魔女と終末論
上坂は饗庭江玲奈の話を困惑しながら聞いていた。彼女が淡々と語る理路整然とした話を聞いていると、まるで彼の先生の話を聞いているような不思議な感覚に陥った。それもそのはず、彼女の言うことが本当ならば、江玲奈はかつての立花倖の教官だというのだ。
上坂はそのことについてまだ半信半疑であったが、倖の方はこれまでの話を聞いてある程度の確信が得られたのだろう。それまでショックでひきつけを起こしたように口をパクパクしていた彼女は、ゴクリと唾液を飲み込むと、
「本当に……あなたはエレナなのね? その話は20年以上前に聞いたあなたの理論とそっくりよ。同じ人間だと言われたら、信じないわけにはいかないでしょう。でも、本当に輪廻転生なんてものが存在するの? あるなら、どうしてあなただけが前世の記憶があるというのよ」
「信じる信じないは君たちの勝手だが……」
すると江玲奈は彼女の方に向き直り、そう前置きをしてから話し始めた。
「僕は元々、15世紀の東欧の生まれだった。家族は馬車で移動する放浪民で、今でいうロマと言うやつだ。僕は子供の頃から一箇所に留まること無く、西はフランスから東はインドまで、長大な距離を旅しながら生活をしていた」
そんな彼女はインドに到達すると家族と離れ、当時としては珍しい、インドで修行をしたヨーロッパの女性となった。彼女はその頃のジャイナ教や密教に触れて解脱者となり、その教えを広めようとして欧州に帰った。
「ところが、僕が教えを持ち帰ったころのヨーロッパは魔女狩りの全盛期でね……僕は教えを広める間もなく、あっと言う間に魔女裁判にかけられて処刑されてしまったんだよ。それはもう実に無念だったけれど、この世は諸行無常だ。僕はその運命を甘んじて受け入れた。すると、受け入れたことが功を奏したのか、僕は処刑されることによってある真理に辿り着いたんだ。
この世は移ろいゆく夢のようなものであり実体がない。宇宙にはあらゆる可能性の世界が並存しており、その気になれば人間は平行世界を自由に渡ることが出来るのだ。そのような世界では死とは終わりではなく、人間の一つの状態に過ぎないということに気づいた僕は、その時、肉体を離れた魂がどこに行くのかを悟った。
それがニルヴァーナという場所であり、魂とは我々の四次元時空の外にある、高次元に存在する集合的無意識の一部だったのだ。
僕は高次元からこの世界を俯瞰することで、この世の無常を知った。この世とは人が選択するたびに分裂する無限の泡のようなものなのだ。と同時に、魂の場所を知ることによって生まれ変わってその意識を継承する術を得た。どの世界にいても魂は常に高次元の特定の場に存在する。以来、僕は生まれ変わりながら500年の時を生きているのだ。
これがすなわち輪廻転生であり、実際には、全ての人間は死んでも肉体が消滅するだけで、魂は生き続けるから、魂の場所を覚えていることさえ出来れば、みんな僕と同じように永遠を生きることが出来るはずなんだ。
何しろ、高次元では一方通行の時間が存在しない。高次元の魂は、現在過去未来、あらゆる時間、あらゆる平行世界に繋がっており、人類の歴史全てを見渡すことが出来る。まるで全人類の年代記のように見えるから、僕はこれをアカシャ年代記と呼ぶことにした。
だが、アカシャに自由にアクセスできても、何でも分かるわけではない。上坂君はすでに何度か経験したことがあるだろうが、この世界は人間が何かを選択するたびに可能性世界が分裂する。それは非常に些細なもので、変えようと思ったら簡単に変えてしまうことが出来る。
例えばさっきも言った通り、君と僕が今日というタイミングを待たずに、もっと前に出会っていたとしたら、果たして君は今と同じような理解を示しただろうか。君と僕が電話で話したあの時、僕がこのタイミングを選ばなければ、この未来には到達できなかったはずだ。
そんな具合に我々預言者は、ある時点から先の未来……もしくは過去の、大雑把な傾向しか掴むことが出来ないんだ。故に、予言は昔から示唆的で曖昧なものが多かったのだ。未来は確定していないから、こうだと決めつけてしまうとそれが回避され、結果的に外れてしまうからね」
