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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第三章・上坂一存の世界
65/137

どっか遊びに行こうぜ

 まるで風のようだった……


 苛立ったGBの仲間たちが上坂達に暴行を加えている最中、一人ぽつんと取り残されていた日下部は、逃げるでもなく助けるでもなく、その光景を前に呆然と佇んでいた。


 多分、暴力に弱い彼がビビってしまったんだと思った上坂は、すぐに逃げろと叫んだが、彼は全く無反応で、間もなく日下部が居ることに気づいた男が、ダッシュして彼を捕まえようと腕を伸ばした一瞬だった。


 男の手が伸びた瞬間、すっと彼の姿がかき消えたかと思うと、勢い込んで飛びかかっていった男がバランスを崩し、ドスドスと音を立てて地面に転がった。まさか避けられると思わなかった男が、苛立たしげに立ち上がり、再度日下部に向かって突進する。しかし、今度こそ駄目だと誰もがそう思った次の瞬間……


 ゴッ……


 っと鈍い音が響き、日下部に飛びかかっていった男の方が、何故かその場に崩折れた。


「ガッ……カッ……カハッ……!?」


 腹を押さえて膝をついた男が、突然襲ってきた痛みに目を白黒させている。ヒューヒューと風をきるような呼吸が公園中に響いていた。男の信じられないといった表情が苦痛に歪んだと思ったら、次の瞬間、彼はその場でゲボゲボと胃の中身を吐き出して、地面にもんどり打って倒れこんだ。


 腹を抱えて足をジタバタさせながら、男が苦痛にのたうち回る。日下部はそんな男を冷徹に見下ろしながら近寄っていくと、


「ま、待て! ご、ごめ……!」


 まだ何か言おうとしていた男の顔面に、容赦なくその拳を突き立てた。


 パンッ! っと乾いた音を立てて、顎を打ち抜かれた男が一瞬にして白目を剥いた。多分、脳震盪を起こしたのだろう、失神した男の体がまるで人形みたいに弛緩してだらりと地面に転がっている。


 まるで機械のように、的確な一撃で急所を突いた手腕は、見る人が見なくても明らかに暴力に慣れている者の持つ迫力に満ち溢れていた。日下部は男が失神するのを見届けると、顔色一つ変えずに速やかに標的を次へと変えた。


 脇を締めてファイティングポーズを取る日下部の鋭い眼光が上坂の顔に突き刺さる。味方のはずなのにその視線に射すくめられてしまった上坂が、ビックリして固まっていると、彼を抑え込んでいた男たちも同じように固まった。


 今なら逃げられる。頭でそれがわかってるのだけれど、足がすくんで動かない。そうこうしていると、握りしめた拳を顔の前で構えた日下部が、軽やかな足取りで近づいてきた。


「その人たちを放せ」


 その動作はすごく自然で、ただ悠然と足を動かしてるだけのように思えた。だが、その何気ない動作の一つ一つにすきがない。構えた拳が10メートルも先から伸びてきそうな、そんな重圧を感じさせるのだ。


 日下部は背が低く、そこに居る誰よりも一回りは体が小さかった。だが、そんな小男から放たれるこの威圧感は一体どういうことだろうか。


 初めて会った時、彼は校舎裏で不良達に囲まれてイジメられていた。一方的に殴られて、反抗なんてとても出来ず、オドオドしていた。こっちに来てからも、彼はいつも何かに怯えるかのようにそわそわしていて、とても喧嘩なんて出来るような男には見えなかった。


 それがどういうわけか、今10人からの男たちに囲まれながらも、完全にその場の空気を食って君臨しているのだ。


「その人たちを放せ。今すぐだ。お前たちが触れていい人たちじゃない」


 日下部はファイティングポーズを取ったまま、淡々と近づいてきた。その何気ない足取りにプレッシャーを感じていた男たちは、気がつけばいつの間にか上坂を押さえつける手を放して、彼と同じように両脇を固めてガードの姿勢を取っていた。


 しかし日下部が彼らを射程に捉えると、彼らは冷や汗を垂らしながら、まるでそこに壁でもあるかのように、一歩二歩と後退しはじめる。


 まだ何もされてないのに、その場の雰囲気だけで、体が勝手にさがっていく……そんなありえないプレッシャーに屈辱を感じたのだろうか、


「こ、このやろ! なめんじゃねえっ!!」


 男たちのうち一人がヤケになって叫び声を上げた。彼は自分の叫び声に興奮したのか、体の震えが止まるや否や、すかさず日下部に向かって殴りかかっていった。


 窮鼠猫を噛む。しかし、その猫は小さく見えてもライオンだった。


 日下部より二回りは大きな体躯をした男は、その太い腕を打ち下ろすように日下部に向かって振り下ろした。しかし、日下部はそんな大振りなどアクビが出ると言わんばかりに、ほんの少し体をひねるだけで交わすと、タタタンッタタタンッ! と、リズミカルにパンチを繰り出した。


 そのパンチがあまりに速くて、上坂は目の前の出来事なのに目で追うことが全く出来なかった。ただ、パンパンと乾いた音が響くから、日下部がその拳を男に何発か当てたことだけが辛うじて分かるという始末である。


 殴られた男が鼻血を吹き出し、口から血を吐き出しながら、錐揉みをして吹っ飛んでいく。


 まるで映画みたいに人が吹っ飛んでいく光景を現実で目の当たりにして、上坂は自分が夢でも見ているんじゃないかと唖然となった。


 ドスンドスンと音を立てて、男が地面に転がった。完全に戦意を喪失した男が涙目で日下部のことを見上げていると、仲間がやられたことに激高した次の犠牲者が、よせばいいのにそのライオンに突っかかっていった。


「てめえ! ざけんなよ!? この人数に勝てると思ってんのか!」


 激高して飛びかかっていった男は、それでも数を頼りに脅しをかけるような言葉を口走ったが、それは一人じゃ何も出来ないということを白状してるようなものだった。


 日下部は横から不意打ち気味に飛びかかってきた男のパンチをスウェーして交わすと、脇をしっかりと締めたオーソドックススタイルから、目にも止まらない鋭いジャブを数発放った。それは的確に男の急所を捉え、いきなり体の力が根こそぎ奪われた男が膝をつくと、日下部は今度は上坂にも見えるくらいの大振りのフックを、今度は男のテンプルに叩き込んだ。


 ゴッ!


