いい月だ。それじゃ話を始めようか
その後、料理人の娘であるアンリの活躍もあって、食事会は滞りなく終わった。
元々は上坂のためだけに、恵海が料理を作るための集まりだったはずなのに、気がつけば総勢11人もの大所帯での会食になってしまった。その点、申し訳ないと思った上坂が手伝いを申し出たお陰で、彼女も案外楽しんでくれたようだった。
恵海……というかほとんどアンリの料理であったが、基礎がよく叩き込まれているからか、とても好評だった。味はシャノワールのそれであり、店で出しても遜色ない出来栄えだと、常連客の2人に頻りに褒められて、彼女は満更でもなさそうにしていた。この時初めて聞いたのだが、彼女は将来自分の店を持ちたいと思っているらしい。いつか夢が叶うといいなと上坂は思った。
会食後は男連中で集まって、またワイワイとゲーム大会を開いた後、翌日に朝練があるという日下部が帰り支度を始めたところで、会は自然とお開きになった。日下部だってつい最近まで入院していたのに、もう部活を始めているのだからおかしなものである。
おかしいと言えばテレーズのほうがよっぽどおかしくて、5年間も寝ていた彼女は目覚めてまだ2週間足らずだと言うのに、もうここまで歩き回れるようになった上に、食事も普通に取れるようになっていた。
尤も、まだまだ疲れやすいらしくて、食事後は身体が休息を求めて一人ソファーでうとうとしていたが、御手洗が言うにはこんな具合に一眠りするごとに、どんどん体力が回復していくらしい。そのスピードは驚異的で、医者に言わせると成長期の子供か、もしくは魔法みたいだそうである。
そんな彼女のことが気になるのか、倖が御手洗と熱心に何かを話しているようだった。ドイツ行きを阻止していた手前、罪悪感があったからか、彼の方も言えることはなんでも答えているようだった。
GBは日下部が帰る時に一緒に帰宅し、アンリも当たり前のように食器を片付けると何も言わずにさっさと帰ってしまった。下柳は縦川とビールを飲みながら談笑をしていて、上坂と美夜は、車で帰るという恵海を見送るために一緒に寺を出た。
外はもうとっぷりと日が暮れており、空の高いところに真っ白な月が浮かんでいた。人通りは少なく静かで、夜道を散歩するにはうってつけの日だった。これで2人きりなら最高なのだが、まだまだ上坂にべったりの美夜が気を利かせるなんてことが出来るわけもなく、3人は兄妹みたいに夜道を並んで歩いた。
とはいえ、そんなでも恵海は嬉しかったらしく、上機嫌に色々話をしていた。倖が帰ってきたから、そろそろドイツに引っ越しだ。両親に会うのが今から楽しみだと言う恵海の会話を上の空で聞いていたら、上坂には親がいないのに無神経だったと謝罪されてしまい、彼は慌ててフォローした。
彼女の話を聞いていなかったわけじゃないのだ。ただ、別のことを考えていたから反応が鈍くなっただけだ。
縦川の寺の辺りは道が入り組んでいて、坂も多いために大型車が入ってこれなかった。そのため、少し離れた大通りの駐車場に車を止めていたのだが、運転手は恵海が戻ると当たり前のようにそこにいて、黙って彼女のために後部座席のドアを開けた。
美夜とともに遠ざかる車に手を振って、それが見えなくなったら来た道をまたテクテクと歩いて戻った。美夜は2人きりになるとあっちに行ったりこっちに来たりと落ち着きがなかった。3人の時はそうでもなかったから、案外これでも気を利かせていたのかも知れない。
昼間のアンリとの会話からしても、彼女はどんどん成長しているようだった。恐らく彼女は、一生懸命人間になろうと努力してるのだ。自分は生まれた時から人間だが、美夜ほど真剣に生きるという事を考えたことがあるだろうか? 死について考えたことがあるだろうか?
