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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第三章・上坂一存の世界
68/137

中道

 そして手掛かりのないまま一週間の時が流れた。その間、わかったことと言えば、アンリでは上坂を起こすことが出来ないことと、上坂は夢でも見てるんじゃないかと言うこと、たったそれだけだった。


 恵海はあれ以来、病院の近くにホテルをとって、面会時間の許す限り毎日お見舞いをしているようだった。縦川は残念ながら寺を預かっている以上、ずっと留守にしておくわけにも行かず、彼の方は日に日に病院に通う時間が少なくなっていった。


 そういう状況だったので、縦川は美夜を恵海に預けようとしたのだが、ところが思いがけず美夜が寺に残ると言い出して、2人は現在、奇妙な共同生活を送っていた。


 上坂にべったりの美夜が、どうして寺に残ると言い出したのだろうか。話を聞いてみると、どうも彼女としては、上坂に留守を預けられているという考えだったらしい。ここはいずれ上坂が帰ってくる場所で、マスターである倖にここを守るように言われていたそうだから、彼女は愚直にそれを守っているのだ。


 その立花倖だが、あれから連絡が入っていない。彼女はあの時、海外にいると言っていたが、こっちから連絡を取る手段も無く、今どこにいるのかは全くの不明である。尤も、連絡手段があったところで、仮に彼女の方に上坂を起こす方法があるならとっくに連絡をしてきているだろうから、連絡がないのはつまりそういうことなのだろう。


 上坂がこの寺に来たのは6月の下旬、今からたった2ヶ月程度のことだった。だが、その間に起きた出来事があまりにも濃かったせいだろうか、彼のいない空白の時間がやけに長く感じられた。


 朝起きてお経を読んで、一緒に掃除した境内で、今は手持ち無沙汰に美夜が主の帰りを待っていた。その姿がまるで捨てられた猫みたいで物悲しい。何をやっても手がつかず、縦川も精細を欠いていた。


 その日は朝から雨だった。


 低気圧のせいかよく眠れなかったみたいで、起きてからずっと頭がぼんやりしていて、縦川はあくびを噛み殺しながら朝のお勤めを終えた。土砂降りが屋根を打つ音を聞きながら寺務所に行くと、境内に出ていけない美夜が、じっと軒から流れ落ちる雨のしずくを眺めていた。


 朝ごはんの用意をしようと冷蔵庫を開けたら、当たり前のように中身は空っぽで、買い出しに行こうにも雨だから、仕方なく戸棚からあんころもちを取り出してきた。本来なら三時のおやつだが、何も食べないよりはマシだろう。


 お茶を入れて寺務所に戻ってくると、美夜がそれを勝手に食べていた。まあ、彼女にもあげるつもりだったから別に良いのだが、喉をつまらせてゲホゲホ言っている彼女の背中を叩きながら、持ってきた湯呑を手渡す。


 美夜は湯呑を受け取ると、それを一気にぐいっとやろうとして、アチアチと涙目になっていた。その姿はまったくもって無邪気で人間の子供にしか見えなかったが、その実、彼女はAIで、元々は上坂の作った兵器だったというから本当に不思議なものである。


 このあいだアンリと喧嘩になったところを見ると、彼女は今もその頃の記憶を持っているようだ。しかし中東の戦況の激しさをニュース番組なんかで見ていると、そんな彼女に戦場のことなんて聞けなかった。人間と違ってコンピュータというものは、忘れないのが取り柄でもあるが、もしも無数にある自分の複製の記憶の何もかもを覚えているとしたら、彼女はどれだけの地獄を見てきたというのだろうか。もし彼女に人間らしい気持ちがあるのだとしたら、そんなの耐えられるのだろうか。


 朝食を終え、本堂の掃除をし終わったら、もうやることが無くなってしまった。いつもならラジオ日経を聞きながら、ああでもないこうでもないと考えている頃合いだが、ザラ場を眺めていてもまったく興味が惹かれなかった。そう言えば、株の出来高は天候にも左右されるらしい。こう空が暗いと、みんな取引をする気分になれないのだろうか。


