生きるってなんれすか?
縦川の寺を出て、すぐ脇にある裏道を抜けると、壁みたいに急傾斜の坂が待ち構えている。隣町が『渋谷』というだけあって、寺がある池尻大橋の辺りは実際山なのだ。この辺りは渋谷に向かっておびただしい数の坂が並列しており、そのどれもこれもが結構な急坂であった。
そんな起伏に富んだ住宅街を通って、学校や病院が建ち並ぶ丘を越えると、国道246号線の上を走る首都高が見下ろせる高台になっており、ここが上坂の住む大橋という町だった。首都高の向こう側には、目黒川に沿って林立するビルと、いつも上坂が学校へ行くのに利用している中目黒の駅があり、平坦な町並みがどこまでも遠くまで続いている。この景色が夕暮れ時には金色に染まってとても美しいのだ。
上坂とアンリ、そして美夜はそんな小高い丘を一山越えて、首都高の高架下にある国道沿いのスーパーに入った。都会の駅前スーパーらしく、24時間営業のそこは寺から近いこともあって便利なのだが、いかんせん、男所帯で誰も料理をしないから滅多に利用することがないのが玉に瑕だった。
アンリはそんな住環境を頻りに羨ましがりながら、店頭に山積みにディスプレイされていた果物を手にとってその鮮度を吟味しているようだった。亡き養父がフレンチのシェフで、自分もビストロで働いてるだけあって、彼女の料理はかなりの腕前のようである。
面白いことに、彼女が食材を手にとってそれを見るたびに、美夜がそれは何をやってるのかと尋ねていた。元々、食べることに興味を持っていた彼女は、最近作る方にも興味が湧いてきたのだろう。
尤も、アンリとしてはかつての仇敵である美夜にそんな風になつかれても迷惑でしかなかった様子で、ずっとつっけんどんな態度ばかり取っていた。上坂はそんな2人が喧嘩しないようハラハラしながら間を取り持っていたのだが、それが相当うざかったらしくて、
「ああ! もう! あんた鬱陶しいのよ! ちょっとこのメモにある食材集めてきなさい」
「え!? いや、でも……俺は鮮度とかよくわからんぞ?」
「全部加工品や保存食品だから、鮮度なんかわからなくていいわよ。言い訳はいからさっさとどっか行ってちょうだい」
「しかし……」
上坂はなおも抵抗しようとしたが、流石にずっと世話になりっぱなしの彼女に、これ以上迷惑をかけるのは悪いと思い、大人しく引き下がることにした。
「わかったよ。でも、仲良くしろとは言わないが、喧嘩するなよ? 周りのお客さんの迷惑になるから」
「いいからさっさと行ってこい!」
アンリに尻を蹴られて、上坂は渋々その場を後にした。周りの客がクスクスと笑っている。美夜は元々彼が作ったドローン兵器だったから、彼にしてみれば子供みたいで、なんとなくほっとけないのだ。
これが親が子供に持つ愛情なのかどうかはわからないが、そんな彼女が誰かに嫌われているのは、上坂には忍びなかった。だが、それと同時にアンリの気持ちも分かるから強くは言えず、彼にとってこの2人の関係は悩みのタネだった。
そんな複雑な感情が出てしまっていたからだろうか、アンリからすると彼女のことを気遣いながら美夜を庇おうとする上坂の態度は、いちいち癇に障ったようである。彼女は上坂がメモを片手にトボトボと遠ざかっていく背中を見送りながら、
「まったく……エイミーさんも、あんな煮え切らない態度の男のどこがいいのかしら。今日だって、みんなに言われたからって、あの場面で友達だなんて断言しちゃってさ。自分だって彼女のこと好きなのは見え見えのくせに、情けないったらありゃしないわよ」
「神様はお嬢様のことが好きなのれすか?」
「そうよ。見てわからないの? あいつら両想いのくせに、いつまで経っても態度をはっきりしないんだから、昭和の少女漫画家っつーの。ホント見てらんないわ……」