町のあちこちにある色んな物に興味を示す美夜に答えながら、上坂はそんなことを考えていた。
「それじゃ、饗庭江玲奈は普段どおり、学校に通わずに都内の霊的スポットをふらふらしてたのね?」
「はい。一度お会いして話しもしましたが、やることがないと退屈そうにしておりました。だったら上坂君に会えばいい、紹介すると言ったのですが、それとこれとは話は別だと……」
「どうしても、タイミングとやらが重要なのね。よくわからないけど」
「そのようです」
「こういうことってよくあるの?」
「記憶してる限りではありませんが、何しろ私には想像もつかないような子ですからね……予言ですよ? 予言。普通は信じないでしょう」
「なるほど……信じてないから記憶にないって感じか」
上坂たちが寺に戻ると、倖と御手洗の会話は眠り病から預言者の話に切り替わっていた。預言者とは、眠り病から回復したその日に御手洗の携帯を通じて話をしたのだが、その時、すぐに会うことは出来ないと言われてしまったのだ。
預言者である彼女が言うには、次に自分たちが会う時は、立花倖が一緒にいるそうなのだが……こうして彼女が寺に帰ってきたからには、近い内に再会することになるのだろうか。
何はともあれ、上坂には預言者と話をする前に、倖としなくてはいけない話があった。
「先生……ちょっと良いですか?」
御手洗と話をしていた彼女は、なにか言いたげな素振りの上坂が近づいてくると、笑顔で迎えながら怪訝そうに首を傾げた。上坂が話しづらそうにしているのを見ると、御手洗はそろそろテレーズを病院に戻さねばならないからと、寺務所のソファで小さな寝息を立てていた彼女の方へと歩いていった。
しかし御手洗が去っていっても、上坂は中々口を開こうとしなかった。どうも寺務所の続きにある食卓で、ビールを飲んでいる縦川と下柳の姿が気になるようである。倖は彼らがいるから話しづらいのだろうかと思い尋ねた。
「あまり人には聞かれたくない話なのかしら?」
「いえ、そんなことはないんですけど……」
「なんだかわからないけど、それじゃちょっと外に出ましょうか」
上坂は平気だと言っているが、人の目を気にしているのは明らかだった。倖はそれならばと彼を誘って寺務所を出た。
だいぶ慣れたとは言え、夜の墓場はやっぱり不気味だった。境内に出た2人は墓地を見ながら話すもなんだからと、寺務所をぐるりと回って寺の裏側へと足を向けた。
そこには以前、饗庭江玲奈と出会った銀杏の木が植えられており、月明かりに照らされてぽっかりと開いたスペースが、夜に彩られてなんとも神秘的な空間を作り出していた。スピリチュアルだかなんだか知らないが、その光景を見ていると、本当にそんなパワーがあるような気がしてくる。
倖はその銀杏の木に背中を持たれかけると、上坂の方を向き直って尋ねた。
「それで、上坂君。話ってのは何かしら?」
「実はその……ドイツ行きの件なんですが……」
すると上坂は実に言い難そうに、
「俺が引っ越すのを、今すぐではなく、少し待ってもらえませんか?」
と言って、彼女に向かって頭を下げた。倖はなんとなく、彼がそんなことを言い出すんじゃないかと言う予感がして、それほど驚くこと無く彼に話の続きを促すのだった。
「それは、どうして?」
「その……実は今通ってる学校を卒業するまで、出来ればこのまま通わせて欲しいんです。あの学校は非行少年の寄せ集めみたいなところで、決して学力も高くなくて、俺が通ってても意味なんてないんですけど……それでも、あそこに通ったからこそ、出来た友達がいるんです。
もちろん、ドイツに行きたくないわけじゃないんです。本当ならまた先生と一緒に暮らしたい……そう思う気持ちも強いんです。家族が一緒にいられることは、とても素晴らしいことです。
実は俺、眠り病に罹った時、あっちの世界で本当の家族と出会ったんですよ。あっちの世界では死んだ兄さんが生きていて、優しい義姉さんもいて、そして俺が何をしてても無条件に心配してくれるお母さんがいました。
多分、普通に生きてたら絶対気づけないくらい、彼らは当たり前のように俺のことを愛してくれてるようでした。しょうがない奴だって口癖のように言いながら、何があっても絶対に俺のことを見捨てない。そういう、当たり前の幸せってのが俺にもあったんだなって思うと、無性に泣けてきてどうしようもなりませんでした。
ここには本物がある。俺が手に入れることが出来なかった世界がある。