 縦川はため息を吐くと、パソコンデスクから立ち上がって腰を伸ばし、仕方ないのでまた掃除でもしようかとブラブラと本堂の方まで歩いていった。すると雨から避難してきた猫たちの毛皮をなでながら、ノミをぷちぷち潰している美夜の姿が見えた。彼女に寄り添う猫たちが、幸せそうにゴロゴロ言っている。


 縦川も何も言わずにその横に並ぶと、寄ってきた猫を膝の上に乗せて、同じようにノミをぷちぷちやり始めた。時刻はそろそろ昼過ぎだったが、思った以上に何もない日のせいか、お腹はまったく空かなかった。


 そのまま2人何も言わずに黙々と猫の毛づくろいをしていたら、近所の小学校から5時を告げる赤とんぼのメロディが聞こえてきた。一日中薄暗かったせいか、それとも猫と一緒にいたせいか、時間感覚がすっかり失われてしまっていたらしい。


 縦川は彼の膝の上ですべり台みたいな格好で伸びをしていた猫を床に下ろすと、山門を閉めるために雨の中を走って行った。


「そう言えば、朝にあんころもちを食べたっきりだね。上坂君のお見舞い行く前に、何か食べて行こうか?」


 彼が戻ってくるなりそう言うと、美夜のお腹がぐーと鳴った。どうやら時間感覚だけじゃなくて、お腹が空いているのも忘れてしまっていたようだ。2人は特に何も会話を交わすことなく出かける準備をすると、寺をあとにした。


 縦川が懇意にしているいつものスナックにやってくると、もう開店時間はとっくに過ぎてるはずなのに、まだ準備中の札がかかっていた。もしかして臨時休業かな? と思ったが、中から仕込みの匂いが漂ってくるから、ママは居るには居るのだろう。


 どうしようか迷っていると、その匂いに釣られてまた美夜のお腹がぐーと鳴った。縦川はその音を聞くなり悪いと思いつつドアを開けると、


「こんばんわ~。ママ、看板がまだ準備中のままだけど、入っちゃ駄目かな? この子がお腹空かせちゃって」


 すると店のカウンターの方で男と並んで座っていたママが振り返り、


「あら、雲谷斎ちゃん。今日はまだ店を開けてないのよ」


 と言って、申し訳無さそうな顔をしてみせた。


「困ったな、腹ごしらえだけさせて貰えれば嬉しいんだけど」

「ごめんなさいね、ちょっと急なお客さんで」

「そうですか……それじゃ仕方ない」


 仲がいいとはいえ、流石にそこまで無理を言うわけにもいかない。縦川は、ママと一緒に並んで座ってる男に向かってペコリと頭を下げると、店を出ようと回れ右をしながら……ふと、何かが心に引っかかった。


 さっきから、自分たちが店に入ってくるなりコソコソと顔をそむけているあの男……どっかで見たことがあるような……?


「あれ……もしかして、外田(とだ)先生じゃないですか?」


 縦川が店を出ようとした勢いで、一回転してまた店内の方へ向き直ると、件の男がビクッと肩を震わせ顔を背けた。ママがアチャーっと言った感じに手のひらで顔を覆っている。


 何かまずいことでも言っただろうか……? 縦川が首を捻っていると、


「雲谷斎ちゃん、ごめんね、彼がここにいることは、誰にも言わないでくれる?」

「え? そりゃあ、構いませんが……どうかしたんですか?」

「どうしたって……ほらあ、この人、このところワイドショーで話題が持ちきりでしょう?」

「ああ……!」


 縦川はポンと手を叩いた。


 基本的にテレ東しか見ないから気づいてなかったが、巷ではまだ2週間前の体罰事件の話題で持ちきりだったのだ。外田はそのせいでワイドショーに追いかけられて、だいぶ参っているようだった。心なしか、以前見た時よりも元気がなく、少し痩せて見える。


 コソコソしてるのはそのせいだったか……縦川は得心すると、多分ママは勘違いしているのだなと思い、慌てて、


「あ、いやいや、声を掛けたのは別にテレビを見たからってわけじゃないんですよ。ほら、外田先生。俺、上坂一存君の保護者の縦川です。以前、職員室でお会いしたじゃないですか」