アンリはそこまで手拍子で受け答えしてから、自分が誰に向かって話しているのかを思い出し、胸のうちにムカムカとした複雑な感情が湧いてきた。と同時に、恵海の気持ちは内緒にしなきゃいけないのに、まずいことを言ってしまった……と言う焦りが湧いてきて、なんとも言えない空々しい態度を取りながら、つっけんどんに美夜に向かって言った。
「あんた。エイミーさんが上坂のことが好きってこと、誰にも言っちゃ駄目だからね?」
「どうしてれすか? 神様もお嬢様のことが好きなら、教えてあげたほうが良いれす」
「そういうのは、周りが勝手にやっちゃ駄目なのよ」
「どうしてれす?」
「仮にあんたが上坂にエイミーさんの気持ちを教えちゃったとしてさ、もしも上坂がエイミーさんのことを好きじゃなかったら、エイミーさんは何も言ってないのに振られることになっちゃうでしょう?」
「神様はお嬢様が好きなんじゃないのれすか?」
「だから例えばの話よ……ロボ子には難しくてわからないのかな」
すると美夜は不服そうに唇を尖らせながら、
「ふみゅ~……仮定の話くらい美夜にも分かるれす。分からないのは、人間は答えが変わるなら気持ちも変わるのれすか。神様がお嬢様を嫌うなら、お嬢様もやっぱり神様を嫌ってしまうのれすか?」
「え? いや、そんなわけないけど……」
「なら、いつ言っても同じれすよ」
「いやいやいや! 先に時間を掛けて仲良くなっておけば、元は嫌いだった人でも好きになってくれるかも知れないじゃん。それから言っても遅くないでしょう?」
「そうれすか? もし嫌われてるとしても、好きだと言ってから、好きになってもらうように努力するほうが良いんじゃないのれすか」
そう言われてしまうと、そんな気がしなくもない……アンリは返答に窮した。
結局、言う言わないというのは、本人の勇気の問題に過ぎないのだろうか。彼女はなんだかわからなくなってしまったが、このままだと言い包められたような気がして癪だと思い、
「人間はそんな簡単にはいかないものなのよ。ちょっとした行き違いで傷口が大きくなることもあるんだわ。そうならないために、みんな細心の注意を払って告白してるんだから、周りが勝手なことやっちゃいけないのよ」
「ふみゅ~……人間は難しいれすね……美夜にはまだまだ分からないことだらけなのれす」
すると美夜はしょんぼりとしながら、なんだか哲学的なことを言い出した。
「人間は不思議れす。イエス様は隣人を愛せと言ったのに、殺し合いばかりしてるのれす。好きな人のために生きるのれはなく、嫌いな人を殺すために生きてるのれす。人間は機械と違って、自分で好き嫌いが決められるのに、どうしてなのれすか?」
「……どうしてって言われても」
「生きるってなんれすか? 愛ってなんれすか? おまえは美夜のことが嫌いだと言うのれす。美夜はおまえの仲間を殺したれす。れも、美夜はおまえのことが、例えテロリストらとしても好きなのれす」
アンリの顔が困惑と怒りの色に変わった。彼女にしてみれば、美夜は親の仇……突然、何を言い出すのだろうか、このロボ子は。この先の言葉次第じゃ許さない……かといってさっき上坂が懸念していた通り、往来でキレるわけにもいかない。アンリは密かに拳を固めて、怒りが爆発しないように耐えていた。
美夜は言った。
「美夜は人を殺すために生まれたれす。だから美夜はみんなが嫌いれす。嫌いじゃないと殺せないかられす。美夜が飛んでると、みんなが怖がって美夜のことを嫌いらって言ったれす。みんなが美夜のことが嫌いらから、美夜もみんなのことが嫌いで良いのれす」
それは非常にシンプルなルールだった。彼女がいつも誰彼構わず喧嘩を吹っかけていた理由はそこにあったのだ。
「れも、神様は子供を殺しちゃ駄目と言ったれす。だから美夜は子供が好きになれたのれす。好きらから、殺さなくていいのれす。大昔、イエス様は人間に、汝の隣人を愛せよと言ったれす。愛するとは好きになることれす。神様が子供を殺さないでと言ったから、美夜は人間と同じになれたのれす」