でも、それと同時に、俺には俺の世界があるんだなって、その時はっきりわかったんです。
正直言って、俺の人生は最悪です。辛いことばかりだったけど、間違いもたくさん犯したけど、それでも今まで生きてきたからこそ、今の自分がいるんだ。先生と出会えて、エイミーと出会えて、雲谷斎や、学校の友だちと出会えたのは、俺がこのクソみたいな世界で生きてきたからなんだ。
だから俺は、ほんのちょっとの間かも知れないけれど、ここでの生活や、学校での生活で出来た縁を、簡単には手放したくないなって、そう思うんです」
倖は少し困ったような眉毛をしながら、でもどことなく穏やかな表情で言った。
「そう……実は、そう言い出すんじゃないかと思ってた」
「そうなんですか?」
「さっき、みんなと話していたあんたを見てたら分かるわよ。凄く楽しそうで、生き生きしていた。きっとみんなのことが好きなんだなあって……そう思ったわ」
上坂は恥ずかしそうにポリポリと頭を掻いている。倖は続けた。
「育ての親だからって、あんたのことまだ小さな子供みたいに思ってたけど、そんなことないわよね。もう大人なんだから、私のことは気にせず、あなたはあなたのやりたいようにやりなさい。私なんて16で家を出たんだから、18じゃ遅いくらいよ」
「はい……」
「でも、恵海にはあなたから言いなさいね。あの子はまだ、あんたと一緒にドイツに行くつもりでいるからね」
「……そんなこと、言ってもいいんでしょうか? エイミーも、お父さんお母さんと一緒に暮らしたいかも知れないのに」
倖は成長してもこういうところはまだまだ子供だなと思いながら、少し突き放すように言った。
「私はあなたのやりたいようにやりなさいと言ったわ。あなたがもし、自分の幸せじゃなくて、恵海が家族と一緒に暮らすことのほうが大事だと思うならそうなさい。でも、上坂君。男の子ってのは、いつか誰かの家族から、大事な女の子を奪っていくものなのよ。それを肝に銘じておきなさい」
「……はい」
倖は大丈夫かなと思いつつも、これ以上は野暮だろうと口を噤んだ。上坂が恵海のことをどうこうしなくても、結局のところ、彼女は自分の意思でこの国に残るだろうから、何を言ってもただのお節介に過ぎないのだ。
何しろ、恵海は誰もが諦めたあの絶望的な被害状況の中で、ただ一人だけ上坂が生きていると信じて、5年間も待ち続けていたのだ。今更誰が何をしようと、彼女の優先順位は初めから決まっている。
にもかかわらず、一人でなにかを言い聞かせてるような素振りで何度も頷いている上坂に対し、苦笑交じりに倖は続けた。
「でも、そうか……あなた、あっちで本当の家族に出会えたのね」
「はい。あ、でも、実際に会ったのは兄さんだけでした」
「そうだったの? 結構、時間はあったでしょう。せっかくだからお母さんにも会ってくれば良かったのに」
「なんとなく会いづらくて……もしもお母さんに会ってしまったら、今頃まだ帰ってこれなかったかも知れませんよ。もしくは逆に委員長みたいに、急激に夢から冷めてしまったかも」
「そう……」
倖は少し無神経だったかなと思い、話題を変えた。
「そう言えば、アンリって子も一瞬だけ眠り病に罹ったんでしたっけ?」
「はい。彼女は死んだお父さんが生きている世界に迷い込んでいたようです……GBが大人気タレントになった世界とはまた別の世界だったようですね」
「つまり考えようによったら、2人とも自分の都合のいい夢を見ていたわけね……でも、そこにいる人達はみんな本物で、あんたや日下部くんが同じ世界に行けたところを見ると、それは夢ではなく、平行世界の1つなんでしょうけど」
「あの世界は一体何だったんでしょうか? どうして俺はあんな世界に迷い込んでしまったんでしょう。これも俺の能力だとしたら、また新たな能力が、俺に芽生えたって考えればいいんでしょうか? 俺自身は何かが変わったような感じはしないんですが……」
倖は少し考え込む素振りを見せてから、
「そうね……あなたが何も感じないなら、能力自体は何も変わってないと考えるのが妥当でしょうね。あなたは世界を変えるために、自分の魂……もしくは主観だけを平行世界に移し替えた」
「……どういうことですか?」
