あれは夢でしたよ
「無理無理無理無理無理!!!」
シャノワールの店内でアンリはにべもなくそう叫んだ。ビストロレストランの夜の営業が始まる直前、まだ準備中の店内に縦川たちが入っていくと、その中に美夜の姿を見つけたアンリは露骨に嫌そうな顔をした。
縦川は詳しいことは分からなかったが、彼女は美夜の元となるドローン兵器に何か因縁があるようだ。そんな彼女の気持ちを考えずに、美夜を連れてきたのは失敗だったかなと思いながら、上坂のことを頼んでみると……
「そんなの冗談じゃないですよ。確かにあいつの先生が言う通り、私はあいつの能力に引っ張られやすいみたいですね。実はこの間もあいつの能力に巻き込まれてひどい目にあったんですよ……あの野郎」
「本当かい!? だったら尚の事……」
「いいえ! だからこそお断りですよ。得体の知れない病気に罹るリスクがあるって知ってて、誰が好き好んでそんなボランティアするってんですか、冗談じゃない」
「そこをなんとか」
「駄目ったら駄目ですよ!」
縦川はそれでもなんとかお願いしてみようとしたが、まるで暖簾に腕押しだった。押してだめなら引いてみろと、あの手この手で頑張ってみたが、彼女は頑として受け入れようとはしてくれなかった。
尤も、だからといって彼女のことをケチだとかなんだとかは思わなかった。何しろ、彼女の言う通り、彼女が上坂の能力に巻き込まれやすいとしたら、彼女が眠り病に罹るリスクは高いのだ。最初から無茶を言ってることを承知していた彼は、これ以上押し問答しても無意味だろうと、ため息を吐いて話を切り上げるしかなかった。
ところが……彼が話を切り上げようとしたその時、縦川の背後に隠れていた美夜がするりと彼の脇の下を掻い潜ってアンリの前に躍り出ると、
「おい、テロリスト。おまえは神様に生かされてることを感謝するれす。神様が殺しちゃ駄目って言ったから、美夜はおまえを見逃してやったのれす。その恩を忘れてのうのうと生きてるくらいなら、神様のためにその身を捧げてもいいれはないれすか」
「……なんだと」
縦川は、突然、みんなの前に出てきて、そんな不穏当なセリフを吐いた美夜にも驚かされたが、そんな美夜に向かって今まで見たことも聞いたこともないような怒気を孕んだ声を出しながら、鋭い眼光を浴びせかけたアンリの姿にゾクッとさせられた。
いつも客商売で笑顔の絶えない彼女からは想像もつかないようなそのど迫力に、縦川と恵海の2人は思わず身が竦む思いがした。
アンリは怒りに震える声で、
「どういうことよ、あんた。あの時、私のことを殺さなかったのは、あんたがそうプログラムされたってだけの話でしょ。あいつは関係ないわ」
「ホントはおまえは殺されていたれす。れも、神様が子供は殺しちゃ駄目って美夜に言ったれす。アメリカ人は殺せって言ったけど、美夜は殺さなかったれす。そしたら神様は凄く喜んでくれたれす」
アンリの顔が見る見るうちに紅潮していく。縦川は何がなんだかわからなかったが、このままじゃまずいと思い、二人の間に割って入った。
「まあまあ! 2人とも落ち着いて! アンリちゃんも、その辺で。お仕事中に悪かったね。無理言ってすまなかった。どうしてもってわけじゃないんだ。また何かあったら連絡するから……」
しかし彼女は話をまとめようとする縦川の姿なぞ眼中にないといった感じで、
「ざけんじゃないわよっ! どうしてあいつに憐れまれなきゃなんないのさっ! あいつっ……くそっ……こないだそんなこと言ってなかったくせにっっ!!」
「きっとおまえは今日のために生かされたのれす。だから神様のために命を差し出すれすよ、テロリスト」
「うるさいっ! あんたが言ってるのは、ただの逃げよ。あいつが言ったから殺さないってのは、ただあいつに責任を押し付けてるだけじゃないのさ。あいつがどんな気持ちであんたにそう言ったかもわからないくせに、今更人間ぶるんじゃないわよ、人殺し機械の分際で」