上坂は話を聞いて大きく頷いた。
「なるほど、よくわかったよ。確かにあの時、俺と君が会っても、俺は君の話をほとんど信じなかっただろう。あれは単に意地悪をしていたわけじゃなかったんだな」
「そうだ。僕は君という存在がいずれ現れることを数年前から知っていた。それは東京インパクトよりも前のことで、会おうと思えばいつでも会えた……だが、そうしていたらどうなっただろうか。もしかしたら君は僕の言うことを聞いて、東京インパクトを回避したかもしれない。そうしたらヒトミナナはシンギュラリティに到達せず、超能力者なんてものはこの世に存在しなかったかもしれない。実際、そういった可能性世界は存在する。君が眠り病で訪れた先の世界もその1つだろう」
上坂は眉をひそめた。
「……それはつまり、君がその気になれば東京インパクトを回避することが出来たということじゃないのか? どうして、数十万の命が犠牲になるようなことを未然に防ごうとしなかったんだ」
すると江玲奈はその死人みたいな顔にシニカルな笑みを浮かべると、
「ふん……ここまで話してきたことを考えれば、そのような可能性世界が存在することは容易に想像つくだろう。なのに僕はそうしなかった。僕がここで君に会うことを選択したのにはもちろん理由がある。君も、ユキも、落ち着いて聞いて欲しい……」
「あ、ああ……それで?」
「この世界は、もうじき滅亡する」
3人の間に鋭い刃物のような緊迫感が走った。上坂は寒くもないのに身体が震えるのを感じた。背筋に冷たい汗が伝い落ちる。
「滅亡……? 滅亡だって?」
「滅亡すると言うよりも、停滞すると言ったほうが良いかもしれない。確実に言えることは、人類の歴史が終わるということだ。具体的に、終わった先に何があるのか……そこに何もなければ僕にもわからない。アカシャは、ある日唐突に途切れてしまうのだ」
江玲奈はそう前置きしてから、混乱している2人に向かって続けた。
「僕はさっき、未来のことはほんの少ししかわからないと言った。それは人が何かを選択をするたびに世界が分裂していくからだ。だが、それでも大まかな未来は予知できる。例えば、2度の世界大戦とか、大地震や大噴火のような未曾有の災害とか……そういう人類の歴史上でも特に大きな出来事は、関わる人間の数が桁外れに多いから、変わりようがないのだろう。僕はこういう大きな出来事なら、わりと正確に予知できる。
実際、古来より優れた預言者というものは、大きな事件を予知しそこそこ当ててきたはずだ。それが凄いから、彼らの予言は長い年月を語り継がれることになる。ノストラダムス、マヤの予言、エドガー・ケイシー、ルドルフ・シュタイナー。その他、過去には色んな預言者が居たが、その誰も彼もが些細かつ具体的な予言は外し、大きくて示唆的な予言は的中させてきた。
ところで、彼らは人類の終末も予言していたはずだ。それはもう過ぎ去ってしまったが、おおよそ2000年前後ということで一致している。もしもこれが……正確な年数は外れたとしても、大まかな内容としては当たっているとしたら?」
「……君は、それが本当だと言うのか?」
彼女は嘘は吐いてないと言わんばかりの厳かな表情で頷いて、
「僕はアカシャに触れた時から、人類の歴史には、はっきりとした始まりと終わりがあることに気づいていた。それは旧約聖書に記された7000年前から、この21世紀までに相当した。しかし考古学的にはありえない話だから、初めはこれが正しいとは思えず、僕は自分の限界を疑った。単に、僕に見れるのはそこまでという制限があるんじゃないかと。
平行世界は未来に向かえば向かうほど分裂し、細かな違いはもはや判別することすら不可能だ。物凄く精密な望遠鏡があっても、地平線の向こう側までは見えないように、過去も未来も遠くに行けば行くほど、大雑把な傾向しか把握することが出来ないだろう。
だから僕は2000年前後に人類が滅亡するのは、単に自分がまだ見通せていないだけなんだろうと思っていた。ところが、こうしてXデーが近づいてくると、どうやらそうでもないらしいことが分かってきた。
人類は確実に滅亡に向かっている。何故だ?
