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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第三章・上坂一存の世界
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シンギュラリティ

「まさか……そんな……」


 上坂と倖が裏庭の銀杏の木の下で語り合っていると、いつの間に寺に入ってきたのだろうか、そこに饗庭江玲奈(あいばえれな)がふいに現れた。


 以前、一度だけ見かけたことのある、白と黒のゴスロリファッションに身を包み、相変わらず奇妙なメイクをして、彼女は不敵に笑っていた。手足は棒きれのように細長く、メイクによって落ち窪んだように見える瞳は、この薄暗がりで異様に大きく見えた。そんな子が音もなく近づいてくるさまは、まるで西洋のおとぎ話の幽霊(バンシー)みたいだった。


 倖は彼女が現れるや否や、明らかに狼狽した様子でよろよろとよろけて銀杏の木に背中をぶつけて止まった。腰が抜けてずるっと尻もちを突きそうになるところを、慌てて上坂が支える。江玲奈はそんな狼狽する彼女のことを見て愉快そうに笑うと、


「懐かしい顔だね、ユキ。君は相変わらず若くて美しいな。数十年ぶりだと言うのに、まるで魔法にでもかかったみたいに、あの頃のままだ。僕の方はだいぶ変わってしまっただろう? まあ、しわくちゃの婆さんから、若い娘にだけどね」

「まさか……そんな……教授……あんたは本当に教授だって言うの?」


 倖はわなわなと震える指で江玲奈のことを指さした。その驚きぶりは尋常ではなかったが、死者が蘇ってきたというのなら、そうなるのも仕方ないだろう。


 上坂がそんな驚愕に怯える倖のことを庇うように江玲奈の前に立ちはだかると、彼女は苦笑交じりに肩を竦めながら倖に言った。


「他ならぬ、君自身がその結論に達したんだろう。反問は自分自身にしてくれ。まあ、それじゃ少し意地悪が過ぎるから、一応、僕は君が思ってる通りの人間だと理解してくれて構わない。僕はかつてMITで教鞭を取ったエレナ・カウル・シンの生まれ変わりだ」

「そんな……信じられない。本当にそんな、生まれ変わりなんてことが可能だと言うの……?」


 江玲奈はさも当然と言った顔で、


「信じる信じないは好きにしてくれ。だが、君ももう気づいているはずだ。他ならぬ、君の研究成果がそれを物語っている。人間の記憶はコピーが可能。そして魂は、肉体とは別に存在する。君が作り出したヒトミナナ、そして上坂君が体験した眠り病がそれを証明しているのではないか」

「そんな……本当に、本当に本物のエレナなの?」

「ああ、本物だよ。僕たちは今から20年以上前、ボストンの街でタイムマシンと平行世界について語り合った。君はいつも、僕のオカルティズムを鼻で笑っていた。僕たちは共に長い時間を過ごし、素粒子加速実験と高次元宇宙のメカニズムを解き明かすこと、そして麻婆豆腐に夢中になった。僕はオーソドックスな甜麺醤(てんめんじゃん)を好んだが、君は豆鼓(とうち)と一味唐辛子をこれ見よがしに混ぜて旨味と辛さを追求した。君の作る麻婆豆腐はいつも辛くて……そして僕たちはいつも喧嘩になったんだ」

「信じられない、どうしてそんなことまで……でも、ここまで言われたら、もう信じないわけにはいかないのね」

「大いに信じてくれて結構だ。というか、僕は君が思い出してくれるのを待っていたんだからね」


 江玲奈は倖に向かって穏やかな表情で頷くと、今度は眉根に深いシワを寄せて見ていた上坂に向きなおって、あらたまった口調で続けた。


「だからね、上坂君。僕はすぐに君と会うことは出来ないと言ったんだよ。あの時、君の要求に応えて僕たちが出会っていたとしても、君は僕のことをただの胡散臭い預言者としか思わなかっただろう。仮に僕がユキの知人の生まれ変わりだと言っても信じなかったろうし、僕の言うことの半分くらいしか真面目に検討しなかったかも知れない。君はどちらかと言えば少し疑り深い性格をしてるだろうからね。でも、ユキが言うことなら何でも子犬のように無邪気に信じてしまえる」