 ……っと、土のうに石でもぶつけたかのような鈍い音がしたかと思うと、まるでパンチングマシンのハンマーみたいに、男が直角に倒れていった。地面に叩きつけられた男が白目を剥いて、ピクピクと痙攣している。


「その人を放せ。放さないなら次はお前だ」


 日下部がそう凄むと、上坂を掴んでいた男が手をパッと放して後退った。カニみたいに泡を吹いて倒れる仲間を見て、完全に戦意喪失したらしい。


 彼はそれを見て上坂の安全を確認すると、今度はGBの方を向いてファイティングポーズを取った。しかしもうそこには、彼に逆らおうと言うような者は居なかった。


「放せ、そして消えろ。その人はとても良い人なんだ。本当は怖いくせに、イジめられてる俺のことを助けようとしてくれたんだ。そんな優しい人にどうしておまえらは悪いことが出来るんだ」


 日下部が睨みつけると、GBを抑えていた男たちは真っ青になって震えだした。


「この人達は俺にとって大切な人たちなんだ。小さくて、弱くて、いじめられっ子の俺を気遣ってくれる、優しい人たちだ。誰かのために一生懸命になれる、そんな人達なんだ。お前たちなんかに馬鹿にされていい人たちじゃない。お前たちなんかより、ずっと、ずっと、凄いんだ」

「わかった! わかったから! 頼むよ!」

「消えろ、そして二度と俺の前に現れるな。もしも今後、俺達の周りをうろちょろしたら、タダじゃおかない。転がってるやつみたいにしてやる。絶対、絶対、許さない。わかったら、消えろ」

「わかった! わかったよ!」


 日下部に凄まれて震え上がった男たちは、地面に寝転がっている仲間を回収すると、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。公園のすぐ近くに停めていたらしい車がけたたましいエンジン音を立てて遠ざかっていく。


 日下部はそんな彼らのことをファイティングポーズを取ったまま見送っていたが、辺りに静けさが戻ってくると、ようやく構えを解いてだらりと腕を下ろした。


 あとに残された上坂とGBがお互いの顔を見つめる。あまりにも想定外の出来事に、2人とも何を言って良いのか分からなくて、ただただ、脱力するようにその場に立ち尽くす日下部の後ろ姿を見ていた。


 そりゃそうだろう。何しろ、彼と初めて出会ったのは、2人が転校してきた初日、校舎裏での出来事だった。あの時、日下部は不良達に好き放題殴られて、助けてやったら弱々しい表情で何度も何度も頭を下げていた。


 もちろん多勢に無勢ということもあっただろうが、人数だけなら今日の方がずっと多かった。部活のために手が出せなかったのかも知れない。でも、これだけの力がある男が、どうしてあんな連中相手にずっと好き放題やられなきゃならないのだ。おかしいではないか。


 上坂とGBがどちらからともなく目配せし合う。多分、同じ疑問を抱えていたのだろう。だけどどっちも声をかける勇気が持てなくて、お互いに目だけで相手に譲り合っていると、突然、日下部がブルブルと震えだしたかと思うと、ハァハァと息を荒げながら、いきなりその場から走り出した。


 唖然とする上坂とGBは、戸惑いながらもすぐに彼の後ろ姿を追った。もしかして、暴力を振るう姿を見られたくなかったんじゃないだろうか。このまま逃したら、もう彼と面と向かって話すことが出来なくなるんじゃないか。上坂達はなんとなくそんな気がして、逃げる日下部の背中を必死になって追いかけた。


 だがどうやら、その予想は半分当たりで半分は間違いだったようだ。2人が追いかけていくと、日下部はすぐに近くにあった水飲み場に駆け寄って、その側溝に向かってゲエゲエと吐き出した。


 彼は涙を流しながら、ひいひいと情けない泣き声を上げ、鼻水を垂らしてゲエゲエと胃の内容物を側溝にぶちまけている。真っ青になって、体はブルブルと震えていて、涙と鼻水とゲロが混じった顔はグシャグシャで見る影もない。


 上坂達は驚いて彼に駆け寄ると、胃の中身を吐き続ける日下部の背中を擦った。彼はもう周りを気遣う余裕もなく、ただ吐き出すものがなくなるまで、いつまでもゲエゲエと吐き続けた。

 

***************************


 胃の中身を全部ぶちまけた日下部は、暫く放心状態のままその場で項垂れていたが、やがて落ち着きを取り戻すとぽつりぽつりと自分の過去を話し始めた。


「俺、子供の頃から、体が小さかったんです。おまけに早生まれだったから、クラスメイトはみんな自分より大きくて……だから、今も昔もずっとイジメられてたんですよ。その頃から俺は負けん気が強くて、やられたらやりかえしてました。でも小さいからいつも返り討ちにあって、それがおかしいから更にイジメられるって悪循環で、とにかく酷い子供時代でした。