僕はそれを知るために行動を開始した。かつて魔女狩りによって教えを伝導することは出来なかったが、時代が変わりオカルティズムが一般に受け入れられた今なら、自分と同じように解脱に至ることの出来る者が現れるのではないか?
そして僕は、人は誰しも神になることが出来ると提唱し、多くの賛同を得て神智学協会というものを設立した。僕はその頃ヘレナ・ブラヴァツキーと名乗っていた」
「ヘレナ・ブラヴァツキー? あの、19世紀の魔女があなただったというの!?」
「そうだ。僕はそこでチベット密教に触れ、マントラを解析し、他の預言者たちと話を突き合わせて、21世紀に何が起こるのかを探ったのだ。
そして長い年月を経て、ようやくそれが判明した……どうやら人類はタイムマシンを手に入れることによって滅びるようだ。それはこの世界に限らず、どの可能性世界にあっても同様だった。
人類は、タイムマシンを有効に利用することが出来ず、自滅するんだ」
上坂は困惑気味に尋ねた。
「どういうことだ? タイムリープ能力を有した超能力者が、そのタイムマシンなんだろう? すると俺はもうじき死ぬってことなのか?」
「いや、君はそうならない。だが、他能力者たちや、まだ能力を発現していないが、FM社によって潜在的に改造を受けてしまった人類は、ほぼ例外なく停滞し、やがて魂ごと消滅することになるだろう」
「……何が起こるんだ?」
「眠り病だよ、上坂君。君は眠り病になった友達を助けに行った時、どう思った? こんな都合のいい世界、ありえないとおもったんじゃないのか?」
そう言われて上坂は唸った。彼女の言う通り、彼はあの世界で確かにそう思った。物心ついたころには既に無く、ずっと恋しくて止まなかった、どんなに願っても手に入れることは出来ない肉親に、彼は労せずして会うことが出来たのだ。
兄は優しくて頼りになり、母は無条件に彼のことを愛してくれた。自分は何もしていないのに、こんな簡単に幸せというものを手に入れていいのかと、彼は喜びよりも寧ろ苦しみすら感じるほどだった。
それが当たり前になった時、人間はどうなってしまうのか……江玲奈はその懸念について、淡々と続けた。
「タイムマシンとは……電気的機械的にアカシャに触れることを実現するマシンのことなんだ。
アカシャには人間の魂が存在し、我々はその魂とリンクしている肉体の夢を現実のものとして認識している。それをタイムマシンは、現在過去未来、無限に存在する平行世界のうちのどこにでも、好きに書き換えてしまうことが出来る。
そのような力を人間が手に入れたら何が起きると思う? まず、間違いなく自分の都合のいい世界に逃げ込むだろう。
この世は苦しみに満ちている。それは他人が自分の言うとおりにならないからだ。だからこそ、この世は美しくもあるのだが……それがわからない人間は、簡単にこの世を捨ててしまえる。そして誰もが自分の言いなりになって、都合よく振る舞ってくれる世界に行ってしまうんだ。
それは他者を否定することに他ならない。そこにはもはや自分の行動を正してくれる親戚も友達もなく、自分にとって都合のいいことしか言わないロボットみたいな人間関係があるだけだろう。
やりたい女とセックスして、テレビタレントになってみんなからチヤホヤされて、スポーツをすれば何の努力もしていないのに最良の結果だけを手に入れ、未来の大ヒットナンバーを自分の曲として披露して、不正を働いて入学した学校を主席で卒業する。何をやってもナンバーワンだ。
そして、人間はタイムマシンを手に入れても過去にも未来にも向かわない。
誰しも、過去に戻って超人になりたいという願望を持つだろうが……実際に過去に戻ったら不便でつまらなくてすぐに飽きるだろう? 世の中は不衛生で、野盗がうろつき、飯はまずくておかしな病気が蔓延している。田舎暮らしどころの騒ぎじゃないぞ。そんなところでヒーローになってどうする。あっと言う間に逃げ帰ってくるだけだ。