「むきぃー! 美夜は機械じゃないれすっ! もう許さないれすよっ! 今度こそ、おまえなんか殺してやるれすっ!」
「やれるもんならやってみなっ!」
次の瞬間、2人はどちらともなく殴りかかっていた。縦川にしてみたら完全に不意打ちだったが、仮にそうじゃなくっても止めることが出来なかいくらい、それはあっという間の出来事だった。
今まで見たこともないような物凄い形相で、アンリが美夜の顔面にパンチを叩き込む。そしてすかさず鼻血を出してのけぞる彼女に覆いかぶさるようにタックルしていった。
体重差から明らかに不利であるはずの美夜は、アンリのタックルを食らうとまるで子供みたいに吹っ飛んでしまったが、彼女はそれまでの鈍臭さを返上するかのように、ひらりと回転受け身を取りながら床から飛び起きると、勢いをつけすぎてバランスを崩していたアンリの横腹に思いっきり頭から突っ込んでいった。
バチンッ! っと、相撲の立会いみたいに、体と体が打つかる音がして、2人はもみ合いながら床に転がった。そしてお互いに相手を振りほどこうと足をばたつかせるたびに、その辺にあった椅子やテーブルを倒してしまい、ガシャンガシャンと盛大な音を響かせて、床にナイフやフォークが散らばっていった。
「わー! 2人ともやめてやめて!」
縦川はもみ合う2人の間に足を突っ込み引き剥がそうと試みた。だが、自分より一回りも二回りも小さい女の子たちのどこからそんな力が出ているというのか、大の大人が必死になって止めようとしても、2人の殴り合いは止まらなかった。
そうこうしていると店内の騒ぎに気づいたクロエがバックヤードから飛び出してきて、
「エティーッッ! あなた、なにをやっているんですか!?」
彼女の金切り声が店内に響いて、ようやくアンリが動きを止めた。美夜はその隙きを狙って彼女の顔面にパンチをお見舞いしようとしたが、今度こそ縦川はそれを止めて、2人を引き剥がすことに成功する。
「エティ。一体、これは何の騒ぎですか? お知り合いだからお通ししましたが、どうしてあなたたちが喧嘩になってるんです?」
クロエが諭すように尋ねるが、アンリは拗ねるように唇を尖らせ、床に座ったまま何も答えなかった。縦川がまだ彼の腕の中でバタバタと大暴れしてる美夜を羽交い締めにしていると、その横を通って恵海がアンリの方へ近づいていき……
彼女はアンリの前で跪くと、彼女の手を取って真剣な眼差しで謝罪した。
「アンリさん……ごめんなさい。あなたを怒らせるつもりは無かったんですの。あなたと美夜の間に何があったかは知りませんわ。きっと私には想像もつかないような出来事があったのでしょう。そんなあなたに私達の一方的な願望をぶつけるのは、ただあなたに苦痛を与えてしまうことだったのかも知れません。でも、私達ももはやあなたにお縋りするより他になかったのです。いっちゃんは眠り病に罹ったまま目を覚ましません。お友達はもう1週間も眠りっぱなしなんだそうです……もし、このままいっちゃんが目を覚まさないなんてことがあったら……」
彼女はそこまでどうにかこうにか冷静に口にしていたが、それ以上は耐えきれないとばかりに、ボロボロと大粒の涙を流しながら続けた。
「私……私は、これからどうやって生きていけばいいのか……彼が生きていることだけを頼りに、今まで生きてこれました。その彼とやっと再会することが出来たっていうのに、まさかこんなことになるなんて……まだ何も楽しいこともやれていないと言うのに……好きとさえ言えていないのに……私はもう、どうしたら良いのかわからなくて……」
ポロポロと涙を流す恵海を中心に、店内は居たたまれない空気になった。
厨房からフロアの様子を見ていたシェフ達がオロオロしながらこちらを見守っている。散らかった床の掃除をしようとしていたウェイターは渋い顔をして意味もなく斜め上の方を見ていた。驚いたことに、縦川の腕の中で暴れていた美夜までも大人しくなっていた。