「そもそも、眠り病って現象によって患者の身に何が起きてるのかを考えてみましょう。あなたと日下部くんを除く4人……三千院君、アンリエット、テレーズさん、お兄さんに起きたことを考えてみると、4人共、元は別の世界で暮らしていたんだけど、不幸なことが重なってその世界に嫌気が差し、魂だけが平行世界に移ってしまった。
そう考えると、まあ、しっくりくるわよね。
三千院くんはイジメを受けて、アンリエットは最愛のお父さんを悲惨な状況で亡くして、あなたのお兄さんとテレーズさんは文字通り死にそうな目に遭って……それぞれ、この世界から逃げ出したい動機があった。この動機が、おそらくは本人の持つ超能力と何らかの作用が起きて、彼らの魂だけを平行世界に飛ばしたと考えれば、超能力者ばかりが眠り病になるという事実の辻褄は合うわ。
つまり、眠り病は超能力者自身が起こしてる能力と考える。どうなってるかはわからないけど。超能力だから、あなたも彼らと同じように眠り病になって、彼らと同じ世界に行けたと考えれば、今回の現象も説明がつくんじゃないかしら。
考えようによっては、あなたの世界改変も、眠り病患者も、自分の都合のいい世界に主観を移動するという点では同じじゃない」
「……なるほど、言われてみればそうですね。じゃあ、もしかして俺は、今まで世界を変えるたびに、元の世界に眠り病の自分を置いてきてしまってたんでしょうか?」
すると倖は首を振って、
「それは多分、無いと思うわ。あなたの今までの世界改変は、主観の移動はあっても記憶の移動は無かった。だから魂のない肉体は生まれない。実際には確認のしようがないからわからないけどね」
「どういうことです?」
「まず、眠り病患者が元いた世界をA世界、移動した先をB世界と名付けましょう。ところで、眠り病患者がA世界からB世界に移動する前、B世界の自分にはまったく別の人生を歩んできた記憶があったはずよね? あなたは、B世界で別の自分の生活の痕跡を見たはずよ。
それが眠り病患者が移動してきたことで書き換えられてしまった。つまり記憶の移動が起こった。記憶とは、こうしてコピーが可能なものだと、あなたたち眠り病患者が証明したわけね。
記憶はコピー可能。では、魂もコピーが可能なのか?」
記憶と魂は同じものではない。記憶はパソコンのデータみたいに記述が可能だが、魂はそうではないのではないか。つまり彼女はそう言いたいのだろう。倖は続けた。
「ところで、自分の魂……主観と言い換えてもいいわ。これをコピーするってどういうことかしら?
もし、寸分たがわぬ自分の肉体が作れるとして……そうして作った魂のない肉体に、今の自分の記憶をコピーしてみる。すると傍目には全く同じ人間が2人生まれたように見えるけど、多分コピーした/された本人たちは、自分は自分だって主観が存在するはずでしょう。
この、コピーされた人の魂はどこから出てきたのか? 記憶と魂は同じものなのか? そもそも、コピーされただけの彼に魂は存在するのか? また、魂は肉体にしか宿らないのか? 例えば寸分たがわぬ肉体ではなく、コンピュータ上にシミュレートした人格に魂は存在するのか?
仮にコンピュータ上に作られた人格が、自分にも記憶がありますから、魂だってありますと言ったところで、人間は機械に宿る魂を想像できないわよね。コピー元のオリジナルすら、もうそれを確かめることが出来ないわ。主観……つまり私達の魂は、私達が自分自身で感じる以外に、その存在が証明出来ないのよ。
デカルトが、我思う故に我ありと言った時から、私達はこの主観とは何なのかということを考え続けてきた。もしも主観と客観が違ったら、私達が見ているこの世界は、人によって全く別のものを見ていることになる。だからヘーゲルは主観など存在せず、私達の持つ客観同士がお互いに確認し合うことによって世界は存在すると、よくわからないことを言ったわ。ラカンは、私達は生まれた時には何も無く、他人から言語を覚えることで初めて考えるということが始まるから、主観とは自分が頭の中で作った鏡像だと言ったわ。
まあ、よくわからないから、最近は哲学も廃れちゃって、誰も自分とは何か、主観とは何かなんて、あんまり考えなくなっちゃったのよね。なぜかって言うと、科学が発展してくるにつれて、どうも人間ってのも特別なものじゃなくて、私達の身体は化合物で出来ていて、記憶や感情も脳内で起こる1つの作用でしかないってことが分かってきたから。だから、もう少ししたら、脳神経学者が何かを発見するかも知れない。なのに、わざわざ言葉を弄して、よく分からないことを考えることはないだろうって、そんな感じになっちゃったわけ。
