頃だろう。落ち着きのない大人たちであるが、これでも彼からすれば、この世で最も信頼している人たちなのだ。


***********************************


 武蔵五日市駅の改札を出て、今日もタクシープールに一台も車が停まってない駅前ターミナルに、上坂と美夜は足を踏み入れた。この夏は、これで都合3度めの来訪になるが、いつ来ても人気のない駅である。


 派出所を覗けば巡査の姿はなく、電話機の横に『御用の方はこちらにご連絡ください』と書かれた張り紙が、虚しげに風に吹かれていた。前回来た時はテレーズの乱暴な運転に驚いて、警官が飛び出してきたのだが、こっちの世界の派出所は無人なんだろうか。それにしても……別世界の巡査とは、なんというパワーワードだろうか。


 そんなどうでもいい感想をいだきつつ、美夜を従えて白木邸へと急いだ。山に近づくに連れて、ほんの少し気温も下がっているのだろうか、沢から吹いてくる風が心地よかった。


 秋川渓谷の木漏れ日を受けながらえっちらおっちらと山道を登っていくと、やがて最初のトンネルを抜けた直ぐ側に、白木邸へと向かう脇道が見えてきてホッとした。何故なら、前回来た時は文字通り世界が違ったせいで、行けども行けどもかの家への道は見つからなかったのだ。


 おまけにその後、どんなに頑張ってももう恵海には会えないのだと知らされて、あの時は本当に絶望した。この世界は、本当にちょっとしたことが切っ掛けで、そんなことが起こりうるのだ。


 そんな苦い経験を思い出しながら、少し急になった山道を息を弾ませながら登っていくと、雑木林が途切れた先に、まるで盆地のようにぽっかりと開いた、白木家の敷地が見えてきた。恵海の住む母屋はその中央にあって、山の緑に映える白い壁が目を引く大きな建物だった。そしてその中からは、今日も素人が聞いてもうっとりしてしまうほど、豊かな表現のピアノの音が聞こえてくる。


 上坂と美夜はその音に導かれるように、母屋の庭に入ると、以前と同じように手入れされた木々の間に立った。夏がくる前、上坂は縦川と2人でここに立って、じっと彼女のピアノを聞いていた。あの時はピアノの練習を邪魔するのも気が引けて、ついでになんとなく怖気づいてもしまって、出直そうとしたところを美夜に見つかったのだ。


 今日もあの日と心境が似ているな……なんて考えていると、家の中から聞こえていたピアノの音が唐突に途切れた。どうやら、来訪者が来たことに恵海が気づいたらしい。きっと間もなく、庭に面した窓に彼女が姿を現すだろう。上坂はフンッと大きく息を吐き出して気合を入れ直すと、そんな彼女に会うために庭に足を踏み入れたのだが、


「神様。美夜は神父様に会いに行くのれす。久しぶりに聖書を読んでもらうのれす」


 と、あとは家に入るだけという段階になって、唐突に美夜がそんなことを言い出した。神父に会うとは麓にある教会に行くと言うことだろう。だったら最初からそっちに行けば、こんな山登りをしなくて済んだはずなのに……わざわざここまでついてきて起きながら引き返すのは、もしかして気を利かせているのだろうか?


 上坂が目をパチクリさせていると、美夜は返事も聞かずにフラフラと来た道を戻っていった。その後姿はいつもどおりヨタヨタしていて子供みたいで心配になる。だが、彼女は彼女なりに日々成長しているようである。


「そこにいるのは……いっちゃんですの?」


 そんな風に美夜の後ろ姿を見守っていたら、背後から恵海の声が聞こえてきた。上坂は振り返って、リビングの窓からこちらを見ている彼女に視線を送ると、


「ごめん、練習の邪魔しちゃったかな?」

「いいえ、構いませんの。今、玄関を開けますから、どうぞお上がりくださいですの」


 恵海はパタパタとスリッパの音を立てて玄関の方へと走っていった。


 広い玄関に入って、天井の高い吹き抜けの廊下を進み、上坂は以前来たときにも通された白木家のリビングへやってきた。


 恵海は彼を案内すると、また以前みたいに台所へ行って手際よく紅茶を淹れてくれた。以前とは違い、だいぶ手つきが慣れているのは、最近アンリに色々指導してもらっているからだろうか。


 彼女は今でもたまにシャノワールに行って、求められるままにピアノを弾いて、その御礼に料理を教えてもらってるそうだ。アンリだけではなく、厨房のシェフに美味しい茶葉を分けて貰ったと嬉しそうに語っていた。


 上坂はそんな話を聞きながらも、リビングの壁に沿っていくつも積み重なっていたダンボール箱の方に目が行っていた。彼が頻りにそっちの方を気にするからか、しばらくすると恵海がそのことに気づいて、


「散らかってて、ごめんなさいですの。お客様を招くような状態ではないですわね」

「……ドイツ行きの準備はもう終わったの?」

「はいですの。あとはお荷物を送るだけなのですが、まだいつと決まってないからこの有様ですの。でも、いっちゃんの先生も帰ってきたから、そろそろ送ったほうがいいですわね」