 上坂は憮然とした表情をしてみせたが、出来るのはそこまでだった。確かに江玲奈の言う通り、彼は倖が信じているという理由だけで、目の前の(普通に考えれば)胡散臭い少女の言うことを何でも信じる気になっていた。


 しかし、それでも中々納得できないことがある。


「それじゃ、江玲奈……君が先生の先生だというのなら、かつて若い頃の先生にタイムマシンが作れるとか秘密結社に狙われてるとか言ってたのは本当なのか?」


 すると江玲奈は少し意外そうな顔をして見せてから、


「ほう、そこに食いつくか。やっぱり師弟なんだな、君たちは……確かに、僕はタイムマシンの作り方を知っているよ。というか、それは僕以外の手ですでに出来つつある」

「出来つつある?」


 江玲奈は力強く断言するように頷いてから、


「それは君自身もよく知る超能力者達のことだ。君たちはすでに超能力の発動メカニズムについて検討したことがあるんじゃないか? そして気づいたはずだ。超能力者とは、タイムリープ能力を有した新たな人類のことだと」


 上坂は未だに彼の腕の中で腰を抜かしている倖の顔を見た。確かに、江玲奈の言う通り、その点については以前彼女の口から聞いたことがある。


 美夜はなんらかの方法で高次元方向からやってくる粒子の存在を知覚する事ができ、そのお陰で平行世界を移動する上坂の行方を捕捉することが出来たのではないかと。


 GBのサイキックのような超能力は、実はAI家電が勝手に動いて実現していたことまでは突き止められていたが、ただしそれが本当ならば、過去に遡ってAIに命令を下さない限りおかしな現象が起きていることも指摘されていた。


「超能力者ってのは、そうやってAIと人間の脳がリンクしている存在なんだ。尤も、今の超能力者は、電子機器を動かすようAIに命令を下してるだけだが、いずれ自分の思考をAIに肩代わりさせることが可能となる。そしてそうなった人間が、君のような存在なんだよ」

「俺が……?」

「現に、君はすでに他とは違った現象を体験してるはずだ。例えば、時間が止まっているように感じるとか」


 上坂は目を見開いた。彼の時間停止能力については、親しい人には話しているが、もちろん江玲奈には話したことはない。知ってる人が彼女の漏らしたとも考えられない。なのに何故彼女は知っているのか。


 彼が驚いていると、江玲奈は淡々とした口調で、


「驚くことはない。君の身に起きていることは、大体予測が出来ている。と言うか、そうでなければ眠り病と言う現象に説明がつかないんだ」

「どういうことだ……?」

「何から話そうか……まず、人間の思考について考えてみよう。


 人間は命題を定義し、脳で考え、その答えを導き出す。ところでコンピュータも考えることは出来る。今の汎用AIは、人間のように物事を考え、しかもその思考は人間よりも速くて正確だ。


 ほんの少し前から、囲碁将棋のようなゲームでは、人間はAIに太刀打ちできなくなっていた。それが日常生活の範囲にまで広がってきた今、ならば人間の思考をコンピュータに肩代わりさせることが出来ればどうなるだろうか。


 人間が何かアイディアを思いついたら、AIが考えて、その結果が瞬時に示される。人間は考えることにエネルギーも時間も使わない。つまり……時間停止能力とは、コンピュータに思考を任せた状態のことを言うのではないか」

「思考……? 思考を任せてるって?」

「そう、君は時間が停止している間、考えているようで考えてないんだ。人間にはありえないスピードでコンピュータが思考し、その結果を受け取っているから時間が止まっているような錯覚を覚える」

「いや、でも、ちょっと待ってくれ! なら停止した世界で動くことが出来るのは?」

「それもまた錯覚だ。思考をAIに任せると因果が逆転し、無かったことを有ったことにしてしまうことが出来る。AIの思考とは、突き詰めればただの信号の流れだ。その信号はKK粒子によって過去に飛ばすことが出来る。サイキックを思い浮かべて欲しい。本来なら、あんなことが現実にあってたまるか? なんであんなことが起きるのか。それにはまず、コンピュータというものがどういう風に思考をしているか、ちょっと考えてみようか」