 そんな時に親父が死んで、俺は施設に入れられました。養護施設に入ってくる奴らって、みんな大抵親となんかあってイライラしてたから、俺は施設の奴らからもイジメられてたんです。けど、ここで負けたらもう後がないって、その時なんか覚悟が決まっちゃったんですよね。こいつらは親が死んだわけじゃない。借金もないし、いざとなったら帰る家があるじゃないか。でも俺にはもうそんなもん無いから、ここで負けたら死ぬしか無いって。


 それからはもう必死でした。殴られたら絶対倍にして返す。相手が何人いようが関係ない。今日負けても、絶対勝つまで復讐する。そうやって俺は、俺をイジメてきた奴ら全員に報復を果たし、中学の頃にはもう俺に手出しする奴らは居なくなりました。でも、そのかわりに俺に近づいてくる人もいなくなって、俺は何をするにもいつも一人になってしまいました。


 そんな時、別の学校に通ってたやつに声かけられたんです。そいつんちはボクシングジムを経営してて、そいつ自身もボクシングをやってたんですけど、俺が近隣の中学生に怖がられてるって噂を聞いて興味を持ったらしくて、ある日俺んとこやってくると、良かったらうちで一緒にボクシングしないかって誘ってきたんです。


 中学を出たら、いずれ施設も出てかなきゃなりません。ボクシングは17歳からプロになれるっていうのも好都合でした。いつも喧嘩ばかりしていた俺は、教師や施設の職員の勧めもあって、ボクシングをやり始めたんです。俺はそいつんちのジムに通うようになって、俺たちはすぐに親友になりました。


 中学からボクシングを始めた俺は、アマチュア界ではそこそこ知られるようになっていて、高校進学時には道内の強豪校からうちに来ないかって誘われるようになりました。寮があったのと、親友が一緒に行こうって言うから、俺はその学校に進学しました。練習はきつかったけど、格闘技なんて元々そんなもんでしょう。先輩たちもガラが悪かったけどいい人たちで、不満のない日々でした。


 でも、そんな中で唯一困ったのが減量だったんです。俺たちはちょうど成長期でしたから、どの階級にウエイトを合わせるかってことで、いつも悩まされていました。それで、俺と親友はちょっと目測を誤ったでしょうね。去年の夏、2人とも大会前だってのに、体重が落ちなくってフラフラになりながら練習する日が2週間位続いたんです……


 その日は、暑い日でした。北海道でも30度を超える日が何日も続いて、クーラーの無い練習場はサウナみたいでした。俺と親友はそんな中で、朝から飲まず食わずでスパーリングしてたんですけど……階級差もあって、俺は親友に勝てなくって、元々の性格もあって、しつこくスパーを続けてたんです。先輩たちもいい加減にしとけよって感じだったんですけど、俺がムキになって。そんな状況だったから、2人とも熱中症みたいになってて……フラフラで……俺がこう、パンチを出した時に、覚えてないんですけど、多分、あいつはリングに落ちてた自分の汗に足を取られて……」


 その瞬間を思い出しながら告白する日下部の言葉は、やけに遠回しで要領を得なくて、理解するのは難しかった。だけど、ちゃんとした言葉になっていなくても、なんとなく雰囲気だけで、その時何が起きたのかは察することが出来た。


 恐らく、日下部が何気なく出したパンチに汗で滑った親友が突っ込んで、想像以上の衝撃が彼の頭を襲ったのだろう。もしくは首が折れたのかも知れない。とにかく、日下部の繰り出したパンチによって、彼の親友はリングに崩れ落ちたのだ。


 日下部は、その時のことを思い出したのか、プルプルと震える拳を見つめながら、涙を流し、しゃくり上げるように吐露した。


「俺は……暴力が怖い……怖くて仕方ないんです……人を殴るのが」


 彼はグシグシと鼻を鳴らしながら、流れる涙を必死に手で拭った。


「俺の拳は、人を殺す感触を知っている……それはほんのちょっとの違いだけで、実は誰だって、下手をしたら人を殺してしまうかも知れない可能性を秘めているんだ。なのに、どうして人は平気で暴力を振るうんでしょうか。弱いものを叩きたくて仕方がないんでしょうか。人を叩いて、強くなって、支配して、その先に何があるって言うんでしょうか」


 上坂は日下部に初めて会った時のことを思い出した。あの時、上坂は自分の能力が発動仕掛けたことを、GBが内心ではイジメを止めたがってるからだと思っていた。でも違った。あの時、彼が察知した嘘とは、日下部が不良にイジメられているという光景そのものだったのだ。


 日下部は、その気になったらあんな連中にやられるわけがないのだ。実際、彼は殴られてもなんとも無かったのだろう。逆に不良連中は、いくら殴ってもケロリとしている日下部に対し、不気味なものを感じていたのかも知れない。それで、イジメはどんどんエスカレートしていった。


 外田はだからあの時、周囲が引いてしまうくらい激怒したのだ。彼は日下部の過去を知っていた。かつて親友を事故で殺してしまい、暴力を極端に恐れていることを。でなければ、外田が日下部をスカウトすることはないだろう。日下部は小さくても、体力があって、動体視力とパンチ力も申し分ない。こんなやつが過去の傷を抱えて燻っていたら、声を掛けたくもなるというものだ……