 すると外田は訝しげな表情で振り返り、じっと縦川の顔を見てから、


「……ああ、あの時の」

「なあに? 2人とも知り合いだったの?」


 ママが興味深そうにそう聞くと、外田はこくりと頷いて、


「うちの学校の生徒に上坂ってのがいてな。この人はその保護者で……」

「まあ! 外田ちゃん。あんた、上坂ちゃんの学校の先生だったの?」

「え? 上坂のやつ、ここにくんのか??」


 ママと外田は目をパチクリさせながら、お互いに指さし合っていた。どうやら外田は、上坂がこの近所に住んでいることも知らなかったらしい。マスコミや興味本位で店に来たわけじゃないと分かった縦川たちは、改めてママに入店を許可され店内に入った。


****************************

 

 臨時休業状態の店内は客がおらず、いつもならカウンターで澄まし顔をしているバーテンダーの姿も見えなかった。縦川たちは外田の座ってるカウンター席に、なんとなく間を開けて座り、ママの作ってくれた軽食をつつきながら彼の話を聞いた。


 縦川はまったく知らなかったことだが、外田はかつてこの街に住んでいて、ここにもよく通っていたらしい。学生時代はまだ米屋だったコンビニで、米の配達なんかをしていた勤労学生だったそうである。教師になってからもその縁で街を訪れ、先代のオーナーと一緒によく飲みに来たそうである。


 教職という職業柄、転勤が多くなり、そのうち高校野球で名を挙げると東京から離れて、しばらく遠ざかっていたようだ。美空学園が出来て戻ってきたのだが、以前ほど頻繁に訪れることは無かったせいか、今まで縦川と鉢合わせすることは無かったらしい。


 こんな偶然があるものなんだなと感心しつつ、お互いの共通の話題である上坂の話になったら、彼も上坂の容態を気にしていたようで、色々と尋ねられた。本当なら、病院に見舞いに行きたいのだが、自分が行くとマスコミを引き連れていきかねないので自粛しているらしい。特にGBの様子を気にしていたので、知ってる限りで話をしてあげたら、彼は感謝しつつも複雑そうな顔をしていた。


 そんな話をしていると、隣で一心不乱に飯を掻っ込んでいた美夜が突然、ゲホゲホとやりだした。美夜は色々と鈍くさく、特に食い意地が張ってて良く喉をつまらせているイメージが強い。


 体は人間と同じとは言え元々はAIなのだから、どんな風に味を感じてるのだろうと思いつつ、彼女の背中を擦っていたら、


「ありがとなのれす」

「あら~、ちゃんとお礼を言えるなんて、おりこうさんね」


 美夜が礼を言っている場面を見て、ママが意地悪くそんなことを言い出した。いつも邪教徒邪教徒言って、縦川に突っかかっていたのを覚えていたのだろう。ママがニヤニヤしていると、すると美夜はグビグビと水を飲み干したあと、すました顔をして、


「知ってるれすか? ブッダはカトリックの聖人なのれす。仏教はキリスト教の子分みたいなものらから、寛大な美夜は許してやることにしたのれす」

「あら、そうなの? 知らなかったわ」

「美夜は物知りなのれす」


 彼女は誇らしげに無い胸を張っていたが、その知識は、数日前に縦川が教えてあげたことだ。その時は、そんなのかんけいねーと言ってたくせに、ちゃっかりと自分の知識にしてしまっている。縦川は苦笑いするばかりだった。


「ふーん。そう言えば、仏教は色んな宗教をちゃんぽんしてるっていうものね。じゃあ、雲谷斎ちゃんはキリスト教にも詳しいのかしら?」

「え? いや、どうかな……」


 もちろん全然詳しくないのだが、隣で真剣な眼差しをした美夜が見上げていたので、なんとなく言い出せなくなってしまった。縦川は、ゲホゲホとわざとらしい咳払いをしながら、


「うん、まあ、そこそこね。専門家ってわけにはいかないけども」

「ホントれすか?」


 するとママではなく、美夜のほうが食いついてきた。彼女は好奇心を露わにした瞳でじっと縦川を見つめている。その純粋な子供みたいな目に迫られると嘘とは言えず、彼が苦し紛れに肯定すると、