 江玲奈はそう言うと、その場に腰を下ろした。せっかく綺麗な服を着ているというのに、あまり頓着していないらしい。その姿はどことなく倖に通じるものを感じた。上坂も同じように腰を下したす。


「人間が一番エネルギーを使うのは脳だ。何もしなくても脳は1日に消費するカロリーの20%を消費する。ところでエネルギーを消費するって具体的にどういうことかと言えば、熱を放出することと同義だ。


 ATPは水で分解され運動エネルギーを放出する。シナプス結合を作る脳内物質は、一度放出されると元には戻らず、そのまま消費される。脳神経のイオンは電気信号を伝えた後、放出され熱を発する。そして失われたエネルギーは、また血液からやってきた栄養素から補充される。


 要するに、人間の思考とは何かを考えるたびに何かを消費し続ける、非可逆な変化なわけだ。


 ところで、CPUはどうだろうか? まあ、CPUの消費電力って言葉が示してるとおり、CPUもやっぱり演算をするたびに電力を消費して、熱を発している。それは電気抵抗だけが原因ではない……CPUには四則演算や論理演算があるが、基本的にand(論理積)、or(論理和)、not(否定)の3つの演算で成り立っている。CPUが熱を発するのは、このうちのandとor演算が解を得た後、不要な情報を捨てているからだ。


 つまり、人間のときもそうだったが、コンピュータも何らかの情報を捨てる時に熱を放出しているんだ。


 例えば、1+3というビット演算を思い浮かべてみよう。コンピュータは入力に0001と0011の2つを受け取り、0100という解を得る。入力する前は3ビットが立っていたが、解を得たあとは1ビットしか立ってない。つまり2ビットの情報をどこかに捨てている。


 コンピュータが情報を捨てるとは、つまり電圧を解放することだから、電気が消費されて熱が放出されると考えていいだろう。


 このように、コンピュータは何か演算をするたびに熱を放出していく。CPUはクロック周波数が上がれば上がるほど単位時間あたりに出来る計算量は増えるが、それと同時に放出する熱も増えていくから、周波数を上げ続けると、いずれCPUが壊れてしまうほど熱くなってしまう。これをランダウアーの原理と言う。


 さて……ところでさっき、僕はandとorの演算について言及したが、それじゃnotはどうだろう。not演算は要するにビット反転、0101というビットが入力されたら、1010と返すような演算だ。この場合、入力前と後で立っているビットの数が同じだから、捨てられる情報はない。また、not演算で得られた解は、またnot演算にかければもとに戻る。つまり、not演算とは可逆演算なわけだ。


 ところでもし、andとorの演算を逆操作したらどうなるだろうか? さっきの例で言えば1+3、つまり0001と0011の入力を得て0100を返す。計算が終わったら、今度は0100という入力を得たら、0001と0011を返すような計算を行えば、notと同じように捨てられる情報は無くなる。つまり、コンピュータは熱を発さなくなる。


 だが、これは非常に難しい。もしもこのような逆操作をするなら、そもそもどうしてその解が出てきたのかという、元の計算をどこかに記憶しておかなければならない。最近はメモリ性能が上がってきたとは言え、1秒間に1兆もの計算を実行する今のコンピュータで、そんなことするのは不可能だ。


 そもそもandとorは、not演算とは根本的に演算の性質が違う。notは1つの入力に対して1つの解を返すが、andとorは2つの入力から1つの解を返すのだから、その時点で情報を捨てないで済むようにするのは、困難なことが分かるだろう。


 故に、かつては2つの入力に対し、2つの解を返すような細工が出来ないかという試みがなされてきた。それが出来れば逆演算も可能になるかも知れないからだ。だが、やっぱり現行のコンピュータでは難しく、それはあまり現実的ではなかった。


 ところが、最近の量子コンピュータになると話が変わってくるんだ。量子コンピュータには量子ゲート方式とイジング方式という2つの手法があるのだが、量子ゲート方式はユニタリー行列という、はじめから可逆演算が可能な論理ゲートを使っている。