 いい先生ではないか。高圧的で、すぐに手を出すけど……あれはあれで、良いところもあったんだなと上坂は思った。


「俺は暴力が怖い……でも、そのせいで先輩たちに迷惑かけて、すみませんでした」


 やがて興奮状態から抜け出した日下部が独りごちるように言った。何を言ってるんだろうと首を捻ってると、彼はこう続けた。


「本当なら、俺が頑張ってやり返せば、あんなことにはならなかったんです。俺が暴力に屈して、いいなりになっていたから……」


 上坂とGBはお互いに目を見合わせ、目をパチクリさせた。なんでこいつが謝ってるんだ、馬鹿馬鹿しい……上坂はそう思い、彼に慰めの言葉を掛けようとした時、それを制するかのようにGBの方が先に口を開いた。


「いや、良かったよ。やっぱりあの時、勇気をだしてやめろって言えて」


 日下部が顔をあげる。GBはそんな彼に向かって、表情を変えず当たり前のように、


「イジメって勝ち負けじゃないだろ? やり返しても気分悪いし、やる奴が一方的に悪いんだよ。もしあの時、俺が助けに入らなくて、今日みたいにおまえが暴力を振るわなきゃならない状況になったら、きっとそっちの方が傷ついたんじゃないか。だから、そうならなくって良かったんだよ」


 まるで神様でも見るような目つきでGBを見上げる日下部の姿を見てると、たった今、どっちが助けられたんだかわからなくなって、少し笑えてきた。上坂とGBはまたお互いに目配せし合うと、どちらからともなく苦笑を漏らし、


「まあ、それで勝てればもっと格好良かったんだがな」

「俺たち弱いもんなあ」


 と言って笑った。


 人気のない夜の公園に男たちの笑い声が響き、さっきまでの暗い雰囲気はどこかへ消し飛んでしまったかのようだった。


 日下部はそんな2人の先輩に囲まれて、一人だけ涙を流していたが、それはもう苦しみの涙ではなく、いい人たちに巡り会えたことに対する感謝の涙だった。


「それじゃ、帰ろうか……ここじゃない、元の世界に」


 ひとしきり笑いあった3人は、しばしの沈黙の後、誰からともなく立ち上がり、公園を出ていくために歩き始めた。そんな中、GBが徐ろにそう口走ると、上坂は驚いて聞き返した。


「いいのか?」

「良いも悪いも、それを説得しに来たんだろ」

「まあ、そうだけど……あの馬鹿どもはともかく、こっちに残ればタレントは続けられるんだぞ」

「いいんだ。実はタレントにはそれほど未練は無いんだ」


 GBはため息を吐くと、後の言葉を呟くように続けた。


「俺はこっちに残りたかったんじゃなくって、あっちに帰りたくなかったんだよ。あっちに帰っても友達も居ないし、家族はあんなだし、学校行ったら行ったで……外田とか不良が怖いしなあ。でも、友達だと思ってた奴らが実際にはあんな奴らだったって知って吹っ切れたよ。前々から変だと思ってたんだよ。でも、そう思ってないとやってられなかったからさあ……実はあっちでもあいつらYouTubeチャンネルの仲間だったんだよね」

「そうだったのか?」

「ああ……俺がYouTube始めたのは中学時代にさあ、クラスの奴らにやれやれってけしかけられてさ、よくあるじゃん、無理めな女に告っちゃえよみたな感じ。俺、断れなくってやり始めたんだけど、そしたら俺がテンパってる姿が意外とウケてさ……


 自分に超能力があるって分かったのもこの頃でさ、どんどんチャンネル登録者数が増えてったら、クラスの奴らが一緒にやりたいって言い出して……そのうち、先輩とかも連れてきて……今のメンバーに固まってったんだ。みんな俺のこと年下なのに友達って言ってくれるし、クラスの奴らにも一目置かれるし、俺のファンだってのまで出てきたらもう嬉しくってさ。もっと期待に応えようとして、無茶ばっかするようになってったんだ。


 でも、悪さしすぎちゃって、ある日たまたま店に居た警察に捕まっちゃってさ。そん時、すげえ説教されたんだけど、懲りずにまた死んだユーチューバーの葬式に凸しに行ったんだ。仲間にやれって言われて……」

「ああ、あれってそういう理由だったの?」


 GBは鷹宮栄一の葬式のことを言っているのだ。あの時、上坂はたまたま鷹宮家の近くに居たGBを連れて来いと下柳に言って、その後の騒動で事なきを得た。GBはその後、また下柳に説教されたのだが、警察は一番悪いのは誰であるかが分かっていたのだろう。グループの連中に、もうGBには近づくなと警告をしたことで、あっちのGBのYouTubeチャンネルは解散となった。


「そんなだったくせに、俺、一人になったら何やっていいか分からなかったんだ。刑事に言われて仕方なく学校通い始めても、勝手が分からなくって、いつも一人でオロオロしてた……話し相手なんておまえくらいしかいなかったしな。


 でも、こっちに来たらまた昔の仲間が居てさ、俺はあっちよりもずっと人気のユーチューバーで、みんなが友達友達って言ってくれるのが嬉しかったんだよ……共通の口座作ったり、テレビ出演のギャラまで折半させられるのはなんかおかしいって思ったけど、友達ってお互いに利用し合うところもあるだろ? ならいいかなって」

「いや、そんなことないだろ」

「俺はそう思ってたんだよ。だから、今日言われるまではそんなに変だと思わなかったんだ。でも、今はもう、そう思ってないよ。利用されるのはゴメンだし、利用するのだってゴメンだ。おまえの言うとおりだ。友達友達って、口先ばっかの奴らは見返りばっか求めてきて、全然信用出来ないんだな」