上坂にしては多分そんなつもりは無かっただろう。彼は単に、世界中の紛争地帯で子供が犠牲になってることを知っていて、せめてもの罪の償いのつもりで、子供だけは殺さないで欲しいと美夜にインプットしただけの話だろう。それが彼に出来る精一杯のことで、言うまでもなくそれは彼の独善に過ぎなかった。
だがそれは、美夜にとってはとても大事なことだったようだ。
「美夜は子供を殺さないで良くなったれす。そしたらマスターが新しい体をくれたれす。マスターは美夜に好きなことをしていいと言ったれす。美夜は殺せとしか言われたことが無かったから何していいか分からなかったれす。何をしていいか分からないから、神様に会いに来たのれす。
神様は美夜のことが好きだと言ってくれたれす。ここにいて良いと言ったれす。美夜が神様のことを好きになることも許してくれたれす。猫みたいに自由にしてていいと言ったれす。イエス様はみんなを愛せと言ったれす。ブッダは人間は正しいことを自分で決めて良いと言ったれす。だから美夜も自分の正しいと思うことを決めるのれす。
美夜は人を殺すために生まれたれす。れも、美夜はそんなことしたくなかったのれす。みんなを嫌うよりも、みんなを好きなほうが、美夜には正しいことなのれす。だからまたアメリカ人に言われても、美夜はもう誰も殺したくないれす。神様に言われなくても、おまえを殺したくないれす。美夜はみんなのことが好きなのれす。みんなのことを好きになったら、美夜も人間になれるれすか?」
アンリの心の中に様々な感情が湧き出してきて、彼女はどう返事をすればいいのかわからなくなった。良くわからない気持ちに突き動かされて、油断すれば涙が出てきてしまいそうで、彼女は奥歯をぎゅっと噛みしめながら絞り出すように、
「知らないわよ……」
というのが精一杯だった。
これで美夜のことが許せるわけじゃない。相変わらず、彼女のことが憎かった。ただ一つわかることは、悪いのは兵器そのものではなく、それを使う人間の方なのだということだけだった。
アンリは収まらない気持ちを必死に深呼吸をして落ち着けながら、しょんぼりした表情で唸っている美夜に背を向けて、買い物カートを押して歩き出した。
美夜がその後をよたよたとくっついてくる。アンリはフンッと鼻息を鳴らすと、並んでいた鮮魚を指差し、
「いい? 魚を買う時はまず目を見なさい? 死んだ魚の目って言うけれど、そんな風に白く濁った目をしてるやつじゃなくて、透き通った目をしてるのを買うのよ。それから鱗が揃っていてキラキラ光を反射するのを選びなさい? 触ってみて、ベタつくようなのはもう鮮度が落ちてるから買っちゃ駄目。それから、お肉にも言えることだけど、切り身を買う時はまず敷物に付着してるドリップがどのくらいかを見るの。これがじゅくじゅくしてたらもう駄目よ」
アンリがそんな具合に鮮魚の見分け方を説明すると、美夜はふんふん言いながら熱心に講釈を聞いていた。気がつけば夕飯の買い物にきた主婦たちも彼女の言葉に耳を傾けており、鮮魚売り場はいつの間にか人でごった返していた。
上坂はそんな2人の姿を遠巻きに眺めながら、人混みが途切れるのを待った。2人が喧嘩しないかと心配で急いで戻ってきたのだが、その必要は無かったようだ。
彼は美夜が一生懸命生きていることを知って微笑ましく思うとともに、変わろうとしていることに衝撃を受けていた。自分が作り出してしまったあの可愛そうな存在が、自分の意思で変わろうとしているのに、自分の方は一体いつまでも何を悩んでいるのだろうか。
彼は倖の顔を思い浮かべると、やはり自分の気持ちをちゃんと伝えるべきだと決意した。彼はもうかつての小さかった子供ではなく、たった3ヶ月程度の短い期間だったけど、この街で暮らし色んな人との出会いがあって、新しい自分になれたのだ。
やっぱり自分は、もう少しこの仲間たちと一緒にいたいんだ。彼はそのことを先生に、今は無性に伝えたかった。