本気で悲しんでいる人の涙は、すべての人を沈黙させるのだ。
クロエはそんな恵海を見て気の毒そうな顔をしてから、アンリの方を向き直り、
「……エティ、なんとかならないのですか?」
「クロエさんは事情を知らないからそんなこと言えるんですよ」
仮に美夜が絡んでなくても、下手をすると自分まで眠り病に罹ってしまう可能性があるのだ。簡単に良いですなんて言えるわけがない。
アンリはそう言って仏頂面を作ってみせたが、しかし恵海が上坂のことを好いていることはよく知っていたから、それ以上強く出れなくなってしまった。
彼女だって恋をしていたのだ。愛する人が死んでしまうことがどれほど悲しいことなのか、他ならぬ彼女自身が、身にしみてよく分かっているのだ。
自分がはいと言わなければ、恵海はしこりのような悲しみを、いつまでも胸に抱えることになるだろう。可能性が残されているというのに諦めねばならない無念さを、彼女は否応もなく感じてしまった。
アンリは自分の頭をガリガリと引っかいて、
「あー! もう! わかったわよ! わかったからみんなしてそんな顔しないでちょうだい。行けばいいんでしょう、行けば!」
ボロボロと涙を流しながら恵海が顔をあげる。縦川は美夜を押さえ込みながら、
「え、いいのかい?」
「いいも悪いも、このままじゃ私が悪者じゃないですか。上坂のことなんか、ほんっっっっっ……………………っとに! どうでもいいんですけどね!? みんなから嫌な奴みたいに見られるのは堪りませんよ。でも、私が行ったところで何か起きるとは限りませんよ!? そうなって落胆しても、私のせいじゃないですからね」
「それはもちろん。でも本当にいいのかい? 今更だけどリスクのあるお願いだし、嫌なら断ってくれてよかったんだけど」
「本当に今更ですよね!? 気が変わるからもう言わないでくださいよ……それより、エイミーさん」
アンリは、涙目で縋るような目つきで見つめている恵海の目をじっと見つめ返しながら言った。
「そのかわり、上坂が目を覚ましたら、あんたちゃんと好きって言いなさいよ?」
「え!? ……それは……」
「それは~……じゃないわよ! 人にここまでさせるんだから、それくらい約束しなさい。今回の件でわかったでしょ? あいつの凶悪な運だと、これから先も何度だって同じような目に遭っておかしくないわ。こんなことになってからじゃ遅いんだし、言える時に言っとかないと絶対後悔するから」
「そ、そうですわね……」
「いい加減、私も気になってきたから、あんたたちがドイツに行くまでも何とかしましょう。手を貸してあげるから。わかった!?」
「わ、わかりました。頑張ってみますの」
「よしっ……! それじゃあクロエさん、私これから病院行ってきますから、今日はお休みで構いませんよね?」
「ええ、どうせその顔じゃ接客も出来ないでしょう。明日もヘルプを頼んでおきますから、今日はゆっくりなさい」
「ホントですか? 有給ですよ? 有給」
「わかったから、早く行っておやんなさい」
クロエから言質を取ると、あれほど嫌がっていた顔はどこへやら、アンリは満面に笑みを浮かべながら飛び跳ねるようにして、更衣室へ駆け込んでいった。
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病院に戻ると上坂は検査で連れ回されているようだった。病状はGBと同じでこれ以上調べようも無かったが、患者ごとの違いが何かないかを細かく検査しているらしい。仕方ないこととは言え、モルモットみたいな扱いにはうんざりする。
取り敢えず、検査が終わるのを待ってから病室へと向かうと、多分興味本位であろう医者が一緒についてきた。現状、取れる手段はし尽くしてしまったから、彼としても可能性があるとしたらなんでも試してみたいのだろう。