「ああ……そう、だね」


 いや、そうだねじゃない……上坂は後頭部をポリポリと指で引っ掻いた。今日、ここに来たのは恵海のドイツ行きを止めるためだった。上坂は、彼女にこの国に一緒に残って欲しいと言いに来たのだ。日和ってる場合じゃない。


 しかし、上坂のそんな焦りとは裏腹に、恵海の方は嬉々とした表情で、


「お引越しは大変ですけど、久しぶりにお父様とお母様にお会いできるのは楽しみですわ。お忙しい方たちですから、今までは中々お会い出来ませんでしたが、これからは毎日一緒の家で暮らすんですの。ドイツ行きが決まった日からお母様には、欧州中を旅行しましょうって誘われてますの。弟達と妹達もだいぶ大きくなりましたから、もしかしたら会ってもすぐにはわからないかも知れませんわね」


 恵海の表情は本当に生き生きとしていて、上坂は口を挟むことも出来ずに、ただ羨ましそうにそれを聞いているしかなかった。正直、ドイツ行きは倖が決めたことだし、自分が巻き込んでしまったんだと思っていたから、彼女はそんなに乗り気じゃないと思っていたのだが、こうして話を聞いてみると寧ろ良かったのかも知れない。


 やっぱり、誰だって一人よりは、家族と一緒に暮らす方がいいだろう。なのに、今度はそれを反故にして、自分と一緒に日本に残ってくれなんて言っていいのだろうか……? 上坂はなんだか自信が無くなってきてしまった。


 それで上坂の表情が少し暗くなったからだろうか、それまで嬉しそうに語っていた恵海の声が不意に止まった。


「ああ、私ったらいけないですの。自分ばっかり家族と会えて嬉しいなんて、いっちゃんの気持ちを考えずにはしゃいでしまって……ごめんないですの。お気を悪くしないで?」


 どうやら彼の冴えない表情を自分のせいだと勘違いしたらしい恵海が謝ってくると、上坂は慌てて弁解した。


「いや、とんでもない。エイミーが楽しそうで良かったよ。もしかしたら、ドイツには行きたくないのに俺が巻き込んでしまったんじゃないかと思って、ちょっと気が引けてたんだけど」

「まあ! そんなことございませんですの。いっちゃんがお気になさることはないですわ。私、ドイツ行きを今から楽しみにしていますの」

「そうだよね、やっぱり、家族と一緒に暮らせるのは誰だって嬉しいもんね」

「はいですの。いっちゃんも、先生と一緒にいられるのは嬉しいでしょう?」

「……うん」


 上坂は頷いた。彼女の言う通り、彼だって倖と一緒にいられるなら一緒にいたいという気持ちは変わりなかった。でも、その気持ちを差し引いてでも、縦川や学校の友だち、こちらで出来た縁を大事にしたい……そう思ったからこそ、倖にお願いしてこの国に残してもらうことにしたんだ。


 だが恵海はそうじゃない。彼女は今言っていたとおり、やっぱり家族と一緒にいたいと思っているのだ。なのに、また上坂の都合で、彼女にドイツ行きを思いとどまってくれとお願いするのは不誠実なのではないだろうか……シャノワールの仕事だって、やりたいはずなのに断ってくれたのだ。それを無かったことにしてくれなんて、いくらなんでも勝手過ぎるんじゃないか。


 やっぱり、彼女にドイツ行きをやめてくれと言うのはよしておこう……上坂はこの期に及んで考え直そうとした。


 しかし、それじゃあ彼女と別れて、自分一人だけこの国に残って、友達と楽しくやれるのだろうか……そう考えた時、彼は言いようの知れない寂しさに襲われた。


「あの……エイミー。実はお願いがあるんだけど」


 だから上坂は、本当は彼女に家族と一緒にいて欲しいと思いながらも、やっぱり自分のために日本に残ってくれと言うことにした。


 自分の気持ちには嘘を吐けない。だからその気持ちを打ち明けた上で、改めてその不誠実を詫びよう……そう思った。


 彼がそんな決意を抱えて彼女の顔を探るように見ていると、恵海は小首をかしげながら、


「なんですの?」

「実は……先生と一緒にドイツに行くことになってたんだけど、やっぱり俺だけは日本に残ることにしたんだ。ただの成り行きとは言え、一度通い始めた学校をちゃんと卒業もしたいし、他にもこっちに残ってやりたいことが出来たんだ」

「まあ、そうでしたの?」


 恵海は目を丸くして上坂の顔をまじまじと見た。まさか、彼が倖と別れて一人で残るなんていい出すとは思わなかった。彼にとってあの先生は、自分のことよりも大切な存在だということは、恵海も十分承知していた。その先生と別れてもこっちに残りたいなんて、きっとよっぽどのことなのだろう。彼女はそう考えると、彼に同調するようにうんうんと頷いた。