 GBは始めは嘆くようにそう言っていたが、すぐにその表情は苦笑に変わっていき、終いには寧ろ清々しいものになっていた。彼は言った。


「だからもう未練はない。あっちに帰るよ。それに、おまえらもあっちに帰るんだろ?」


 上坂は頷いて、


「ああ、俺はあっちに帰りたい。こっちには本物の家族がいて、それは掛け替えのないものかも知れないけど……それでもあっちには先生がいるんだ。エイミーがいて、雲谷斎がいて、もう一度会いたい人たちが何人もいる。確かに、俺の人生はろくなもんじゃなかったけど、だからってそれを無かったことにするなんて出来ないよ。俺はあの人達がいたから今の自分になれたんだ。だからやっぱり、あの人達に会いたいんだ」


 すると、それを聞いていた日下部が、話の腰を折るのは申し訳ないと言った感じに、


「でも、帰るって言っても、どうやって帰るんですか? 今ん所、まだ帰り方分かりませんよね」

「まあな。でも、それほど悲観してはいないんだ」

「どうしてですか?」


 上坂はそんな日下部に向かって力強く言った。


「多分、GBも日下部もそうだろうけど、これだけ世界が変貌しても、自分はやっぱり自分なんだ。だから今は能力が使えなくっても、いずれ俺はあっちと同じ能力を使えるようになるだろう。そしたら多分、解決するんじゃないか」

「そう、上手くいきますかね」

「駄目なら駄目で、汎用AIの開発を急ぐよ。先生が言うには美夜は平行世界の全てを見通せるらしいから、こっちで彼女のプロトタイプを作り上げたら、きっと彼女が俺のことを見つけてくれる。そうしたら向こうの先生と連絡を取れるかも知れないから、あとは彼女がなんとかしてくれるだろう」

「その先生ってのはよっぽど頼りになるんだな」


 上坂が無邪気にそう言うと、それを聞いていたGBが感心したように呟いた。上坂はその言葉に強く頷くと、


「ああ、何しろ先生は天才だからな。ホントなら、もっと表舞台で活躍を認められてるはずの人なんだ。ノーベル賞だって夢じゃないぞ」

「へえ、おまえがそんな風に言うんだから、よっぽど凄いんだな。一度会ってみたいもんだ」


 GBがそう言うと、上坂は嬉しくなって、


「そうか? だったら一度寺に遊びに……」


 と、言いかけたときだった。


 ズキン……


 っと、彼の脳に鋭い痛みが走り、途端に全身に冷や汗が吹き出した。


 ドクンドクンと心臓が激しく鼓動を打ち、走ってもいないのに呼吸が乱れていく。彼は体中の筋肉が弛緩していくのを感じ、その場にヘナヘナと腰を下ろした。


「……おい!? どうした、上坂!」

「先輩! 大丈夫ですか!?」


 上坂が地面に崩れ落ちそうになると、慌てて2人が駆け寄ってきて彼の体を支えた。上坂は激痛に耐えながらそんな2人に向かって何とか愛想笑いを作ると……


「まいったな……」

「何がまいったんだ!?」

「まいった……どうやら、俺の能力ってもんは、やっぱり相当破格らしい……」


 ズキンズキンと脳の痛みがピークに達する。物を考えることすら出来ないほどの痛みに、上坂の視界が徐々に暗転していった。


 GBと日下部が何かを叫んでいたが、もうその声はほとんど聞こえない。だが、雰囲気から彼らが上坂のことを必死に介抱しようとしていることが分かり、彼はその行為に感謝すると、最後の力を振り絞ってこう言った。


「帰ったら、どっか遊びに行こうぜ」


*******************************


 次の瞬間、彼を襲っていた強烈な痛みはスッと途切れて、代わりに寝心地がいいベッドに寝転がっているような感触がした。


 耳元で誰かが叫んでいる。誰かが体を揺すっているのを感じる。だが覚醒したばかりの頭では上手くそれを捉えられない。上坂はやけに強い倦怠感を感じながら、ぐったりする体を起こそうとしたが身動きが取れず、挫折して目だけを開けて周囲の様子を窺った。


 視界が晴れ、そして彼の目に最初に飛び込んできたのは、白木恵海の整った美しい顔だった。


「いっちゃん! 良かった!」


 彼女は上坂が目を覚ましたことに気がつくと、大粒の涙を流しながら破顔して、彼の体をギュッと抱きしめた。不意打ち気味に最愛の人に抱きつかれた上坂は、口から心臓が飛び出てしまいそうなくらい驚いたが、すぐに状況を察すると、心配してくれていた彼女に対して申し訳ないという気持ちと、優しい気持ちが胸に溢れていくのを感じるのだった。


「びええ~ん! 神様の寝坊助なのれす~!」


 ドンッと腰に鈍い衝撃が走って、今度は逆の方向から美夜が彼の体に抱きついてきた。美夜は泣きべそをかいて彼にすがりつくと、垂れ流していた鼻水を彼の腰の辺りでちーんとかんだ。


 やめてくれ……とツッコミを入れたかったが、右から左から抱きつかれて、うまく声が出なかった。体がさっきから異常なほど倦怠感に包まれているのは、恐らく彼が暫く寝たきりだったせいだろう。


「上坂君、気がついたのか!」


 2人に若干遅れて、部屋にいたもう一人の人物が素っ頓狂な声を上げた。


 美夜たちと見舞いに来ていた縦川は、偶然彼の目覚めの瞬間に立ち会って、驚いているようだった。上坂が右から左から抱きつかれてグラグラ揺れながら、助けるような視線を縦川にむけると、