「なら、おまえはサウロの気持ちがわかるれすか?」

「サウロ……?」

「美夜は分からないのれす。教えてほしいのれす」

「はあ……サウロさんねえ……」


 サウロってなんだ? ワンピースか? ……縦川は冷や汗をかきながら、美夜の見えないようにスマホを弄ってググってみた。


 するとどうやらサウロと言うのはキリスト教の聖人パウロのことで、目からウロコの語源で有名な人のようだった。


 古代トルコのタルソスで生まれたサウロは、元はキリスト教徒の迫害に熱心なガチガチのユダヤ教徒だった。彼は律法を無視するイエスの教えが許せなくて、キリスト教徒初の殉教者であるステファノスが無残に殺されるのを黙って見ていた。それ以降、イスラエルの地ではキリスト教徒の迫害は激しいものになっていくのだが、彼はユダヤ教の律法学者(ラビ)が命じるままにキリスト教徒を捕まえては断罪する、警察官みたいな役目を任されて、来る日も来る日もキリスト教徒を迫害していた。


 キリスト教の成立直後、こんな具合に迫害が続いたせいで、やがてイスラエルの地からはキリスト教徒がみんな逃げ出してしまった。すると律法学者は、今度は海外まで追いかけていって殺してこいと彼に命じたのだった。


 敬虔なユダヤ教徒だった彼は、命じられるままに現在のシリア・ダマスカスの地を目指したのだが、ところがその途上……突然、天から光が差し、『サウロよ、どうして私を迫害するのか』というイエス・キリストの声が聞こえてきて、その途端、彼の目が見えなくなってしまった。


 それから三日間、彼の目が光を感じることはなく、同じく天からの啓示を受けたアナニアという女性に治してもらうまで、暗闇の中で過ごさなければならなかったそうである。


 女性から洗礼を受けた時、彼の目からは魚の鱗が落ち、それが目からウロコの語源となった。その後、元通り目が見えるようになった彼は、自分は神の奇跡に触れたのだと改心し、キリスト教の弾圧者から庇護者となって、その伝道のために生涯を尽くした。


 彼とともに伝道の旅をした中には、四大福音書の著者であるマルコとルカがおり、彼らはパウロの弟子でもあったそうである。


「なるほどねえ……」


 縦川は何で急に美夜がサウロの気持ちがどうこう言い出したのかわかったような気がした。


 目からウロコが落ちたかどうかは分からないが、弾圧者だった彼が改心したことは本当だろう。それまで、キリスト教徒を見つけたら機械のように殺して回っていたはずの彼が、どうして急に庇護する側に回ったのか? 美夜はその謎を自分の境遇と重ねて考えているのだ。


 縦川はそんな彼女に適当なことは言えないなと肝に銘じながら、慎重に言葉を選びつつ続けた。


「きっと彼は悲しかったんじゃないかな」

「……悲しい?」

「うん。律法学者に命じられて……つまり、神様の命令だからって迫害を続けてはいたけれど、聖地から追い出した人たちを、外国まで追いかけていって殺せって言う律法学者の言葉には、さすがの彼も納得が出来なかった。どうしてそこまでする必要がある? そもそも、自分はいつまでこんなことを続けなきゃいけないんだ? でも命令に反したら自分が異端者になってしまう。だから心は嫌だと感じていても、彼は迫害を続けざるを得なかった。その気持ちが、ダマスカスまで追いかけていったところで決壊したんだろう」


 当時キリスト教は成立したばかりで信者は全然居なかった。信者だったのはユダヤの神を信じていたけど、ユダヤ人じゃなかったばっかりに、宗教を実践することが許されなかった人たちだった。


 その殆どは戦争や飢饉から逃れてきた移民や娼婦なんかの弱者ばかりで、組織立った抵抗なんてもちろん出来なかったろう。そして、そんな彼らを迫害するのはとても簡単な仕事だったはずだ。


 だからサウロも最初は律法学者の言うことを聞いて、彼らを積極的に排除していた……でも、海外まで追いかけていってそいつらを殺せとまで言われると、果たしてこれでいいのか疑問を持つようになった。


 彼が迫害していた人たちは、律法学者たちは邪教徒だと言うが、実際には同じ神を信じている人たちだったのだ。確かに、戒律によればユダヤ人でない彼らがユダヤの神に救われることはない。でも、だからって信じることさえ許されないのはどうなんだろうか。