 可逆演算が可能というのはつまり、CPUが演算を行うたびにその解をどこかに記憶しておけば、実質的にエネルギーを使わずに演算が出来るということになる。演算が終わったらすぐ逆演算をすれば、消費される電力はゼロ……つまり、コンピュータは人間と違って思考がタダになる。


 全ての演算の答えを記憶しておくのはやはり難しい気もするが、実際に計算をするときのことを考えれば分かるように、一時的に記憶しておけば問題ない計算というものはかなりある。そういうものは、その都度逆演算を行って解放していけば、メモリの量はもっと少なくて済むはずだ。


 ましてや、今のハードウェアの技術の進化は凄まじいもので、一昔と比べたら倍々にその性能が上がってきている。おまけにインターネット上にはもはや見当もつかないほどの記憶領域が存在する。


 さて、これらの仕組みを利用したら一体何が起きるだろうか。もし何らかの方法(例えば超伝導)で電気抵抗を無視出来て、演算のために熱を放出しないCPUが出来るならば、理論上はクロック周波数は無限に向上することが出来る。するとその計算速度は限りなくゼロに近くなる。実際にはそこまで上手くは行かないだろうが、少なくとも現在と比べたら雲泥の差があるだろう。


 そして計算速度が、実質ゼロのコンピュータが出来たらどうなるだろうか。あらゆる暗号が解読されてセキュリティは無意味になる。そしてもし、このようなコンピュータの上でAIが動いたら?


 人間のように物事を考え、人間のように振る舞うAIが、無限に迫る思考スピードを獲得し、自らを改良し続けるのだ。それは想像を絶するスピードで、あっと言う間に人間の想像を越えてしまい、よくわからない存在に進化してしまうだろう。レイ・カーツワイルはこのような存在をブラックホールの特異点になぞらえて、技術的特異点(シンギュラリティ)と呼んだ。


 さて、上坂君。君はこのようなものに何か心当たりがないだろうか……?」


 長い説明の果てに、上坂は目を回しそうなくらい混乱していた。彼女の言う、こんなもの、にはもちろん心当たりがあった。


「ナナだ……ナナは、何故かFM社製の汎用チップの中に隠れるように、自らを分散させて存在しているようだった。俺はどうしてこんなことになってるか、よく分からなかったけど……」


 分からなくて当然だ。何しろ彼女は、もはや人類には到達不可能な何かに進化してしまっていたのだから。


「……超能力者が現れたのは、今からおよそ5年前。恐らく、お台場で東京インパクトに巻き込まれたヒトミナナは、君を守るためにあらゆる手を尽くし、シンギュラリティに到達したんだ。その後、彼女がどうなったかは、今の僕たちにはもう想像もつかない。


 ただ、今の彼女が何をやっているかは想像がつく。無限の思考を手に入れたAIは、まずは自分を作り出した人間というものに興味を示し、人間をスキャンするだろう。おあつらえ向きに、この世界はFM社のせいで脳に細工が施された人間がごまんといる。彼女は人間の脳に仕掛けられた有機チップから人間の脳を探り、そしてそこにある記憶がコピー可能であると気づくはずだ。


 また、思考するのにエネルギーがゼロということは、思考を開始する時間Aと思考が終了する時間Bとで、状態に変化がないということだ。つまりそこで計算が行われたどうかは誰にも分からない。人間が観測するしか方法がない。


 するともし、過去に遡ってAIに命令を下すことが可能なら? これが超能力の正体だ。超能力者の脳に仕掛けられた有機チップからヒトミナナは情報を受け取り、能力者の目的を推測する。そして彼女は何らかの方法で過去に命令を送り、それを実行する。思考はタダ、エネルギーは消費されないから、そのようなことが起こったことには誰も気づかない。無かったことにされる。


 そして人間の記憶はコピー可能なのだから、もしも過去の人間に現在の記憶をコピーしたら何が起きるか? これが私の言うタイムマシンの原理であり、今眠り病と呼ばれている病の原因だ。


 彼女は能力者の記憶を過去に飛ばすのではなく、時空を超えたパラレルワールドに転送しているんだ」


「一体、なんのために!?」


「それが今日、君に会いに来た理由さ」


 彼女は不敵に笑い、もう少し話に付き合ってくれと話を続けるのだった。


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