「2人とも、上坂君は病み上がりなんだから、もっと優しくしてあげて」


 縦川がそう言うと、恵海は自分がはしたなく上坂に抱きついていることに気がついて、急に恥ずかしくなったのか、パッと彼から体を離し、顔を真っ赤にしてもじもじと体をくねらせた。その目尻が腫れ上がっているのは、多分、泣いていたのは今だけじゃないからだろう。


 他方、美夜はびえんびえん泣きながら今も腰の辺りに鼻水をこすりつけており、上坂は汚いなあ~……と思いつつも、この子も心配してくれたんだからと思って我慢することにした。


 上坂は恐らくここは病院の一室だろうと見当をつけたが、部屋を見回しながら念の為縦川に確認した。


「ここは?」

「大田区の病院だよ。美空島(メガフロート)のすぐそばにある。君は友達のジーニアスボーイのお見舞いをしている最中に、突然倒れたんだ」

「そうか、じゃあ意識を失ってから場所は変わってないんだな」


 上坂がケロリとした表情でそう言うと、縦川は目をパチクリさせながら、


「なんだか君はあんまり驚いてないようだね。目覚めたばっかりであんまり自覚がないのかな。でも自分の身に何が起きていたのか知ったら、きっと驚くぞ。実は上坂君、君が倒れてから実に……」

「一週間経ったんだろ? その間、一度も目覚めなかったから、きっと医者は眠り病って不治の病だと言ったはずだ。大方、そんなところじゃないか?」

「え!? ……う、うん。どうしてわかるんだい?」


 縦川は、どうして目覚めたばかりの上坂がそんなことを知っているんだと言った感じで目を白黒させている。


 彼からしてみれば不思議だろう。こっちの世界で上坂は一週間寝たきりで、たった今目覚めたばかりなのだ。だが、実際の彼はその間、ずっと眠っていたわけではなく、あっちの世界でもとに戻る方法を探して足掻いていたのだ。


 上坂はさもありなんと言った表情で言った。


「やっぱりそうか……実はね、どうやら、今回も俺の能力が発動していたらしい。こっちに帰ってきたことでそれが分かった」

「能力だって?」

「うん、今回はちょっと毛色が違って変なことになってしまったけど、実際にはいつもの俺の能力が発動しただけだったんだろう」


 上坂はそう言うと、あっちの世界で目覚める直前の出来事を思い出すように、自分の身に起きた出来事を話し始めた。


「俺の能力は世界改変……あの時、GBの容態を医者から聞かされていた俺は、こんな理不尽な世界はありえないって憤っていた。その世界を変えたいという気持ちが能力を発動し、その瞬間に俺の魂はこの世界から分離したようだ。それで雲谷斎たちには俺が寝たきりになったように見えたんだろうけど、実はこっちで眠っている間、俺の魂は別の世界にあり、そこに居たGBを説得するために行動していたんだ」


 どうしてこんなことになったのか、それはGBが眠り病に罹ったことが最大の理由だろう。


 例えばあっちで出会った眠り病の患者は、みんなそれぞれの事情を抱えていた……GBはこっちの世界で孤独を感じており、兄はこっちの世界で事故死しかけて、そしてテレーズは東京インパクトに巻き込まれ……みんな一度はこの世界に絶望して、この世界を捨てた人たちだったのだ。


 上坂は世界改変能力を持っている。だからGBが眠り病にならない平行世界に移動してしまえば、それで問題は解決するはずである。だが、実際にそうしようとすると何が起こるだろうか。


 彼が眠り病になる直接の切っ掛けであった、校舎裏での事件をなかったことにしたところで、それは一時的なことで、根本的な解決にはならないだろう。彼も言っていたように、また別のイジメっ子が現れて、また似たようなことが起こる可能性があるからだ。


 だから上坂がこっちに戻ってくるには、世界に絶望してもうこっちの世界に帰りたくないと言っていたGBを説得しなければ、問題が解決したとは言えなかったのである。


 上坂は始めその条件が分からず、諦めて別の方法を探ろうとした。だが、日下部は最後まで諦めないでGBを説得しようとし、その結果、体感時間でついさっき、上坂と日下部の2人に説得されたGBがこっちに戻ろうと決意したため、晴れて上坂は条件を満たして元の世界に戻ってこれたわけである。


 こう考えてみると、日下部があっちに居てくれたのは、上坂にとってもギリギリの安全弁だったのだ。もしも彼がいなければ、今頃上坂はまだあっちの世界で、立花倖と白木恵海が死んだことに絶望しているところだろう。日下部は多分、上坂の能力に巻き込まれたのだろうが、今にして思えばそれは偶然ではなく、必然だったのかも知れない。


 病室のベッドの横には、潤んだ瞳の恵海が立っていた。上坂は、彼女のいない世界に取り残されないで本当に良かったと、心の底からそう思った。


 なにはともあれ、上坂が起きたと言うことは……


「雲谷斎。俺が目を覚ましたってことは、多分、GBと日下部の2人もそろそろ目を覚ますはずだろう。御手洗さんが心配してるだろうから、彼に連絡してくれないか?」


 上坂がそう言うやいなや、病室の外が急に騒がしくなり始めた。医者や看護師がバタバタと走り回り、患者が目覚めたと大騒ぎしている。縦川はその様子をドア越しに確認すると、いよいよおかしなことが起こり始めたぞと、眉を顰めながら、


「まるで何もかもお見通しのようだ。不思議な話だけど、どうやら君の言う通り、君はただ眠っていただけじゃないみたいだね……詳しい話を聞きたいとこだけど、今は病み上がりだし、また今度にしよう」

「そうしてくれるか?」

「それじゃ、御手洗さんに電話してくるよ。病室じゃ通話禁止だからね」

「ああ! それからもう一つ! 御手洗さんに電話するとき、聞いて欲しいことがあるんだけど……」

 