 それが許されると言ったのがイエスであり、彼は律法学者たちの方が間違っていると言ったために処刑されたのだ。サウロはどっちが正しいのかわからなくなった。


「だから彼は自分の気持ちに素直になったんだろう。正しい行いをしているのであれば、こんな苦しい気持ちになるわけがない。自分はキリストを信じようと……」

「人間が自分勝手に、正しい、正しくないなんて、決めてしまってもいいのれすか?」


 機械はそんなことをしてはいけない。彼女はそんな目をしていた。


 確かに、彼女の立場なら、縦川が言ってるようなことは受け入れがたいことなのかも知れない。縦川はそんな風に真剣な目で彼の言葉を待っている美夜に向かって言った。


「それが決められるから、我々は人間なんだろうね」


 彼は続けた。


「仏教にも似たような故事があるんだよ。お釈迦様の生まれた時代は世の中が乱れていて、色んな思想家たち、沙門(しゃもん)って言うんだけど、みんなが自分勝手なことばかり言っていたそうだ。


 ある沙門は人間は元素で出来てるからそれを刃物で断ち切っても、つまり殺人を犯しても罪ではないと言っていたり、全ては運命で決められているから意思などもってても無意味だと言う悲観論者がいたり、逆に快楽主義を説き、遊び回ってるのもいた。さっきのユダヤ教と同じように、バラモン教もバラモンの血筋だけが覚者になることが許されるなんて言っていた。


 世の中で偉いと言われてるような人たちがそんなことを言うものだから、おかげでこの時代の人達は、みんなどうやって生きてけばいいかわからなくなってしまった。


 お釈迦様はそんな現状を憂えて、中道を説いた。世の中には極端なことを言う人達がいっぱい居るけど、迷うことはない。私達は自分が正しいと思うことをやればいいんだ。それが悟りに至る道なんだよと、お釈迦様は言ったんだ。


 中道ってのは真ん中って意味じゃなくて、正しいって意味なんだね。


 よく中道政治なんて言葉を聞くけど、あれは極端な意見も全部取り入れましょうって意味で使われてるけど、本来の意味は違うんだ。自分が正しいと思う気持ちを蔑ろにして、いいとこ取りをしようとしても上手くいかないよって、サウロもお釈迦様もそう言いたかったんじゃないかな」


「人間は、自分で決めて良いのれすか」


 そういう美夜の瞳がキラリと光ったような気がした。これが目から鱗が落ちるということなのだろうか、彼女の中でずっともやもやしていた霧が、今もしかしたら晴れたのかも知れない。


 美夜はアンリと喧嘩して以来、何かを考えているようだった。多分、彼女が兵器だった頃の記憶が彼女をそうさせていたのだろう。縦川は自分の言葉が彼女の迷いが晴れる一助になったのだとしたら良かったと思った。


 それにしても……どうして彼女はサウロの気持ちなんてものに興味を示したのか。確かに美夜の境遇とサウロは似たところがあったかも知れない。だが、そもそも彼の気持ちがわからない美夜が、なんの脈絡もなくそんなことを気にする理由がないだろう。


 もしかして、誰かの入れ知恵だろうか? 上坂や倖がそんなこと言うとは思えないから別の人だろうが、このところの美夜の生活を思い返してみても、そんな人物に接触があった覚えはない。


 まあ、美夜は元々AIだし、彼女のオリジナルと情報共有をしていると言うことらしいから、もしかしたら縦川には想像もつかないような何かがあったのかも……


 彼がそんなことを考えていると、


「ふん……正しいことねえ。正しいことってな、一体、何なんだろうな。俺は確かに体罰教師だ、世間が言うように自分が許されないのは分かってる。でも、昔はこれで良かったんだよ。正しかったんだよ……なのに、ねえ、お坊さんよ? 時代によって正しいことが変わるんなら、結局、俺達は何を信じて生きていきゃあ良いんだろうな」


 カウンター席の離れたとこで、外田が頬杖をつきながら、グラスを傾けていた。もう何杯目か分からないが、その頬がほんのり赤いのを見ると、すでにそこそこ出来上がっているようだ。


 このところ、あちこちから追い詰められて相当ストレスを溜め込んでいるのだろう。その瞳がとろんとしていて、少し怖かったが、スナックのママに良くしてもらった手前、少しくらいは貢献してやろうと、縦川は椅子の向きを変えると、彼の愚痴を少しの間、聞いてやることにした。


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