病室に入るとストレッチャーから降ろされたばかりの上坂が、ベッドの上で静かに寝息を立てているのが見えた。その姿だけ見ていると、とても重病人のようには見えないのだが、これが何をやっても目を覚まさないから、本当に不思議な病気である。
看護師が布団を整え、ストレッチャーを片付けて去っていくと、すぐさま恵海と美夜が彼の枕元に顔を寄せて、一生懸命話しかけ始めた。両手に花のようにも見えるが、やってる本人たちが必死なので、とてもそんなこと言える気にはなれなかった。
ベッドの上坂はうんともすんとも言わない。縦川とアンリは上坂の足元の方からそんな2人を見下ろす感じに立つと、
「……で、どうかな? アンリちゃん。何か変わった感じとかしない?」
すると彼女は残念そうに首を振って、
「特になんにも感じませんね。って言うか、何を感じればいいのかも分かりませんし」
「駄目かあ……」
「だから言ったじゃないですか。私が来たところでどうこうなるとは思えないって。そんながっかりした顔しないでくださいよ」
「う、うん、ごめん……でもまいったな、これで打つ手なしか……」
「こいつ、本当になにやっても起きないんですかね……? エイミーさんごめんなさい、力になれなくて。でも、せっかくここまで来たんだし、一応私もこいつに呼びかけてみますよ。ちょっとだけ、場所代わってもらえます?」
アンリはそう言うと、申し訳無さそうな顔をしながら恵海の方へと歩いていった。
しょげ返る恵海が立ち上がり、アンリに上坂の枕元を譲ると、反対側にいた美夜がアンリの顔が間近に迫ったのを嫌ってぷいっと横を向いた。すでに店でやりあっていたからか、もう以前みたいにすぐにキーキー声を上げて突っかかっていくようなことは無かったが、代わりにへそを曲げてしまったようだ。
尤もそれはお互い様のようで、アンリも美夜の顔をムスッとした顔で睨みつけると、上坂に向かって飼い主がなってないとでも言わんばかりの表情で、
「おい、上坂、起きなさいよ。あんたのせいで、こっちはひどい目にばっか遭わされてるわよ。起きたら慰謝料請求するからね。慰謝料。わかった?」
縦川は思わず苦笑いしてしまった。それで少し空気が和らいだからか、心なしか上坂の表情も穏やかなものに代わったような気がする。もちろん、それは気のせいだったろうが……
アンリは肩をすくめると背後を振り返り、
「やっぱり、駄目ですね。私がどうこうしたところで、こいつが起きるとは思いませんでしたが……一応、他の2人の様子も見に行ったほうがいいでしょうか?」
「どうだろう。三千院君も日下部君も、上坂君と同じだろうしなあ……」
「まあ、見るだけならタダですから」
そう言って彼女が立ち上がろうとしたときだった。
上坂の耳元に話しかけようとして、少しばかり前のめりになっていたのだろう。立ち上がろうとした彼女はよろよろとバランスを崩し、思わず上坂のベッドに手をついてしまった。瞬間、彼の手が跳ねてベッドからはみ出てしまい、彼女は慌ててその手を元に戻そうとしたのだが……
「あ、あれ……?」
彼女が上坂の手を掴んだ瞬間だった。アンリは強烈な目眩がしたかと思うと、フラフラとその場で脱力し……
「……アンリちゃん? ……アンリちゃん!!」
縦川の叫び声を遠くに聞きながら、アンリはバタンキューとその場に倒れてしまったのである。
「……ぐ~……すやすや……ぐ~……すや~」
何事か? と縦川が駆け寄る。驚いて恵海が身を竦めている。医者も急いで縦川と一緒に彼女を抱き起こすと、すぐに持っていたペンライトで彼女の瞳孔反応を調べながら、
「ま、まさか……これも眠り病だと言うんですか?」
「そんなこと、俺に聞かれてもわかるはずないじゃないですか」
気が動転した医者が困惑気味に尋ねてきても、縦川は馬鹿みたいな返事をすることしか出来なかった。アンリと上坂を接触させたら、なにか起こる可能性はあると思っていた。だが、もしかするとこれは一番悪い結果だったのでは……?