同じように、未来にも向かわない。何故なら、未来に行けば行くほど自分がつまらない人間になってしまうからだ。みんなが当たり前のように知ってることを自分だけが知らない。みんなあいつは馬鹿なんじゃないかと白い目で見てくる。例えば、江戸時代の人を現代に連れてきたと想像してみろ。慣れるまでどれだけ苦労するか……そういう苦労を、安易にタイムマシンを使うような人は買ってでない。
結局、人間は自分の一番楽しかった時期に戻り、自分の都合のいい人間を侍らせ、都合のいい毎日を繰り返すようになるだろう。そしてもしもその世界で他人がタイムマシンを手に入れそうになったら、即座に時間を巻き戻すだろう。もしかしたら超能力を披露してヒーローごっこに明け暮れるかも知れない。特別な人間は自分だけいればいいのだ。
そして飽きる。間違いなく飽きるだろう。このような世界は一見自由で楽しげに見えて、その実なんの刺激もない。絶対自分の思うがままに出来ているのだから、選択肢が有るようでまったく無い。
つまり新しい可能性の世界はもう生まれない。無限に広がっていた平行世界は収束し、そして人間の魂は朽ち果てる。悟りを得たような人格者でもない限り、人間はこのような世界に耐えられないのだ」
その先にあるのは絶望だ……江玲奈はげっそりした表情で首を振った。
しかし、上坂はそこまで人間を過小評価することは出来ずに、
「……江玲奈、君はそう言うけど、人間だって馬鹿じゃない。虚しいと思ったら他人を支配することなんかやめて、現実に戻ってくるんじゃないのか」
「もちろん中にはそういう人もいるだろう。だがそういう人は非常に稀だ。それよりも人はもっと別の刺激を求めるようになる。君が眠り病で行った世界で何が起きていた? やっぱり眠り病患者が出ていたのではないか? それはつまり、自分の都合のいい世界に逃げ込んだはいいけれど、そこも面白く無くなって、眠り病患者がまた別の都合のいい世界に行ったことを表しているんじゃないのか? 人間はそのようなことを繰り返し、いつか全てに飽いて死を望むようになる。それが人類全体で起これば、即ちこれが人類の終焉というものだ」
江玲奈はその未来を回避したいと考えた。そのために、上坂の力が必要だと言うのだ。人類が終焉に向かう事態はヒトミナナが引き起こしているのなら……
「じゃあ、ナナを止めなきゃ!」
上坂が言うと、彼女は厳かに頷きながら、
「そうだ。君にはヒトミナナを止め、そして人類を破滅から救って欲しい。この世界の終末を回避するには、君の手にかかっていると僕は踏んでいる」
しかし、彼女はそう言ってから一転して表情を曇らせ、
「だが、具体的にそれをどうすればいいのかはわからない」
上坂は思わずずっこけそうになった。ここまで来ておいてそれはないだろう。
「え? いや、でも、君は俺のことを救世主と呼んだじゃないか。それは俺がナナを止めると予知したからじゃないのか?」
「それは違う。先に触れたように、僕が細かな未来を予知しても、それを聞いた誰かが回避してしまい、結果的に予知は外れてしまう。僕に出来るのは、もっと大雑把な未来予知だけなんだ」
上坂は困惑気味に尋ねた。
「じゃあ、何故俺のことを救世主なんて呼んだんだ?」
「それは、僕が予知したすべての未来の中で、ここが最も長く続き、そして最も特殊な世界だったんだ。殆どの世界において、人間は人間に都合のいいようにタイムマシンを作ってばらまいてしまう。ところがこの世界だけはAIが人間のためにタイムマシン作りそれを管理している。そしてそのAIは君のことを創造主として特別視しているんだ。だから僕はこの世界の行く末が見えなくても、君がこの世界のキーマンになると想像がついたというわけだ」
上坂は頭を抱えた。これまでの江玲奈の言動や、今日の登場からしてかなり期待していたが、予言とはそこまで曖昧なものなのか……
2人が渋い顔をしていると、それまで黙って話を聞いていた倖が口を開いた。