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 上坂が目を覚ました。御手洗がその一報を聞いたのは、都知事の改選が迫っており、都議会とのダブル選に挑むホープ党の若手議員が集まって、来る選挙のための決起集会をしている最中のことだった。


 若手のリーダー格を務める御手洗が壇上で演説をしていると、会場に秘書の山田が息せき切って駆け込んできた。会場の入り口でイライラしながら御手洗の演説が終わるのを待っている彼の姿を見ていたら、御手洗は何か緊急事態が起きたのだろうと察したが、かと言って大事な決起集会を蔑ろにするわけにもいかないので、彼は努めて平静を装うと、最後まで落ち着いた声で演説を終えた。


「なんですぐに知らせてくれないんですか!」

「演説中に乱入できるわけ無いでしょうが!」


 演説が終わり駆け寄ってきた秘書に事の次第を聞いた御手洗は、思わず非難するようにそう叫び、すぐさま反論されてしまった。御手洗にとって上坂の回復はこの一週間、最大の懸案事項だったのだ。


「と、とにかく、病院に向かいますよ。上坂くんの容態は? 眠ってる最中に、何か体に異常が出ていたりとかしてませんか?」

「それが……医者が言うには至って健康だそうです。それどころか、彼は目覚めてからすぐに病院内を歩き回ってるそうなんですよ」

「なんだって!? 人の気も知らんと……あ、いや、元気ならもちろんそれでいいんですけど」

「言いたくなる気持ちも分かりますよ。それから、彼と一緒に昏睡状態にあった友達も目を覚まして、今じゃケロリとしているそうです。よくわからないんですけど……これって、もしかして、上坂一存の能力に関係があるんでしょうかね?」

「……さあ……そうなのかも知れないし、そうじゃないのかも知れないし……」


 秘書の山田は呆れるように首を振りながら、ため息混じりに言った。


「眠り病って一体何なんですかね?」

「わからない……わからないですけど……」


 上坂に限っては、そんなもの初めから心配する必要はなかったのだろう。


 ホープ党にとってアメリカと交渉をする際の切り札である上坂の存在は、無くてはならないものだった。故に、彼がドイツに行きたいと言っても、絶対阻止しろと都知事は反対したのだが……ところが上坂が眠り病に罹ってしまったこの一週間、彼女は不気味なくらい静かで、御手洗だけが空回りしている状態だった。


 どうしてあの小心で、小うるさいだけの知事が平気でいられたのか……曰く、預言者が言うには、上坂は放っておけばそのうち目を覚ますらしい。彼女はそれを信じて、慌てることなく時を待ち続けていたのだ。


 もちろん、御手洗にもその話は伝えられていた。だが、彼はそんなこと信じられず、もう2週間も眠り続けているGB同様に、上坂もいつまで経っても眠りから覚めないんじゃないかと心配していたのだ。


 だがそれは要らぬ心配だったということだ。


 ホープ党本部からいつもの黒いリムジンに乗って病院へ向かう。つい最近、ようやく再建設が始まったばかりの首都高湾岸線の下道を通って、大田区の旧大森地区まで車を飛ばした。


 決起集会が長引いて、辺りはとっくに日が沈んで暗くなっており、時計を見れば間もなく10時を指そうとしていた。


 病院はとっくに消灯時間だったが、ところが、病院に到着して玄関をくぐると、まるで昼間の外来がまだ続いているかのごとく、病院関係者たちがてんてこ舞いで飛び回っているのが見えた。


 恐らく、不治の病だと思われていた眠り病の患者が、突然3人も目覚めたことから、都内のあちこちの病院からも視察が来ているのだろう。白衣を着た上坂の担当医が、背広の集団に囲まれて、何やら難しい顔でディスカッションしている。


「御手洗先生! やっとおいでですか!」


 上坂の担当医が、そんな御手洗の姿を見つけて小走りに駆け寄ってきた。御手洗は彼を取り囲んでいた人たちに申し訳なさそうに目礼を返すと、やってきた医師の方へと向き直り、


「大変遅れて申し訳ない、それで、患者の容態は?」

「ええ、それが驚いたことに、本当に健康そのものなんです。本来、あれだけ眠り続けた患者が、こんなに元気なんてことはありえないんですが……」


 それが眠り病というやつの特性なのだろうか……それを克服した者がいない現状では詳しいことはわからないが、上坂が突然罹患したかと思えば、あっと言う間に治ってしまったところかして、もしかするとこれは病気ですら無いのかも知れない。


 御手洗は医師に向かって頷くと、


「なんにせよ、健康なのはいいことですよ。もう、普通に喋れるんですか? それじゃ、早速会いに行きましょうか」


 と言って、一般病棟の方へと歩き出した。


「どこ行くんですか、御手洗先生、そっちじゃないですよ」


 すると逆方向に歩きかけていた医師が、御手洗がついて来てないことに驚いて、素っ頓狂な声を上げた。彼が向かおうとしていたのは一般病棟とは反対の特別病棟の方で、こっちは重篤な患者が入院している、いわば隔離病棟だった。


 暫く来てない間に、移されたのだろうか? 戸惑いながら尋ねると、医師は眉を顰めながら、訝しげな表情で、


「いいえ……? 移動なんてしてませんよ? 出来るわけがないでしょう?」


 そう言いながら、特別病棟のエレベーターの開閉ボタンを押した。


 チーンと音が鳴って扉が開く。御手洗は医師に続いてエレベータに乗り込むと、操作パネルの最上階のボタンが点灯しているのを確認した。実はこの病棟には何度も訪れたことがあった……何年も前から入院している、とある人の病室があるからだ。