縦川はサーッと血の気が引いていくのを感じた。やはり、彼女を巻き込むべきじゃなかったのでは? クロエになんて報告しよう……
「大丈夫れす。そいつならまだ見えるれす」
ところが、慌てる縦川に対し、ベッドの向こう側にいた美夜が、まるで対岸の火事でも見ているような落ち着いた声でぼそっと言った。
「見える……? 見えるって、どういうこと?」
多分、文字通りの意味じゃないと思った縦川が尋ねてみると、美夜はツンとした表情を作りながら、少し面倒臭そうに、
「そいつは美夜が捕捉してるれす。今、景色が変わってオロオロしてるれす。起こすからちょっと待つれすよ」
彼女はそう言うと、その場にあったパイプ椅子にちょこんと腰掛け、背筋をぴんと伸ばしながら目をつぶり、急に動かなくなってしまった。
「美夜ちゃん?」
と、声を掛けても、もうガン無視である。
縦川は医者と目配せし合うと、恐る恐る美夜の様子を確認してみた。ところが彼女は座ったまま、瞑想するかのようにピクリと動かない。薄目を開けているので、眠ってはいないのだろうが……
「ま、まさか……こっちも?」
医者がパニクり、目を回している。もはやこうなってしまうと何を言っていいかわからない。縦川は諦めるようにため息を吐くと、取り敢えず2人を寝かせるための場所がどこかにないかと、医者に言うのが精一杯だった。
尤も、この場合、そんなに慌てる必要はなかったのだが……
上坂を起こそうとして、アンリと美夜という新たな眠り病患者が発生してしまった病院は、それから暫くの間パニック状態に陥った。何しろ、GBが担ぎ込まれてからわずか1週間で次々と眠り病患者が増えていったのだ。
もしかして、眠り病は空気感染するのでは? ウイルスでも細菌感染でも無いのは分かってるくせに、そんないい加減な噂が院内を飛び交い、不安に駆られた入院患者からの問い合わせで、ナースコールの回線がパンクするほどの大騒ぎになってしまった。
医者も看護師もそれを否定するのにやっきになったが、ところが、それからほんの数時間ほど経過したあと、新たな眠り病患者と思われていたアンリがあっさりと目を覚ましたことで、事態は肩透かしのように急速に沈静化するのだった。
彼女は起きるなりスッキリした表情で、眠っていた時の状況を語った。
「いやあ、それが自分でも何が起きたかさっぱりで。いきなり眠気が差してきたかと思ったら、次の瞬間はもう夢の中でして……」
「夢の中だって?」
自分で気づいているのであれば、明晰夢というやつだろうか。
「ええ、あれは夢でしたよ。そこでは私の死んだパパが生きていて、私達は今でも一緒に暮らしてるんです。そんな都合のいい話ありえないから、ああ、これは夢だなあって思いまして。まあ、夢なら夢で楽しめばいいかと普通にエンジョイしてたんですよ。そしたら、暫くしたらそいつが現れて……」
彼女はツンと唇を尖らせながら美夜を指差し、
「そいつが出てきて、さっさと起きろって言うもんだから。私、ああ、やっぱりこれ夢なんだなあって……そう思ったら普通に目が覚めました」
「……それだけ?」
「ええ。以上です。私、眠り病に罹ってたんですか?」
「いや、俺に聞かれてもわからないけど……」
医者も難しい顔をしたままどっか行ってしまって、何が起きたのかはもはや誰にも分からない感じだった。アンリは未だに騒がしい病院の雰囲気を他人事のように眺めつつ、
「ふ~ん……よく分かりませんでしたけど。上坂も今頃、夢でも見てるんじゃないですか?」
「夢……?」
「私みたいに都合のいい夢を見てるから、起きたくないって思ってるのかも。だって夢の中でくらい、楽しみたいって思うのが人情じゃないですか」
「ははは、まさかね」
彼女はそう言って肩を竦めて見せたが、縦川はそんなアンリの言葉を笑って否定することしか出来なかった。
因みに、実は彼女の予想は大方当たっていた。だが、それを彼らが知るのは、それからまたしばらくの時が過ぎて、上坂が目覚めるのを待たねばならなかった。