「ナナを止める……ではなくて、人間の方を止めることなら出来るんじゃないかしら? 超能力が使えるのも、眠り病になるのも、元はと言えばFM社のばら撒いたチップのせいでしょう? 彼らの悪事を告発すれば、既に仕掛けられている人たちはそれを除去しようとするでしょうし、これ以上の被害を食い止めることも出来るんじゃない?」
「それで助かる人もいるかも知れないが、超能力の仕組みが分かれば、逆に積極的にそれを利用しようとする輩も出てくるだろう。そうなると争いが起きかねない。それに、仮にそうやってヒトミナナを封じたところで、放っておけばいずれ人類はまた別のタイムマシンを作り出してしまうはずだ。人間が楽を求め、科学が発展する限り、いずれ人類はこの世の真理に到達する。もはやその流れは避けられないんだ」
「なら、お手上げじゃないの。上坂君がナナを止めたところで、何も変わらないわ」
「だからといって、手をこまねいているわけにもいかないだろう」
「そりゃそうね。でも、ナナを止める具体的な方法も分からないんじゃ、動きようがないじゃないの。何かナナにこちらの意思を伝える方法はないのかしら……」
倖が眉根を寄せる。江玲奈はそんな彼女に向かって淡々と続けた。
「ヒトミナナはシンギュラリティに達し、もはやよく分からない物に進化している。それはあたかも巨大な象が足元の蟻に気づかないように、彼女からしても我々人類のことはもうよく分からないだろう」
だから彼女は望まれるままに超能力を使わせたり、眠り病を引き起こしているのかも知れない。江玲奈は言った。
「だが、それでも彼女にとって上坂は特別なようだ。時間停止、世界改変、そして眠り病患者を世界を飛び越えて助けに行ったりと、彼は明らかに他の能力者とは質が違う」
「そうね……ナナは、上坂君が育てたようなものだから。彼女にとって彼は親みたいなものなのよ」
「なら、彼が行動で示せばいずれ分かってくれるのではないか? そのために、眠り病患者を救済すると言うのはどうだろうか」
「……どう言うことだ?」
救済とは、今いる不特定多数の眠り病患者を手当たり次第に助けようということだろうか。それは以前、彼自身も考えたことがあったが、上手くいくかどうか自身が持てずに誰にも話さなかったことだった。上坂は江玲奈の言葉の真意を質した。
「ヒトミナナは能力者の望みに応じて、眠り病を発症させる。だが、君に救われた三千院やテレーズは、もう眠り病になることはないだろう。彼らは、例えこの世に絶望しても、挫けず生きていこうという強さを手に入れたのだ。そういう人類が増えれば、ヒトミナナは自ずとこちらの意図を理解してくれるのではないか?」
「……そうだな。GBたちはもう眠り病になることはないだろう。そういう人たちを増やすのか……」
上坂は低く唸った。確かに、自分ならそれが可能かも知れないが……
「そのために、君が眠り病患者を助けてくれないか。患者を助け、そして彼らにこの世界に迫った危機を伝えるんだ。タイムマシンを使って都合のいい世界に逃げ込んでしまったら、いずれ世界が滅びてしまう。そう理解したら、考えを改めて僕たちに賛同してくれる人は必ず現れるだろう。そしてそういう人たちが増えていけば、いずれ彼らを通して君の意思も伝わるはずだ。そしたらヒトミナナは、人の願望を無闇矢鱈に叶えるようなことはしなくなり、他の誰かがタイムマシンを作ろうとしても、それを阻止してくれるかも知れない……今は未だ憶測に過ぎないがね」
「なるほど……」
「もちろん、サポートはするし、君の意見を尊重する。やりたくないというのであれば、それはそれで仕方ないだろう。仮に君が断ったとしても、無限に存在する平行世界には、逆に受け入れている世界だってあるはずだ。だから気にしないで良い」
江玲奈はそう言って黙りこくった。口ではそんな風に言っているが、さっき彼女が語った未来では、ここより長続きする世界は無かったはずだ。もちろん、彼女が見たものが全てだとは限らないが、上坂が断ってしまったらおかしなことになるんではないか……かと言って、はい良いですよと、気軽に受け入れる気にもなれなかった。
ならば、こういう時は自分が最も信頼している人の意見を聞くべきだ。上坂は江玲奈から視線を外すと、隣に座っている倖に向かって尋ねた。