 そして、彼がこっちに残るなら、自分もドイツ行きを取りやめにしないと。両親になんて報告すればいいのかな……と考えていると、上坂が実に申し訳無さそうな素振りで、話の続きをしはじめた。


「それで、エイミーなんだけどさ? 良かったら、君もこっちに残ってくれないか?」

「え? はいですの」


 もとよりそのつもりだった恵海は、上坂にそう言われて流れるように即答した。彼女は自分から言い出さずに済んで手間が省けたくらいのつもりで、キョトンとした表情で上坂のことを見ていた。


 その表情があまりにもあどけなかったから、上坂はまさか少しも考えること無く即答されるとは思わず、ちゃんと意味が通じてるのかなと不安に思い、


「え? いいの……? せっかく家族と会えるのを楽しみにしていたいのに、それを止めて、俺と一緒に残って欲しいってことなんだけど……」

「はいですの」

「え、いや、だって……こっちに残って欲しいのは、100%俺のワガママなだけなんだけど」

「はいですの。荷物のことなら気にしないでくださいですの。梱包したのはお手伝いさん達ですから」

「いや、そういうことじゃなくって……」


 上坂はまたポリポリと後頭部を掻いた。やっぱりこれはちゃんと通じていない。そう思い、彼は決心するように、ふう~っとため息を吐くと、


「あのね、ドイツ行きをやめて欲しいってことより、俺と一緒に残って欲しいってことの方が大事なんだ。今日はそのことを言いに来た」

「そうなんですの?」

「俺はこの国に残ることに決めたんだけど、エイミーとは離れたくないんだ。だから一緒に残って欲しい。君のことが好きなんだ」


 上坂がそう言うと、恵海は一瞬虚を突かれたように目をパチクリさせてから、今まで一度も見たことのないような真顔を作った。その顔があまりにもフラットで表情がなかったものだから、上坂は一瞬、彼女のことを怒らせてしまったんじゃないかと焦ったが……


 次の瞬間、そんな彼女の顔が見る見るうちに歪んでいくと、その瞳から大粒の涙がドバドバと溢れ出し、上坂はまた別の意味で度肝を抜かれて飛び上がったのだった。


「わあ! どうして泣くの!?」

「ご、ごめんなさいですの……私、いっちゃんにそんな風に言って貰えるなんて思わなくって」

「嫌だった……?」

「いいえ、違います!」


 すると彼女は涙を飛び散らせながらブルブルと首を振って、


「私も、いっちゃんの事が好きですわ。ずっとずっと、好きでした」

「そうなの?」

「はいですの。だからいっちゃんが死んだって聞いた時は信じられなくて、あなたが帰ってくるまで、ずうっとここで待っていたんですの。あの時、一緒に星を見に行けば良かった。ナナに嫉妬したせいで、あなたと一緒に逝けなかったのなら、一生ここで待ち続けて朽ち果てても良いと、そう思ったんですわ」

「そ、そうだったんだ」


 上坂は彼女がそんな理由でここに残って居たことを知って、驚きを隠せなかった。自分が恵海に告白した高揚感よりも、今はそんな彼女を愛おしいと思う気持ちのほうが強かった。


 あの日、流れ星を見に行こうと言って断られた日、自分はてっきり振られてしまったんだと思っていたけど、それは勘違いだったのだ。彼女はあの頃から、ずっと自分のことを好いていてくれて、ずっと待ち続けていてくれた。彼はそのことが誇らしかった。


「あのね、エイミー。俺はずっと昔から、君のことが好きだったんだよ。君と初めて出会った時、大人の中でも物怖じしないでしっかり受け答えする君のことが、俺には眩しく見えたんだ。あんな子と仲良くなれたら良いなって、そう思っていた子が、本当に俺と仲良くなってくれたから、それがどうしようもなく嬉しかったんだ」

「でもね、いっちゃん。私のほうが、きっとあなたよりも先に好きになったと思うんですわ。私はあなたに紹介される前から、大人に混じって難しい話をしていたあなたのことを、凄いなって目で追っていたんですの」

「そんなことないよ、きっと俺のほうが君より先に好きになったと思う」

「いいえ、絶対、私のほうが先ですわ」


 それから幼馴染の2人は、出会った頃の話に花を咲かせた。それは小さかった2人が、恋人同士になるための儀式だった。まだ恋も知らない子供の2人が、いつの間にお互いのことを大事に思うようになっていったのか、他愛のない思い出が積み重なって、無くてはならない存在になっていく過程を、2人はお互いに確認し合う、そんな儀式だった。


 それがどんなものだったのか……これ以上は野暮だろう。それはきっと聞いてるほうが、ちょっぴり恥ずかしくなってしまうような、それでいて胸が暖かくなるような、そんな類の話だろう。2人はそんな話を日が暮れるまで、飽くこと無く話し続けた。


 この日2人は恋人同士になった。出会ってからおよそ10年も掛かった末の、小さな恋が成就した瞬間だった。


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[気になる点] そこそこ感動的なシーンのはずなのに似非お嬢様口調がおかしすぎて笑ってしまう…
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