 彼がそんなことを考えていると、


「あれ……? もしかして、話が噛み合ってませんか? 御手洗先生の言う、患者ってのは上坂君のことですか?」

「他に誰がいるって言うんです……?」


 すると医師は得心言ったと言わんばかりの苦笑を作り、


「秘書の方から聞いておられなかったんですね。上坂君なら、目を覚ますなり普通に歩き回ってて健康そのものですよ。簡易検査も終わって、明日にでも退院出来るくらいです。私が言ってるのは、そんな彼が起こしたもう一人の方です」


 だから、そのもう一人とは誰のことだと、少し苛立ちながら御手洗が尋ねようとした時……


「あー!!」


 と、突然、秘書の山田が素っ頓狂な叫び声を上げた。真横で聞いてしまった御手洗が、キンキンと耳鳴りがする耳を指で塞ぎながら、迷惑そうに彼のことを見ると、秘書は真っ青になりながら、


「そうでした。上坂一存が目覚めるなり、電話がかかってきて、その時におかしなことを尋ねられたんでした……でも、そんな……まさか……?」

「一体、何なんです?」


 御手洗が焦れったいと言わんばかりのジト目で彼のことを見ると、秘書は失敗を見つかってしまった子供みたいに絶望的な表情を作りながら、


「実はそのとき、こんなことを聞かれたんですよ。ローゼンブルク大公のお孫さんの居場所を知らないかって……」

「……なんですって?」

「それで、確か同じ病院に入院してるんじゃないかって言ったんですけど……言っちゃまずかったんですかね?」


 チーンと音が鳴って、体が軽くなった。エレベーターは最上階に到着し、扉が自動的に開かれた。


 御手洗は呆然とした表情でエレベーターを下りると、ストレッチャーが通りやすいように広く取られた廊下を早足で歩き出した。それは徐々に速度を上げていき、やがて駆け足に変わると、後ろからついてきていた医師が、


「御手洗先生、病院内ではお静かに!」


 と迷惑そうに叫んだが、御手洗の耳には、もう届かなかった。


 御手洗は2人を置き去りに特別病棟の廊下を走ると、曲がり角を曲がってテレーズの病室の前の廊下までやってきた。その病棟は重篤な患者が多く、時間が時間だけに人の気配がまったくなくて異常なくらい静かだった。


 だが、今はその長い廊下の奥に人影が見える。御手洗が近づいていくと、それは僧侶の縦川で、彼は御手洗がやってきたことに気づくと、いつものような愛想のいい顔で会釈をしてきたが、その時の御手洗にはもうそんなことに構っていられる余裕がなかった。


 バン!


 っと盛大な音を立てて、特別病棟の一室が開けられた。瞬間、開け放たれていた窓から風が吹き込んで、パタパタとカーテンを揺らした。それが部屋を覆うように御手洗の視界を奪い、彼が焦れったそうにそのカーテンを追いやろうと病室内に入っていくと、視界の片隅にありえないものが見えた。


 病室にはベッドが一つだけあり、普段なら起こされることのないリクライニングが、何故か今は起こされている。


 そのベッドの脇に置かれたパイプ椅子に白髪渋面の青年が腰掛けており、やってきた御手洗の顔を見るなり、呆れるように肩を竦めると、ニヤリと口角を上げた。そんな彼の隣には、あの日彼と一緒に眠りに落ちた日下部という少年が、まるで旧友にでも会ったかのような親しげな笑みを浮かべて御手洗のことを出迎えた。


 そして最後……ベッドの上に、信じられない人が座っていた。彼がその目覚めを待ち焦がれて止まなかった、文字通りの眠り姫である。


「御手洗先生、少しお痩せになられましたか?」


 その日、5年ぶりに目覚めたマリー・フランソワーズ・テレーズ・デュ・ローゼンブルクは、御手洗を見るなり開口一番そう呟いた。その瞳は5年前と同じ、青くて透き通るような美しさだったが、自慢のブロンドは真っ白く染まり、健康的だった肌ツヤはかさついていて、手足は棒のように細くなってしまっていた。


 だけどベッドの上で恥ずかしそうに上着の前を手で抑える彼女の仕草は、5年前の彼女のそのままだった。彼は眼の前に居る彼女の姿が、かつて見た彼女の姿と重なって見えて、まるで夢でも見ているような錯覚を覚えた。


「テレーズは、お変わり無く。相変わらずお美しいですね」


 すると彼女は真っ赤になって、頻りに髪の毛を弄りながら、


「先生は日本人のくせに、恥じらいが足りませんよ」


 と言って、恥ずかしそうにそっぽを向いてしまった。


 そんな彼女の姿を愛おしく思いながらも、御手洗は思い出していた。


 まもなく救世主が現れて、御手洗の悲願は成就されるだろう。その救世主とは上坂一存のことであり、彼をこの国に留めておくことが出来れば、この国は安寧を手にすることが出来るだろう。彼はこれからの時代に必要な人材であり……これから起きる災いと戦うために、神に遣わされた救世主なのだ。


 預言者の言う通り、御手洗の願いは今目の前で成就した。彼の悲願……いつか治療が可能になるまで、テレーズを生かし続けること……上坂一存は、まるでイエス・キリストの奇跡みたいに、不治の病を治してしまった。


 御手洗はその奇跡に感謝すると共に、ほんの少しばかり、目の前の青年のことを恐ろしいと思ってしまった。


 それが人間が神に対する畏れであることに彼が気づくには、そう時間はかからなかった。


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