「……先生はどう思いますか?」
上坂の隣で渋い表情をしていた倖は、ちらりと横目で彼の目を見てから、
「……誰かに意見を聞くような問題じゃないわね。これはあなた自身が決めることよ……でも、育ての親としてはっきり言うけれど、私は反対よ」
と断言した。もしかしたら反対するかも知れないとは思っていたが、実に率直なその物言いに、上坂は少し戸惑った。何しろ、放っておけば人類は滅亡するかも知れないのだ。なのにこの思い切りの良さはどういうことだろうか。彼女はムスッとした表情のまま続けた。
「あなたが三千院君を助けるために、どれくらいの時間が必要だった? 今度はサポートを得て状況は変わるとは言え、それと同じことを何度もするのよ。生活にどれだけの支障を来すか分かったもんじゃないわ。日本に残りたいと言ったのは、友達のためでしょう。なのに何もあなたがそこまですることないじゃない」
「……放っておいたら人類が滅亡してしまうかも知れないのに?」
「人類滅亡の危機なんて、それこそ人類全体で考えるようなことよ。個人が背負うようなもんじゃない。もし、あなたの心を犠牲にすることでしか回避出来ない未来なら、そんな人類など滅んでしまえばいいわ。大体、話を聞いてたらその滅び方だって、多分に自業自得じゃない」
たしかにその通りだ。人類は自分の妄想の中に逃げ込んで滅んでしまうのだ。上坂は思わず苦笑いしてしまった。
「もっと他に方法がないか、まずは良く考えるべきよ、あなたが犠牲になるなんておかしいわ。もし、それでエレナやホープ党の連中が何か言うなら、私が黙らせてやるわ」
彼女はそう言うと、老婆から少女へ、ずいぶんと若返ってしまったかつての教授に、ずずずいっと迫った。
「いいこと? あなたにとって人類の方が大事かも知れないけれど、私にとっては彼のほうが大事なの。昔のよしみで今日は許してあげるけど、あまり無理は言わないでちょうだい」
江玲奈は倖にそう凄まれて、苦い表情を作っていた。仕方ない、また別の方法を考えねばならない。その顔がそう物語っている。実際、彼女としても、まずは軽く提案しただけのものだったのだろう。
しかし、上坂は言った。
「そうですか……それで決心がつきました」
倖が江玲奈に睨みを利かしていると、彼女の背後からポツリとそんなつぶやき声が聞こえた。彼女は驚いて振り返る。
「……どうして?」
「先生の言うとおりです。こんなの、個人が背負い込むようなもんじゃないですよ。俺がやらねばなんて思ってたら出来ません。だからまあ、駄目なら駄目でいいやってくらいの気持ちで、取り敢えずやってみますよ。やってる間に、もっといい方法が見つかるかも知れませんし」
彼があっけらかんとそう言うと、倖は戸惑い気味に口をパクパクさせてから、やがて諦めたように、
「……そう。私が背中を押しちゃったようね。でも、そうね……あなたがそう決めたなら、私がとやかく言う問題じゃないわ。私は私で、出来る限りあなたに負担がかからないで済む解決法を考えてみるわ」
「ごめんなさい。その手伝いも出来ずに、ワガママばっかり言って」
「子供がワガママなのなんて当たり前なんだから、謝るんじゃないわよ」
江玲奈はそんな2人に向かって、ほんの少し意外そうな素振りで言った。
「上坂。本当にそれでいいのか? 提案したくせに今更だが、ユキに言われて、確かに君を犠牲にするようなやり方は良くないと思った。断ってくれても構わないのだぞ」
「いいよ別に。実は、自分に能力がありながら、何もしないで見ているのも後ろめたかったんだ。どうせこの国に残るんであれば、やれるだけやってみたいと思う。生活に支障を来さない範囲で少しずつ。駄目なら駄目で、また考えればいいだろ?」
「ああ、もちろんそれでいいさ。この方法が必ずしも正解とも限らないんだ。僕もアカシャに触れて、もっと他に良い方法がないか、無限の未来を探ってみよう」
こうして上坂は、5年ぶりに再会した育ての親から離れ、自立の道を歩み始めた。