でも、もうじき分かるって言っても、未だに分かっていないんだから、考えないでいいってわけじゃないわよね。特に私は無限に存在するはずの平行世界について研究していたから、そこにいる自分自身とは何かってことを考えざるを得なかった。その一環で、さっきみたいに自分自身をコピーしたらどうなるかって考えたりもしてたわけ。
記憶も身体も寸分違わずコピーしても、元は同じ人間だったはずなのに、今はもう別の人間になってしまっている。だけどそこに魂が存在するかどうかはわからない。平行世界の自分ってのはこういう風に、他人から見れば同じに見えても、自分からしてみれば魂の抜けた存在なわけよね」
彼女はそこまで話すと、肩が凝ったと言わんばかりに自分の肩をトントンと叩いてから、
「話が脱線しちゃったわね。それじゃ上坂くんの世界改変能力ってものが、どういうものなのか考えてみましょう。
平行世界ってのは何なのか? 元は人間原理を説明するために出来た考え方なわけだけど、今はその説明は省くわ。とにかく、この世界は私達が何かを選択するたびに、いくつかに分裂すると考える。朝起きて朝ごはんを食べた世界と食べなかった世界。電車に乗り遅れた世界と間に合った世界。どんどんどんどん分裂していく。
上坂くんの能力ってのは、こうして分裂した無数の他世界にいる自分自身に、主観だけ移動する能力って考えると、今までの世界改変と、眠り病のときとの違いがわかるんじゃないかしら。
例えば、あなたが競馬場で馬券を買った時、この世界は馬券が当たった世界と、外れた世界に分裂したわけだけど……世界が分裂するということは、あなた自身も分裂するわけよね? つまり世界は2つ、あなたも2人に分裂する。
この時、お互いの世界を入れ替えたら何が起きるか?
多分何も起こらないわよね。ついさっき分裂したばかりなら、この時点でどっちの世界もそう違わない。馬券が外れた世界の上坂君が、強引に当たった世界に魂を上書きしてしまっても、物理的には何も起こらないわ。単に主観が入れ替わるだけ……
ところが、眠り病の場合は事情が少し複雑よね。あなたはこの世界とはかなり違う、全く別の歴史を歩んだ世界に移動した。そのせいであっちの世界のみんなと記憶の齟齬が出てしまったわけだけど、もしも主観だけが世界を移動したのであれば、そういうことは起きなかったはずよ。
あっちのあなたの脳内には、あっちで生きてきたあなた自身の記憶があるはずだから。
尤も、この場合、あなたは世界を移動したことすら感じられないでしょうけど。そうではなく、混乱が起きたのは、あなたが主観を移動すると同時に、記憶もコピーしたからでしょう。
つまり、競馬の時と眠り病のときとでは、世界移動と同時に、記憶をコピーするか否かの違いがある。
ところでコピーする必要があるということは、コピー元、オリジナルが存在するってことよね。じゃなきゃその記憶はどっから出てきたのかってことになるから。つまり眠り病には元となる世界が絶対存在する。
眠り病になると、まず眠り病になった世界とならなかった世界に分裂する。そして眠り病になった世界では、主観と記憶が移動した移動先の世界と、魂のない肉体だけが取り残された世界が2つ作られることになる」
上坂はふと疑問に思ったことを尋ねてみた。
「この時、元の世界の自分が抜け殻になるのは何故なんでしょうか? 別に自分の記憶をコピーしたからって、元の世界の記憶を消す必要はありませんよね?」
「そこがややこしいところね。多分、この場合、記憶は消されてはいないんでしょう。消えたのは魂の方よ」
「魂……?」
「さっきの自分そっくりな自分を作るって話を思い出して。あなたと寸分たがわぬ体を作ったとして、その体に記憶をコピーしてみる。すると傍目にはあなたが2人になったように見えるけど、あなたとコピーにはそれぞれの主観が存在するはず。つまり、似てるけど全く別の人間が生まれてしまう。
でも、本当にそうなのかしら? 誰もやったことがないんだから、そんなこと言い切れないわよね。もしかしたら、記憶をコピーしただけでは人間は動かないかも知れないし、もしかしたら、2つの体を持つ1人の人間が新たに生まれるだけかも知れない。もし、自分の身体が2つもあったらまともに生活できないでしょうけど……まともに生活出来ないから、どっちか片方は潰さなきゃいけない。
つまり眠り病で元となる世界に、魂のない身体が取り残されるのは、そういうことなんじゃないかしら? 記憶はあるけど、それが動いてしまうと不都合がある。魂は1つしかなく、記憶と違ってコピーは出来ないから、この身体は動かない。
もしくは……魂って言うのは元々自分の身体の中には無くて、別次元にあって、4次元時空の夢を見ているんだ。そう考えれば、魂がコピーできないって理由がわかりやすいんじゃないかしらね」
「なるほど……それでいつも言っていたように、先生はその魂が高次元にあるんじゃないかと考えたんですね?」
それは以前、彼女が言っていたことだった。この世界は人間が感じられる4次元時空よりも多くの次元が存在し、その方向からやってくる粒子のことをKK粒子と呼ぶ。彼女が言うには、美夜のようなAIと超能力者たちは、もしかしたらその粒子を使って通信しあってるのではないかと言うことだった。
「そうね。私達は無数に存在する平行世界の1つに暮らしている。こんなSFじみた宇宙が、どうやら現実のことかも知れないと最近では考えられるようになってきた。なら、別の世界にいる自分って何なんだろう? と、私は考えた。どの世界の自分も、結局はどこかの時点で自分の選択が生み出した自分なのかも知れない。だったら、この自分と、今の自分と、その違いはどこにあるんだろうかって。
それで思いついたのが、世界は無限に存在するけど、人間の魂は1つだけだってこと。別世界の自分と今の自分、まず真っ先に違いを挙げるとするなら、そこには主観があるかないかよね。この主観こそが魂であり、魂の見ている世界が、自分の暮らしてる世界なんじゃないかと。
でも、この考え方だと、私が見ている世界と、私以外の誰かが見ている世界は必ずしも同じじゃなくても良いってことになるわ。すると、私と上坂君が見てる世界が違うなら、私達は共通の話をすることすら出来なくなるわよね? でもそうはなってない。じゃあこの考え方は捨てるのか?
そこでまあ、もう一つ仕掛けを施してみる。それは私達の魂は、高次元で同じ場所に存在するんじゃないかってこと。同じ場所に有って情報共有してるから、私達は実は違うものを見ているんだけど、その齟齬を瞬時に埋めることが出来るんじゃないかってね」
「全人類の魂が、一箇所に集まってるってことですか?」
いまいち想像もつかないが、つまりそういうことなんだろうか。
「ええ、そう考えて差し支えないわ。具体的なイメージは、ちょっと伝えづらいから自分で考えてほしいけど、ちょうど宇宙の塵が集まって星を形作るように、私達の魂も一箇所に纏まってるって感じかしら……まあ、実は、全部受け売りなんだけどね」
「受け売り? 先生以外に、こんなこと考えた人がいるんですか?」
「いるわよ。結構有名な人。大昔……ノストラダムスは人類の歴史は1つの木に記述されていると考えた。ヘレナ・ブラヴァツキー夫人はそれをアカシックレコードと名付けた。カール・グスタフ・ユングは、集合的無意識というものを提唱した。私達の全人類は無意識の部分で繋がっていて、だから洋の東西を問わず同じような価値観を持ち、同じような宗教を信じているのだと……まあ、こんなオカルトチックな考えを披露しちゃったせいで、現実主義者のフロイトと袂を分かつことになっちゃったんだけど」
「ユングって心理学の先生ですよね? そんなバカげたこと本当に言ったんですか?」
「バカげたこととは失礼ね! 私だってそう信じたから、こんなこと言ってるのよ」
「あ、いや……すみません」
上坂が真っ青になって謝ると、倖はすぐに苦笑交じりに姿勢を崩し、
「ふふふ。まあ、それが普通の反応よね。実は、私も最初にこの話を聞いた時は、馬鹿馬鹿しくて話にならないと思ったわよ。でもユングがこんなこと言い出したのは、時代背景もあったらしいの。当時の欧州は、続く戦争の閉塞感からオカルトが流行してて、彼のように神秘主義に傾倒する人が多かったのよ。以前話したフリーメイソンや、神智学協会なんて神秘主義者の団体や、あのヒトラーも元々はオカルトチックな秘密結社に所属したそうよ。噂では彼は本気で聖杯を探していたらしいわ。他にもヒトラー・ユーゲントから選りすぐりの少年少女を集めて、超能力軍団を作ろうとしたとも言われてるわね」
「本当なんですか、それ?」
「どうも本当らしいわよ。色々証拠が残ってるらしいわ。こういうの詳しい人がいてね、さっきのアカシックレコードとかもその人が教えてくれたんだけど……懐かしいな」
「それはどんな人です?」
「私のMIT時代の教授よ。凄い変わり者でね……あの頃、16歳で渡米した私は大学で凄く浮いてて友達一人出来なかったのよね。まあ、勉強さえ出来ればそれでいいって思ってた、可愛げのない子供だったから仕方ないかも知れないけど……
教授はそんな私のことを気遣ったのか、ある日私に話しかけてきたのよ……
君、実は私はタイムマシンの作り方を知っている。そのせいで秘密結社に狙われているんだって」
「……は?」
「もちろん、私の気を引くための冗談か何かだと思ったわよ。私があそこで専攻してたのはカルツァクライン理論で、平行世界やタイムトラベルについて興味があるってことを、彼女は知ってて話しかけてきたんだろうなって。でもそうじゃなかった。彼女はいつだって大真面目だったのよ。それで何度も喧嘩になって、ケチョンケチョンにやっつけてやったんだけど……今思えば、あれは中二病ってやつだったのかしらね」
「中二病……」
「ええ、教授はタイムマシンの作り方を知ってるだけじゃなくて、自身も輪廻転生を繰り返して悠久の時を生きているなんて言ってたわ。彼女の目的は神になること。そのためにヒンドゥ教やらチベット密教に傾倒していて、いつもわけのわからない修行をしてたわね。池に飛び込んだり、木から飛び降りたり、一度地面に顔を埋めて逆立ちしてた時は、警察が出動する大騒ぎになったわ」
「す、すごい人ですね……」
「でも、MITの教授になるくらいですからね、彼女の話す並行宇宙論については無視できないものがあったのよ。当時の私がアメリカに行ったのは、そのためだったから、結果的に彼女と論争を繰り広げながらも、彼女のやる実験やら修行やらにもよくつきあわされたわ。それでいつの間にか、私も五次元に浮かぶ集合的無意識ってのを考えるようになったんだけど……」
「じゃあ、それって先生のオリジナルじゃなかったんですか」
「ええ、教授の話からヒントを得たものよ。私達が高次元に行くことが出来るなら、現在過去未来、好きな時間に行くことが出来るはず。ところが、元々人間の魂は5次元以上の時空に存在するから、そんなこと考える必要すらないんだって、その悠久の時を生きる教授は言ってたわよ。まあ、その辺は差し引いて考えても、5次元宇宙をから4次元を見下ろすって考え自体は有りえると、私は考えたわけだけど……」
「その先生はどうされてるんですか? もしかして、その人なら今起きている超能力騒動になんらかのヒントでも与えてくれるんじゃないでしょうか?」
「そうね……生きていたらね。彼女は……エレナは15年前に死んだわ。インド系のイギリス人でアメリカに永住権を得た人だった。噂ではかつて王立協会にも所属していたエリート中のエリートだったそうだけど……晩年は奇行がたたって学会からは遠ざかっていたみたいね。戦後生まれで年も年だったし、ある日、訃報が届いてそれっきりよ」
「残念ですね。もしもその人が生きていてくれたら……」
上坂はそこまでこぼしたところで、何か心に引っかかるものを感じた。
「ん? でも……あれ? エレナ?」
なんだろう、このこみ上げてくる違和感は……上坂が首を捻っていると、
「どうかしたの? 何か気になることでも?」
「ええ……なんか、今の話に違和感っていうか……先生の先生の名前も、エレナ……なんですね?」
「……ええ、そうね。エレナ・カウル・シン」
「中二病で、悠久の時を生きていて、自分なりの並行宇宙論を持っていた。輪廻転生を繰り返し、15年前に死んだ……もしも彼女が言うことが本当なら、先生の先生、エレナは今、14か15歳ですよね……?」
「ええ……いや、そんな……まさか。ただの偶然でしょう? あの中二病が? そんなはずは……」
その時、寺の境内の方からジャリジャリと石を踏む音が聞こえてきた。
「中二病とは人聞きが悪いね。僕はいつだって本気だったと言うのに」
驚いて身をすくませる倖をかばうように上坂が前に出る。だが、そんな必要は無かっただろう。その時、月明かりに照らされて出てきた人影は、上坂よりも倖よりも、ずっと小柄な少女のものだった。
預言者、饗庭江玲奈は2人の前にゆっくりと進み出ると、実に清々しい表情で空を見上げながら、
「いい月だ。それじゃ話を始めようか」
そう言って笑った。